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そっと寝室を覗くと、航平はクロゼットの鏡の前に立って白っぽいネクタイを締めているところだった。うまくできないのか舌打ちをしながら乱暴にネクタイを外した。
達也に気づき、よう、と顎を一瞬上げてみせてから再びネクタイを首に回し、眉をしかめながら慣れない手つきで奮闘し始める。
達也はにやりとしながら航平に近づき、鏡からさえぎるように彼の目の前に立った。航平は驚いたように手を止めて瞬きをする。だがすぐに照れた笑みを浮かべ、ネクタイから手を離して達也にゆだねた。
「しっかしまだ信じられないな、あの祥子ちゃんが結婚なんてさあ」ベッドに腰掛けて靴下を穿きながらどこか感慨深げに航平が言う。「しかも八月には母親になるんだもんな」
「ああ、ほんとだよ。俺も伯父さんだ」
達也はズボンのポケットに両手を突っ込んでクロゼットに寄りかかっている。
「おまえ、相手の男には会ったのか?」
「ああ、二週間くらい前に。・・言ってなかったっけ?」
「いや」
「そうか。・・結構意外だったよ。祥子は相当の面食いだと思ってたのにさあ。・・俺より年上だしな」
祥子の夫になる島津康彦という男は、彼女と同じ外資系保険会社の財務部でディーラーの職務についている二十九歳のやり手だ。だが背はあまり高くなく、顔もどちらかというと平たい感じだ。航平やタケイのような男に夢中になってきた祥子が、最終的にこういう男を選んだということが達也には興味深かった。
「でもまあ、真面目そうだったな。祥子みたいなやつにはちょうどいいよ」
航平は達也に顔を向けてにやっと笑った。それからベッドの上に置かれた黒いスーツのジャケットを手に取りながら、じゃ行くか、と立ち上がる。
「ああ。祝儀袋、持ったか?」
ジャケットに腕を通している航平に問いかけると、ああ、と答えながら彼は左胸の辺りをぽんぽんと叩いた。
式場に着き、達也は母たちを探して航平と一緒に新婦用の控え室を訪れた。だが部屋の中にいたのは父だけだった。椅子に座って難しい顔で腕を組み、片方の足を貧乏揺すりしている。緊張しているのだろう。
「おお、達也。・・航平くんも来てくれたのか」
ぎこちない笑みで父が言った。
「本日はおめでとうございます」航平が丁寧に頭を下げる。
「ん、ありがとう」
「母さんは?」
「ああ、祥子のところだ」
そこへ黒い和服を着た母が忙しげな様子でやって来た。
「達也、ちょうど良かったわ。今お父さんにあなたのこと探してきてって頼もうと思ってたの」
達也にそう言い、それから母は航平に目を移してぱっと笑みを広げた。
「航平くん、よく来てくれたわね」
航平は母にも同じように、おめでとうございます、とお辞儀をする。ありがとう、と微笑み、そして母は頬に手を当てながらしげしげと航平を眺める。
「航平くんのスーツ姿見るの、初めてだわ」
「俺になんか用なの?」
達也がぶっきらぼうに口を挟むと、母は思い出したように、ああ、そうそう、と顔を向けてきた。
「祥子がね、あなたと話したいって言ってるの」
「俺と?」
「あの子の控え室に行ってあげてちょうだい。廊下出てつき当たりの右の部屋よ」
遠慮がちにノックをすると、どうぞ、という祥子の声が聞こえてきたので、ゆっくりとドアを開けた。その途端達也は息を呑んだ。肩の開いた真っ白いウェディングドレスを着た祥子が数メートル向こうに立っていた。髪をアップにし、ティアラを着けた彼女はとても美しかった。
目を見開いたまま黙っていると、祥子がクスッと笑った。
「たっちゃん、どうしたの? あたしがあんまりきれいだから見とれてる?」
「・・え? ば、ばか、違うよ」あわてて言い、それから照れ隠しに鼻先で笑った。「馬子にも衣装だなって思ってただけだ」
「ひどーい!」拗ねたような笑顔で祥子が言った。
「なんだよ、話しって」部屋の中に入ってドアを閉める。「・・母さんが言ってたけど」
祥子は微笑みながらこちらに近づいてくる。彼女が歩むたびにドレスの長い裾が優雅にふわりふわりと揺れた。
達也の目の前に立ち、祥子はつと真面目な表情になって言った。
「たっちゃん、・・今まで、ありがとう」
「な、なんだよ、いきなり。・・おまえ、やめろよなあ、そういうの」
首の後ろをさすりながら苦笑してみせる。
「あたし、たっちゃんのこと大好き。・・たっちゃんみたいなお兄さんがいて、ほんとによかったって思ってる」
そこで祥子は目を伏せて小さく深呼吸をした。長い睫毛が彼女の白い肌に影を落とす。
「あたし、たっちゃんにも幸せになってもらいたい」
そして顔を上げ、真剣な眼差しを向けてくる。
「・・本当に好きな人と一緒に」
「え? 」《・・本当に好きな人?》
彼女はまっすぐ達也の目を見つめている。不意に落ち着かなくなった。祥子は何か重大なことを言おうとしている、そのとき達也は頭の片隅でそう感じ取っていた。
「たっちゃん、あたしね、・・・あたし、知ってるの、・・・たっちゃんと、航平さんのこと・・」
背筋を冷たいものが通った。祥子が何のことを言っているのか達也には一瞬でわかっていた。わかっていながら頭の中で否定していた。
《ちがう、そういう意味じゃない。・・祥子は何か他の事を言ってるんだ。・・何か他の・・》
彼女の真っ赤な唇が再び動く。
「ふたりが恋人同士だってこと」
全身が凍りつき、一瞬呼吸ができなくなった。頭がパニックし始める。
《・・何か言うんだ。・・否定しろ。・・早く!》
「・・な、何言ってんだよ、おまえ。・・・ね、寝ぼけてんじゃないのか?」
笑って言ったつもりだったが頬が引きつり、声が上ずっているのが自分でもわかった。
「もういいよ、隠さなくて! 少なくともあたしには隠さなくていい!」
祥子は焦れたように声を上げながら腕を握ってくる。
唇が戦慄きそうになるのを必死にこらえながら達也は言葉を絞りだした。
「・・お、おまえ、・・か、勝手に変なこと想像してんじゃねーよ。・・俺は・・」
「あたし見たの! お正月にたっちゃんと航平さんがキスしてるところ。たっちゃんの部屋で!」
その瞬間脳天を殴られたような感覚にとらわれ、達也は愕然と目を剥いたまま絶句した。
「だからあたしは知ってるの!」
これ以上否定する理由はなくなっていた。諦めと絶望感、そして羞恥のような思いがゆっくりと胸の内に広がっていく。
「あたしにはもう隠さないで!」
必死に見つめてくる祥子の視線に耐えられなくなり、達也は半ば呆然としながら顔を背けた。
「・・辛いよね、・・誰にも言えないなんて」
祥子の口調がふと柔らかく、どこか悲しげなものに変わった。
「・・誰にも祝福されないなんて、・・・たっちゃん、かわいそう」
達也には何も言えなかった。祥子の目を見ることができなかった。
「たっちゃん、あたしね、・・たっちゃんに言いたかったの、あたしはたっちゃんたちのこと祝福する。・・応援するよって。・・もしお父さんに認めてもらいたくなったら、あたしが背中押してあげる、たっちゃんがあたしにしてくれたみたいに。・・・そう伝えたかったの」
笑みを滲ませた声音で祥子が言う。躊躇いながら目を戻すと、彼女は泣きそうな顔で微笑んでいた。
胸がじんとする。目が潤んでくるような気がした。達也は急いで祥子から視線を逸らし、唾を飲み込んでから独りごとのように口の中で呟いた。
「ばか。俺とおまえの状況はまったく違うよ。・・・父さんが認めるわけないだろ?」
「でも人を愛する気持ちは同じだよ。異性だろが同性だろうが、そんなの関係ない!」
祥子の声は震えていた。達也が顔を戻したのと同時に彼女の目から涙が一筋流れ落ちる。
「お、おい、化粧が崩れるぞ。・・俺が母さんに叱られるよ」
おろおろしながら達也が言うと、彼女は泣き顔のままクスッと笑った。
そのときノックがあり、すぐにドアが開いて母が顔を覗かせた。
「達也、そろそろ席に着く時間よ」
「・・あ、ああ、わかった。今行くよ」
母にそう言ってから達也はすばやく深呼吸をし、笑顔を作りながら改めて妹に向き直った。
「祥子、おまえ、すごくきれいだ」
そして彼女の頬に手をあてながら親指でそっと涙を拭き取った。
「幸せになれよ」
祥子は微笑みながら大きく頷いた。
控え室の前のトイレに駆け込み、便器の上に座り込んで口元を両手で覆った。嗚咽が漏れる。達也は声を押し殺して泣き崩れた。
シンクで顔を洗い、ペーパータオルで手と顔を拭いてからトイレを出ると、ちょうど廊下の向こうから航平がやって来るところだった。
「達也、もう時間だぞ!」
「ああ」
達也は愛しい男に微笑んだ。




