1章1話
初投稿です。よろしくお願いいたします。
ピチャン、ピチャン、ピチャン
規則正しい水音が暗闇に響く。天井の亀裂から漏れ出た水が、石材の床に落ちては跳ねている。
少年は藁を編んだ粗末な敷物の上に横たわっていた。15歳にもなっていないあどけない顔立ちには、この場所は似つかわしくない。石造りの壁、外側から施錠された鉄格子。どこからどう見ても牢獄だった。
パチ、パチと瞬きをして、少年はゆっくりと目を覚ました。視界がぼやけている。天井の染みが、まるで何かの模様のように見えた。
(ここは……どこだ?)
少年は身を起こそうとして、体中の鈍い痛みに顔をしかめた。関節が軋む。まるで何日も動かなかったかのように、体が重い。
それでもなんとか上体を起こし、周囲を見回す。薄暗い牢屋。窓はない。唯一の光源は、廊下から差し込むわずかな明かりだけだった。
(僕は……誰だ?)
自分の名前が思い出せない。どうしてここにいるのかも分からない。記憶を手繰ろうとすればするほど、頭の中は真っ白になっていく。
少年は敷物から立ち上がった。足元がふらつく。壁に手をついて体を支えながら、鉄格子へと近づいた。
冷たい鉄を握る。錆の匂いがした。
格子の向こうには、同じような部屋が並んでいる。どの部屋も空のようだった。人の気配はない。ただ、遠くで何かが滴る音だけが聞こえていた。
(誰もいない……。)
観察できることはそれくらいだった。少年は諦めて敷物の上に座り込む。
ピチャン、ピチャン、ピチャン
水滴が落ちる音だけが、単調なリズムを刻み続ける。
どのくらい時間が経っただろうか。少年はぼんやりと壁の染みを眺めていた。考えても仕方がない。思い出そうとしても何も出てこない。ただ、漠然とした不安だけが胸の奥で渦巻いていた。
その時だった。
ガチャリ
金属音が響いた。どこかで扉が開く音だ。
少年は反射的に立ち上がり、鉄格子に手をかけた。
コツ、コツ、コツ
革靴の音が近づいてくる。一定のリズム。迷いのない足取り。
(誰か来る……!)
少年の心臓が早鐘を打ち始めた。この人なら、何か教えてくれるかもしれない。ここがどこで、自分が何者なのか。
足音はどんどん近づいてくる。
そして、ついに姿を現した。
キリッとした目つき、すらりとした体つき。中性的な顔立ちの美しい人物だった。紺色の髪が光の加減で青みを帯びて見える。動きやすそうだが、どこかフォーマルな印象を受ける服装。
「おや、もう起きていましたか」
落ち着いた声。少年を一瞥して、その人物――女性だと分かった――は淡々と続けた。
「ここがどこで、自分が何者なのかご存じですか」
「い、いや……気づいたら、ここに……」
少年の声は震えていた。喉が渇いている。いつから何も飲んでいないのだろう。
「やはり遭難者でしたね」
女性は特に驚いた様子もなく、そう告げた。
「お気の毒ですが、あなたはここ、スティーグ闘技場の奴隷になりましたので、闘士として従事していただきます」
「え……?ソウナンシャ?ドレイ?いったい何のこと……?」
聞き慣れない言葉が次々と飛び出してくる。少年の混乱は深まるばかりだった。
「まあ、直接見ていただくのが分かりやすいでしょう」
女性は後ろを振り返り、手を挙げた。
「こちらの少年を闘技場まで案内してください」
背後から、革の鎧を着た大柄な男が二人現れた。いかつい顔、筋肉質な体。少年が抵抗できる相手ではないことは一目で分かった。
ガチャリ
鉄格子が開けられる。男たちが中に入ってきた。
「ちょっと、待って――」
少年の腕が掴まれる。冷たい金属の感触。手錠だ。
「離して……!」
抵抗しようとしたが、男たちの力は圧倒的だった。あっという間に両手を拘束され、引きずられるように牢屋から出された。
廊下は薄暗く、湿った空気が漂っていた。石壁が続く無機質な通路。時折、松明が壁に掛けられているが、それでも十分な明かりとは言えない。
(いったい何が起こっているんだ……。)
少年は必死に状況を理解しようとしたが、情報があまりにも少なすぎた。
ソウナンシャ。ドレイ。トウシ。
自分を指す言葉のはずなのに、その意味が分からない。
しばらく歩いていると、空気が変わった。
ドォォォォォン
地面が揺れているんじゃないかと錯覚するほどの振動。そして、轟音のような歓声。
「ここからなら存分に見られますよ」
女性がそう言って、壁の小窓を指差した。
少年は促されるまま、小窓から外を覗き込んだ。
そして、息を呑んだ。
円形の巨大な空間。石造りの観客席がぐるりと取り囲み、そこには無数の人々が座っていた。視線は全て、中央のアリーナに注がれている。
土の地面。そこに二人の少年が立っていた。
簡素な服を着て、素手で殴り合っている。
ドスッ
鈍い音が響く。片方の少年の拳がもう片方の頬に叩き込まれた。
「うおおおおおおお!!!」
観客席が沸く。
殴られた少年がよろめく。それでもなんとか体勢を立て直し、反撃に出ようとする。
だが、相手の方が一瞬早かった。
ガスッ
腹部への一撃。
「がはっ……!」
少年が膝をつく。
「そろそろですかね」
女性の声。
少年が小窓から顔を上げようとした、その瞬間だった。
ドガァッ
最後の一撃が叩き込まれ、片方の少年が完全に倒れ伏した。動かない。
「勝負あり!!」
実況の声が響き渡る。観客席がさらに盛り上がった。
「さて、ちょうどタイミングもいいですね」
女性が少年の方を向いた。その目は、値踏みをするように少年を見ている。
「健康上に問題はなさそうですし、このまま出場してもらいます」
「え!?い、いや……いきなり殴り合えなんて言われても、どうしたらいいのか……」
少年は必死に訴えた。女性を、大柄な男たちを、交互に見る。
でも、誰も表情を変えなかった。
「ではあなた達は運営本部にこの事を連絡してきてください」
「了解しました」
男たちが走り去っていく。
少年と女性だけが残された。
「こちらでは、見ての通り素手で戦闘をしてもらいます」
女性は淡々と説明を始めた。
「理由は色々ありますが、まあ良いでしょう。とりあえず、相手を倒したら勝ちです。目などの急所攻撃以外は何でもありですので、精一杯頑張ってください」
「戦ったことなんてないんですけど……」
「もちろん最初から勝てるとは思っていません」
女性は少しだけ口角を上げた。笑っているのか、それとも冷笑しているのか。
「強いて言うなら、せめて善戦してほしいですね。ギャラリーもいることですし」
「そんな……」
「では、こちらから」
女性が扉を開ける。
その向こうには、先ほど見たアリーナが広がっていた。
土の感触。石壁の冷たさ。そして、無数の視線。
少年は一歩、また一歩と、アリーナへ足を踏み入れた。
「おっとぉ!!ただいま情報が入ってきましたが、ここで新人恒例のニュービーマッチがあるようです!!」
実況の声が、風に乗って会場全体に響き渡る。
「「「うおおおおおおおおお!!!!!」」」
観客席が一斉に沸いた。歓声、怒号、拍手。全てが少年に向けられる。
耳が痛い。心臓が早鐘を打っている。
「今回ニュービーマッチの相手となるのは、腕のリーチの長さを活かして一方的なトレードをする23番だああああ!!!!」
対面から、一人の少年が歩いてくる。
痩せ型だが、背はそこそこ高い。そして何より、腕と足が長い。
(あの人と戦うのか……?)
「いきなりミドルクラスかよ!!」
「せめて1発入れてやれ新人!!」
「瞬殺だな、これは!」
様々な野次が飛び交う。
少年はアリーナの中央まで歩いた。足が震えている。立っているだけで精一杯だった。
23番が目の前に立つ。その距離、わずか数歩。
「それでは!!マッチ、スタート!!!」
「悪いな!俺も評判が掛かってんだ、本気でやらせてもらうぜっ!」
23番が駆け出した。
少年は動けなかった。
(動かなきゃ……!)
頭では分かっている。でも、足が言うことを聞かない。恐怖が全身を支配している。
「おおっと!!これはニュービー、足が動かないようです!23番は迫る迫る!最初に一撃を入れるのはどちらだ!!」
実況の声が遠くなる。
視界がぼやけた。涙か、それとも目眩か。
23番の拳が振りかぶられる。
時間がゆっくりと流れ始めた。
拳が、近づいてくる。
少年の腕は、届かない距離だった。
ドガァッ
衝撃。
そして、暗転。
――――
気づいたとき、少年は簡易ベッドの上で横たわっていた。




