1章2話
意識が戻った時、少年は横になっていた。
天井が見える。木の梁が組まれた、さっきの石造りの牢屋とは違う場所だ。
(ここは……?)
体を動かそうとして、激痛が走った。
「っ……!」
思わず声が漏れる。顔の右半分が焼けるように痛い。口の中に鉄の味が広がっていた。
血だ。
少年は恐る恐る頬に手を当てた。腫れ上がっている。触れただけで痛みが増す。
(そうだ……殴られて……)
記憶が蘇る。アリーナ。歓声。そして、23番の拳。
自分が気絶していたことを理解した瞬間、現実の重さが少年の胸を押しつぶした。
「う……ぅ……」
痛みが全身を支配している。頬だけじゃない。首も、肩も、背中も。倒れた時に地面に打ち付けたのだろうか。体中が悲鳴を上げていた。
少年は頬を押さえたまま、ベッドの上で体を丸めた。
痛い。
怖い。
分からない。
なんで自分がこんな目に遭わなきゃいけないのか。何も悪いことをしていないのに。
目に涙が溜まっていく。
「ぅ、ぐ……ぐす……」
嗚咽が漏れる。鼻をすする音。
少年はただ、泣いた。
どれくらい時間が経ったのだろうか。涙が枯れて、目が腫れぼったくなった頃、ようやく少年は顔を上げた。
周りを見渡す。
簡易ベッドがいくつも並んでいる部屋。壁には棚があり、包帯や薬瓶のようなものが整然と並べられていた。消毒液の匂いが鼻をつく。
(病院……なのか?)
少年はゆっくりと上体を起こした。頭がくらくらする。
(どうして僕は戦わされて、殴られて……そんな日々を過ごさなければならないんだろう)
(どうして僕が殴られてるのを見て、大人の人たちは笑っているの?)
(どうにかして、こんな場所から逃げたい)
(でも、トウギジョウの外には何があるの?どうやったら出られるの?)
考えても、答えは出なかった。
知識がなさすぎる。この世界のことを何も知らない。自分が何者なのかも分からない。
(どんなに考えても……解決策なんて……)
絶望が少年を飲み込もうとしていた。
その時、扉が開いた。
ギィィ
古い蝶番が軋む音。
「おう、起きたか新入り」
入ってきたのは、眼鏡をかけた初老の男性だった。白衣を着ている。白髪交じりのグレーの短髪。体格は普通だが、日焼けした肌が印象的だった。
「…………あなたは?」
少年は警戒しながら尋ねた。
「この見た目で分かんねえってことはねえだろう。医者だよ医者」
見た目は完全に医者なのだが、口調だけが合っていない。ぶっきらぼうで、お世辞にも丁寧とは言えない喋り方。
(なんて……胡散臭いんだ)
少年は内心でそう思ったが、口には出さなかった。
「…………治してくれて、ありがとうございます」
「ああ、まぁ特に何もしちゃいないがな」
医者は棚から何かを取り出しながら、無造作に答えた。
「顔の腫れは冷やしておいた。あとは自然に治るのを待つだけだ。若いからすぐ治るさ」
「はい……」
「おっと、姐さんに言われてんだった」
医者が振り返った。
「起きたらおめえが寝る部屋とルールについて説明するから姐さんのとこに行くぞ。着いてこい」
「え、あ、はい……」
少年は慌ててベッドから降りた。足元がふらつく。まだ完全には回復していない。
「大丈夫か?」
「だ、大丈夫です……」
痛む頬を押さえながら、少年は医者について廊下に出た。
石造りの通路。松明が壁に掛けられている。足音が反響した。
「そういやあとで姐さんからも言われるだろうが、番手が発表されてたな」
歩きながら、医者が話しかけてきた。
「バンテ……?」
「ああ、まぁランキングだな。週に3回戦って、その結果で毎週番手が発表される」
「さ、3回も……?」
少年の顔が青ざめる。
あの痛みを、週に3回も味わうのか。
「まあ嫌でも慣れるから安心しな」
医者は淡々と言った。まるで天気の話でもしているかのように。
少年は何も言えなかった。
しばらく歩くと、立派な扉の前に着いた。医者がノックする。
コンコン
「ゴンサロか?」
中から、あの女性の声。
「はい。新入り連れてきましたよ姐さん」
(そういえば、この人の名前聞いてなかった……)
少年がそんなことを考えていると、医者――ゴンサロが中に入れと促した。
扉を開けると、そこは立派な執務室だった。
木製の机、革張りの椅子、壁には剣や盾が飾られている。そして、机の向こうには、あの女性が座っていた。
紺色の髪を下ろしたまま、書類に目を通している。
「やぁ」
顔を上げた女性が、少年を見た。
「初めての殴り合い、いや、サンドバッグ体験と言った方がいいかな。どうだったかい?」
「…………痛いし、恥ずかしいし、こんな事をする理由が分からないです」
少年は正直に答えた。
女性は少しだけ口角を上げた。
「まあ、最初はそんなもんだろう。だが、どうせ誰かに買われるまでは続けるしかないんだ。好きになる必要はないが、良い納得の仕方を考えるんだな」
「買われたら……ここを出られるんですか?」
少年の目に、わずかに光が宿った。
「ああ。貴族だったり商会なんかもたまにあるが、将来が有望な闘士は買われて働いているな」
「ということは、強くないと……」
「ああ、一生ここにいることになるな」
女性はあっさりと言った。
「だが安心しろ。15歳を超えて加護をもらってからもちゃんと闘士になれるからな」
(そういうことじゃない……!)
少年は叫びたい衝動を抑えた。でも、そんなことをしても事実は変わらない。
「それで、説明することって……」
「そうだな」
女性は立ち上がり、窓の外を指差した。
「新人、いや、もう38番か」
「38……番?」
「お前のランキングだ。ボトムクラスの最下位」
ボトムクラス。最下位。
少年の表情が曇る。
(やっぱり……一番下なのか)
「38番はボトムクラスになるから、その部屋についてと、ここでのルールについてだな」
女性は淡々と説明を始めた。
部屋の場所。食事の時間。訓練場のこと。
「まあ、寝る時くらいしか部屋には帰ってこないだろうがな」
「それ以外は……どこにいるんですか?」
「医務室か訓練場だな。前者は負けて後者は勝った奴だ」
女性の目が、少年を見た。
「勝ったからとうかうか遊んでいたら一瞬で抜かされるからな」
「…………」
(きっと、僕は医務室と闘技場を繰り返すことになるんだろうな……)
辛い未来が見えた。でも、それでも。
「訓練場について、教えてください」
少年は顔を上げた。
「どこにあるのか、知りたいです」
女性は少しだけ驚いたような顔をした。それから、小さく頷いた。
「行けば分かる。この廊下をまっすぐ行って、右に曲がれ」
「ありがとうございます」
少年は一礼して、部屋を出た。
言われた通りに廊下を歩く。
途中、壁にコルクボードが掛けられているのが見えた。何やら張り紙がされている。
少年は近づいて見てみたが。
「何も……読めない……」
文字が分からない。この世界の文字を知らないのだ。
(いつか文字も覚えてみたいな……でも、そんな余裕が現れるのは、いつになるのだろうか……)
ため息をついて、少年は再び歩き始めた。
しばらく行くと、開けた場所に出た。
広い空間。天井が高い。そして、人を想定しているのだろう、藁製の人形があちこちに置かれていた。
何人かの少年たちが、黙々と訓練をしている。腕立て伏せをする者、人形に打ち込みをする者、走り込みをする者。
(ここが……訓練場)
思っていたよりも人数が少ない。38番と呼ばれたから、てっきり38人全員がいるのかと思っていた。
きょろきょろと辺りを見回していたら、大人の男性と目が合った。
体格の良い、大柄な男性。濃い顔立ちだが、どこか優しさを感じさせる表情。ブラウンの短髪。
「あの、初めて訓練場に来たんですけど……」
少年は恐る恐る声をかけた。
「ああ。君が言われていた新人くんだったのか」
男性は穏やかな口調で答えた。
「初日から来るなんて、やる気があるね」
「え、え?ありがとうございます」
少年は戸惑いながらも、頭を下げた。
「おーなー?さんに、行ってみなって言われて……それで」
「そうだったのかい」
男性は頷いた。
「ここではみんな思い思いにトレーニングをしているね。筋トレだったり、打ち込みをしたり」
「僕、そういうの何も知らなくて……教えてほしいんですけど、だめですか?」
「付きっきりで見ることは出来ないけど、やり方を教えてあげるくらいなら良いよ」
「ありがとうございます!」
少年の顔に、初めて笑顔が浮かんだ。
男性は基本的な筋トレを教えてくれた。腕立て伏せ、スクワット、腹筋。どれも初めてやる動きだったが、少年は必死についていった。
走り込みもやった。訓練場の端から端まで、何度も往復する。息が上がる。足が痛い。でも、不思議と嫌な気持ちにはならなかった。
(これが……訓練……)
汗が滴る。体が熱い。
(ここで強くなれるんだ)
そう思うと、少しだけ希望が見えた気がした。
どれくらい経っただろうか。
ゴォォォン
低く響く音。鐘だろうか。
「ああ、食事の時間だ」
男性が言った。
「部屋に戻るといい。場所は分かるかい?」
「は、はい……多分……」
「廊下をまっすぐ行って、左に曲がったところだよ。分からなかったら誰かに聞けばいい」
「ありがとうございました!」
少年は深々と頭を下げて、訓練場を後にした。
教えられた通りに廊下を歩く。
(確か、この道だったよな……)
不安になりながら進んでいると、前方に同年代くらいの少年たちの集団が見えた。
行き先は同じだったようで、少年が扉に入ったことで、集団も気づいたようだった。
振り返る視線。
「おい、あれが新入りの38番か」
「マジで初日から訓練場来てたのかよ」
ひそひそと話す声。
少年は気まずそうに目を逸らしながら、集団の後ろをついていく形で食堂へと入った。




