1
「よう、中川」
呼ばれて顔を上げると、同期の小野田がデスクの向こうに立っていた。
「残業か?」
そう言いながら後ろに回り、隣のデスクの椅子にどしんと座り込む。
「ん、まあ。・・おまえも?」
金曜日の午後六時半、法人営業部の広いフロアには四、五人の社員が残っているだけだ。
「ああ。ったく五時近くになって代理店から月曜の朝一で見積もり持って来いって電話があってなあ」
身体を後ろに反らしながら小野田は伸びをするように両腕を上げる。
「そっちも大変なんだな」
達也はコンピュータの画面に目を戻しながら言った。
「それより・・」
不意に小野田は身体を起こし、さっと顔を近づけてくる。なぜこの男が自分のところに来たのか、達也はその瞬間ピンときた。
「おまえ、今夜なんか予定あんのか?」
画面を見つめる目が思わず細まる。
「ないんならどうだ、一緒に食事でも」
軽く溜息をついてから顔を向けて口を開くと、小野田は腕組みをしながら眉をしかめた。
「おまえさあ、一回くらいつきあえよなあ」
小野田博和は大阪支社から去年本社の一般営業部門に転勤になった男だ。一流大学出の有能な男といううわさの小野田は細身の長身で、少し長めの茶色い髪はいつもきっちりとムースか何かで整髪されている。上げた前髪を少し垂らしたその顔は、周りのOLたちによると『イケメン』なのだそうだ。
結婚しているときはあまり付き合いはなかったが、離婚した途端に達也はこの男からよく誘われるようになった。どちらかというと『軽薄』というイメージのこの男が苦手だったので、今まで何かと理由をつけてその誘いを断ってきた。そのうちあきらめるだろうと半ば期待していたのだが、向こうにその気はなさそうだ。これ以上断り続けるのも気がひけたので、達也は腹をくくって一度だけこの男に付き合うことにした。
「しっかしおまえ、ずいぶん早くに結婚したんだなあ」
達也のグラスにビールを注ぎながら小野田が言った。イントネーションが関西弁っぽくなっている。
小野田に連れてこられたのは六本木の駅から歩いて五分ほどのカフェバーだ。小ぢんまりとした店内は木の造りで統一されていて、落ち着く雰囲気の店だ。来ている客たちも二十代後半以降の世代が多いようだ。
改めてよく見ると確かに小野田は男前だった。切れ長の目、ほっそりとした高い鼻、そして薄い唇がその面長の顔にうまい具合に配置されている。
「二十四だった。そんなに早くもないよ」ビールを注ぎ返しながら答える。
「理由は?」
「え?」
「離婚の理由。・・おまえの浮気か?」
歯に衣を着せない男だ、達也は内心眉をひそめた。小野田は平然とビールを飲み、はあっと息を吐く。
「性格の不一致ってやつだよ」
そっけなく言うと、顎を引きながら小野田はその整った眉を大きく上げた。それがどういう意味を示すのか達也にはよくわからなかったし、別に知りたくもなかった。
「おまえは? 恋人はいないのか? ま、金曜の夜に俺を誘うようじゃ、いないんだろうけどな」
冷ややかに言ってから達也もビールを口に運ぶ。
「俺? いやあ、俺はまだ当分ひとりに絞るつもりはないねえ。俺はいろんな女といろんな体験をしたい。特定の恋人を持つ気もないよ」
《ようするに、いろんな女とやりたいってことか》
不意にぐるりと周囲に視線を巡らしたと思うと、小野田はテーブルの上に身を乗りだしてきた。そしてにやりとしながら声のトーンを落とす。
「実をいうと、おまえを誘ったのも女を引っかけるためだ」
「はあ?!」思わず素っ頓狂な声が口から漏れる。
「ふたり連れのほうが引っかけやすいんだよ」
にやけた顔のまま小野田は身体を起こし、ビールをごくごくと旨そうに飲む。
《呆れたやつだな》
達也は大げさに溜息をついてみせた。
「だったら他のやつを誘えばよかっただろ? 独身のやつはわんさかいるじゃないか」
「おまえみたいに見た目のいいやつはそういないだろ? 俺とおまえみたいなイケメンがそろうと、女は寄ってくるんだよ」
悪びれずに小野田はしたり顔で言う。
「言っとくけど俺にはそんなつもりなんかないからな。やるんだったらひとりでやれよ」
メニューに目を落としながらすげなく言ってやったが、小野田の反応はない。怪訝に思って顔を上げると、彼の視線はどこか達也の後方に向いていた。
「小野田、聞いてるのか?」達也は眉をひそめた。
「おい見ろよ、あのふたり連れ」
後方に目を向けたまま小野田が言う。振り返ってみると、二十代半ばくらいの女ふたりがすみのテーブルにちょうどついたところだった。茶髪のウェイターが何か言いながらそれぞれの女にメニューを渡す。
顔を戻した途端、達也は唖然とした。小野田がビールのグラスを持って立ち上がっていた。呆気に取られていると、彼はその女たちのテーブルに行き、何やら彼女たちと話し始める。そのうちにこちらに振り向いて、中川、来いよ! と手招きをしてきた。
大きく溜息をついてから達也はのっそりと立ち上がった。
「俺は小野田博和、二十六。それからこいつは中川・・」と爽やかな笑顔で女たちに言い、そして小野田は達也に顔を向けてくる。「おまえ、下の名前なんだ?」
イントネーションは標準語に戻っている。
「達也」
「そうそう、中川達也。同じく二十六歳」
「私はシロタミキコ、彼女はアユミよ。エトウアユミ。あたしたちは二十四」
ミキコと名乗った女は頭を少し振り、ウェーブがかかった長い茶色の髪を肩の後ろにやった。面長で眉がきりっとし、鼻筋がすうっと通った日本的な美人だ。アユミという女は肩より少し長いストレートの黒髪で、頬が少しふっくらとしておっとりした感じの印象だ。ふたりは大学からの友達らしい。ミキコは不動産会社で、そしてアユミは食品会社でそれぞれOLをしていると言った。
小野田の話のうまさは達也が思わず感心するほどだった。盛り上げ上手、持ち上げ上手というやつで、巧みな話術で場をうまい具合に盛り上げて女の子たちを褒めまくる。
「どお? これからどっか行って飲みなおそうよ」
当然のことながら小野田は女たちを誘う。
「そうね。これからアユミと行こうと思ってたバーがあるんだけど・・」
ミキコがアユミと顔を見合わせる。
「じゃあ決まりだ。そこに行こう」