16
東京に戻ってから航平のマンションでしばらく過ごし、九時半近くに自分のマンションに帰りついた。
五階でエレベータを降りて廊下を行くと、ちょうど奈央が部屋の前に立っていた。ドアの鍵を探しているのか、ショルダーバッグの中に手を入れている。
「奈央!」
達也の明るい呼びかけに、奈央はぎくりとしたように手を止めた。だがすぐに焦ったようにバッグの中から鍵を取りだす。
《・・奈央?》
怪訝に思いながら近づいていくと、彼女は急いた様子で鍵を差し込んだ。嫌な予感が胸を横切る。その瞬間達也は駆けだしていた。
奈央がドアを開いたのと達也が彼女の腕を掴んだのが同時だった。達也の視線を避けるように奈央はさっと顔を伏せる。彼女の顎に手をやり、達也はその顔を無理やり上げさせた。恐れていた通り左目の辺りが痣になっている。
言葉を失っていると、目を伏せたまま奈央が、ごめんね、と小さく呟いた。
「なんで謝るんだよ! あいつがやったんだろ?!」
男に対する怒りと彼女を守ってやれなかった自分に対する情けなさで頭に血がのぼり、思いがけず声がでかくなる。
「・・あたし、達也くんにこんな顔、見せたく・・」
その言葉をさえぎるように達也は彼女の身体を抱きしめていた。
「ごめん、俺がそばにいなくて! おまえを守ってやれなくて・・」
「別れたの」
「ごめん! ・・え?」
「完全に別れた、あの人と」
半信半疑な思いで身体を離して彼女の顔を覗くと、痛々しげな痣にも関わらず奈央はどこかさっぱりとした晴れ晴れしいような笑みを浮かべていた。
「あたしは大丈夫よ。これから強くなる」
「旅行、楽しかった?」
奈央は可愛らしいカップに入った紅茶を達也の前に差しだした。テーブルの上には達也が土産に買ってきた箱入りの饅頭が置かれている。
「え? あ、・・ん、まあ・・」
視線を逸らしながら言葉を濁すと、奈央はおかしそうにクスッと笑った。
「あたしに遠慮しなくていいのよ。楽しかったんでしょ?」
そう言いながら饅頭に手を伸ばし、達也の前にひとつ置く。目を伏せたまま遠慮がちに頷き、それから少々気まずい思いで紅茶を啜った。
「あたし、劇団辞めたの」
「え?」さっと顔を上げ、達也はすばやく彼女に目を戻した。
奈央は平然と饅頭の包みを開けている。
「来年アメリカに行こうと思って」
「・・アメリカ?」
ん、と無邪気に頷き、奈央は饅頭をひと口食べた。
「向こうで演技の勉強するの?」
そう問いかけてみてから、彼女がもぐもぐしている間に言葉を足した。
「きっと向こうのほうが奈央にはあってるんじゃないか? 奈央は英語できるんだし、それに、背の高さだって向こうじゃぜんぜん目立たないだろ?」
奈央は笑いながら紅茶を飲み、そしてカップを置きながら言った。
「今のところビザ無しで三ヶ月の予定。とりあえずはカリフォルニアの友達のところに居候するつもりなの」
それから残りの饅頭を口に入れ、おいしそうに目を細める。
「へえ、カリフォルニアかあ」
達也も饅頭の包みを開け、ひと口食べてみた。ホテルを出る前にあわてて館内のみやげ物屋で買ったものだが、思ったよりすっきりとした甘みで意外に旨かった。
「来月の半ばにはここを出て、アメリカに行くまで実家で過ごすつもりよ」
達也は残りの饅頭を口に運びかけていた手を止めた。
「来月の半ばって、・・あと一ヶ月もないじゃないか」
瞬きしている達也に笑みを見せ、奈央はさらりと言った。
「あと二十日」
十二月二週目の水曜日の夜、達也は麻布十番のカフェバーで奈央と待ち合わせた。東京の街はどこもすっかりクリスマスモードだ。
リースの飾られたドアを開けて店の中に入ると、すぐに奥の席にいる奈央が目に入った。近づいてくるウェイターにこちらに向かって手を振っている彼女のほうを指差してみせると、そのウェイターは笑顔で頷いてから去っていった。
「ごめん、遅くなって」
そう言いながらコートを脱ぎ、奈央の向かい側の椅子の背に掛けてからその椅子に腰を下ろす。黒い細身のワンピースにシンプルなネックレスを身に着けた彼女はとてもエレガントに見えた。胸ぐらいまでの長い黒髪の下のほうがふんわりとしたウェーブになっている。
「ううん、遅くないわよ。あたしが早く来すぎちゃったの。なんかうれしくて、達也くんとデートするのが」
達也は笑った。
ウェイトレスがグラスに入った赤ワインを運んでくる。奈央が先に頼んだらしい。
「それじゃあ、奈央の新しい門出を祝って乾杯しようか」
「ありがとう」
ふたりはグラスを寄せ合った。
「ねえ、達也くん」
「ん?」
「達也くんは、今幸せ?」
「え?」
から揚げをつついていた箸を止め、達也は目を上げた。奈央はテーブルに肘を突き、組んだ両手の上に顎をのせてにこやかに達也を見つめている。
「な、なんだよ、いきなり」突飛な質問に思わず苦笑する。
「なんか訊いてみたくなっちゃったの。もちろん幸せってわかってるのに、達也くんの口から聞きたいの。・・ねえ、あたしに遠慮しなくていいから、言って?」
達也の返事を促すように、奈央はテーブルの上で腕を組んで身体を乗りだしてくる。
「あ、ああ、・・幸せだよ」照れ隠しにから揚げに箸を伸ばしながら言う。「俺、幸せすぎて怖いくらいなんだ」そしてひとつつまんで口に放り込んだ。
そう、と呟く奈央の声にどこか寂しげな響きがあったので、達也はあわてて彼女に視線を戻し、もぐもぐしながら、ごめん、と謝った。
「だからあたしのことは気にしないでって言ったでしょ?」奈央は笑いながらワイングラスに手をかける。「達也くんが幸せだとあたしも幸せを感じるの。達也くんのうれしそうな顔見るの大好き。あたしに元気をくれるの」
そして笑顔のままグラスを口に運んだ。照れくさい思いでから揚げを飲み込み、それから達也はワイングラスを手に取った。
「奈央にもきっといつかいい人が現れるよ。奈央を大切にしてくれる、心から愛してくれる人がさ」
「そうだとうれしい」
「俺が保証するよ」
真顔で大きく頷いてみせると、奈央はふふっと笑った。そしてグラスの足の部分を親指と人差し指で擦るように触れながら笑みの残った面持ちで呟く。
「達也くんだったらよかったのに」
「え?」
「その人が、達也くんだったらよかったのに」
咄嗟にどんな反応をしてよいのかわからず、達也は彼女から目を逸らしてワインをゴクリと飲んだ。
「ああ、ちがう、ちがう」奈央は顔を上げ、笑いながら胸の前で手を振る。「達也くんみたいな人っていう意味。・・優しくて、強くて、かっこよくて、そしてあったかい人」
食事が終わり、それぞれのドリンクがなくなりかけた頃、それまで快活だった奈央がふと真面目な表情になって言った。
「ありがとう、達也くん」
彼女は別れの言葉を言おうとしているのだということを達也は直感していた。曖昧に笑いながら、何を、と問いかけ、そして緊張した思いで残りのビールを飲み干す。
「・・あたしを、救ってくれて、・・・あたしを励ましてくれて、・・・あたしにしがみつく腕や・・泣く肩を貸してくれて、・・・それから・・」
その語尾が少し震えたかと思うと、みるみるうちに彼女の目に涙がたまってくる。
「あ、ごめん」笑いながら指の甲で涙をふき取り、奈央は顔を伏せて大きく深呼吸をした。そして再び真剣な目を向けてくる。
「それから、こんなあたしのこと、本気で心配してくれて、・・・ありがとう」
さっき飲んだ赤ワインのせいか釣られて涙ぐみそうになり、あわてて視線を逸らしながら小さく咳払いをする。
「あたし、達也くんに会えてよかった」
すばやく息を吐き出し、そして達也は頬を緩めながら奈央に目を戻した。
「・・俺も、奈央に会えてよかったよ。・・・奈央といると楽しかった。・・俺も奈央に元気をもらった」
微笑む奈央の頬に涙が一筋流れ落ちる。
「忘れないよ、奈央のこと」
その翌日、達也が仕事に行っている間に奈央は引っ越していった。
仕事から戻り、いつものようにエントランスホールで自分の部屋の郵便受けを開けると電気料金のはがきと一緒にA五サイズほどの白い封筒が入っていた。封筒の中身は奈央からのクリスマスカードだった。半分に折った赤い色紙にクリスマスツリーの形のグリーンの紙が貼ってあり、その上には『メリークリスマス 達也くん』と手書きで書かれている。手作りなのだろう。開いてみると、プレゼントの袋を肩に担いだサンタクロースとバケツ帽をかぶった雪だるまが飛び出すようになっていた。それぞれの顔を見て達也は思わず声を出して笑った。サンタクロースには達也の、そして雪だるまには奈央の顔の写真の切抜きが貼ってある。達也の写真はいつだったか不意打ちで撮られたものだ。端のほうにメッセージが書かれていた。
『達也くんは私のサンタクロースです。私は達也くんサンタにたくさんのプレゼントをもらいました。ありがとう、って何度言っても言い足りません。またいつか会えるといいな。メリークリスマス。奈央より』
「達也くん!」
ふと奈央の声が耳に聞こえたような気がして達也はさっと振り返った。だがすぐにふっと笑いながらかぶりを振り、そして深呼吸をひとつしてからエレベータに向かった。




