第二章:最後の希望
2.1 ステーションの苦渋の決断
地球側の無人貨物船による救出プランが、文字通り宇宙の藻屑と消えたその瞬間、国際宇宙ステーション(ISS)の船長、アナ・シュミットの脳裏には、ある一つの決断が電光石火のように閃いた。それは、ステーションに備え付けられている、最後の、そして最も貴重な切り札を使うことだった。万が一の事態、例えばステーションが致命的な損傷を受け、生命維持が不可能になった場合に備えて格納されている、緊急脱出用の小型シャトル。通称「ライフボート」。
「船長、地球からの通信です。貨物船の爆発、そしてカプセルの被弾を確認。生存者は宇宙服着用…酸素残量、極めて危険な状態とのことです。」
ISS管制官の報告に、アナは表情一つ変えなかったが、その視線は鋭く一点を見つめていた。ライフボート。この小型シャトルは、2名乗りではあるが、緊急脱出のみを想定しており、構造上、救出できるのは1名だけだった。しかも、これを使用した場合、当然のことながら、ISSに残された最後の緊急脱出手段を失うことになる。それは、ステーションに残る他のクルーの命を、文字通り危険に晒すことを意味していた。だが、それだけではなかった。この2名乗りの小型シャトルは、現在のステーション軌道を離脱し、地球周回軌道をも脱出するだけのパワーを持ったエンジンを装備している。それは、ISSの最後の砦とも言うべき存在だった。
「救出できるのは1名…」。アナは呟いた。ジョンとリア。どちらか一方しか救えないというのか。その事実は、彼女の心を深く抉った。しかし、この一刻を争う状況で、感傷に浸る時間などない。
地球側の無人貨物船のプランが頓挫しつつある今、このISS独自のプラン、ライフボート出撃を提案すべき時が来たと、アナは判断した。彼女は、モニターに映るジョンとリアの青白い顔を見た。彼らを、このまま見捨てるわけにはいかない。それは、船長としての、そして人間としての、彼女の矜持が許さなかった。
「ISS管制、地球管制へ。こちらISS、緊急提案。ライフボートを投入します。ジョンとリアの救出に向かわせる。同時に、ソユーズの打ち上げを早急に要請する。残されたクルーと、ライフボートのパイロットのバックアップが必要です。」
アナの声は、静かだが、鋼のような響きを持っていた。彼女の決断は、ISS内の他のクルーに動揺をもたらす可能性があった。しかし、彼女は、この状況で最善の策であると信じていた。
ロシアのバイコヌール基地。そこでは、次のローテーションクルーをISSに送り込むために準備していたソユーズ宇宙船が、通常のスケジュールに従って整備を受けていた。ISS船長からの緊急要請は、地上管制センターに激震をもたらした。ソユーズの打ち上げを、これほどまでに繰り上げるのは、前代未聞の事態だった。
「ソユーズの整備を繰り上げろ!2週間以内、いや、1週間以内に発射態勢まで持ち込むんだ!ISSの残されたクルーと、救出に向かうライフボートのパイロットのバックアップが必要だ!」バイコヌール基地の責任者は、顔色一つ変えずに指示を出した。技術者たちは、不可能とも思える要求に、ただ黙々と応じた。彼らの表情には、疲労と同時に、人類の希望を背負う者としての、強い使命感が宿っていた。それは、人類の叡智と技術を結集した、壮大なレースの始まりでもあった。
2.2 宇宙の孤独なレース
この時点で、宇宙空間に点在する各機体の並びは、帰還用カプセルに最も近い順に、無人貨物船の残骸、緊急用脱出小型シャトル(ライフボート)、宇宙ステーション(ISS)、そしてソユーズ宇宙船、という形となった。それぞれの距離は、絶望と希望を分ける境界線のように、無限の広がりの中に横たわっていた。
帰還用カプセル内部では、ジョンとリアが、わずかに残された補助エンジンを巧みに噴射し続けていた。エンジンのノズルから吹き出す微弱な推力が、カプセルをゆっくりと、しかし確実に動かしている。彼らは、文字通り、這うようにして貨物船の残骸を回り込み、ライフボートのほうに向かって移動を開始する。だが、その動きはあまりにも緩慢で、絶望的なほどに距離は縮まらない。数百メートルが、数万キロメートルにも感じられた。宇宙の広大さが、彼らの必死の努力をあざ笑うかのように立ちはだかる。
「リア、燃料残量は?」ジョンが、かすれた声で尋ねた。喉がカラカラに乾き、会話すらも労力となる。
リアは、計器パネルの小さな数字を睨んだ。「残りわずか…ほとんどありません。」彼女の声もまた、力なく、宇宙の闇に吸い込まれていくかのようだった。
その間にも、カプセル内部では、次第に船内酸素残量が低下していく。宇宙服を着ていない二人の皮膚は、すでに青白く、唇は紫色に変色していた。リアの表情から、血の気が失われていくのが分かる。さらに燃料電池も底をつき始め、電力節約のため、システムの稼働レベルを落とし始めた。計器パネルのランプが、次々と消えていく。モニターの表示も、最低限の情報に絞られていく。当然のことながら、暖房は第一にカットされた。宇宙の絶対零度が、カプセル内部へと容赦なく忍び寄ってくる。二人は、震える体を寄せ合い、わずかな体温を分け合った。お互いの震えが、わずかながらも温かさとなって伝わる。
「寒い…」リアが、ジョンの肩に頭を預けた。
ジョンは、彼女の体を抱きしめる力を強くした。彼の心臓の鼓動が、自分の鼓動よりも大きく聞こえる。生きている。まだ、生きている。その事実だけが、彼らを支える唯一の希望だった。窓の外には、貨物船の残骸が、冷たく、そして無慈悲に漂っている。彼らの希望は、完全に打ち砕かれたかに見えた。だが、彼らは諦めなかった。宇宙空間に浮かぶ、三つの小さな光。それは、絶望と希望の間で揺れ動く、人類の挑戦の象徴だった。
2.3 命を繋ぐ奇跡
緊急脱出用の小型シャトル、ライフボートのパイロット、マイク・コリンズは、冷静沈着な男だった。貨物船の爆発、そしてカプセルの被弾を目撃した時、彼の心臓は激しく脈打ったが、その表情には一切動揺を見せなかった。彼は、与えられた使命の重さを理解していた。ジョンとリアを救う。その一心で、彼は操縦桿を握りしめた。
「管制、状況を報告せよ!」無線から、ISS管制官の緊迫した声が聞こえる。「貨物船は…貨物船は爆発、カプセルも被弾しました!生命反応は…宇宙服の反応のみ!」報告官の声が震えているのが分かった。
マイクの心臓が、激しく脈打った。このままでは、ジョンとリアは死ぬ。彼らを救う唯一の手段が、目の前で消え去ったのだ。だが、彼の胸には、一つの決意が芽生えていた。それは、計画にも、命令にもない、独断での行動だった。彼には、パイロットとしての、そして人間としての、強い倫理観があった。見捨ててはおけない。
「こちら緊急シャトル、目標カプセルへ向かう!」マイクは、無線にそう告げた。彼の声は、これまでの冷静なトーンとは一変し、強い意志を秘めていた。
「待て!緊急シャトル!命令違反だ!ランデブーは危険すぎる!しかも、救助できるのは一人だけだ!」管制官の怒鳴り声が、無線を通じて響き渡る。その声には、マイクを止めようとする必死さが滲んでいた。
マイクは、その言葉を無視した。彼の耳には、ただジョンとリアの命を救うという使命だけが響いていた。実際には、この距離からカプセルとの精密なランデブーを成功させられるかどうか、定かではなかった。故障したカプセルのわずかな動きに合わせ、完璧な軌道を計算しなければならない。ましてや、真空状態の船内で、宇宙服を着用した乗員が安全に移乗できる保証など、全くない。しかも、この緊急シャトルは2名乗りでありながら、救助できるのは1名のみという、絶望的な限界がある。それでも、マイクは進むしかなかった。彼の中の、兵士としての、人間としての倫理が、彼を突き動かしていた。
緊急脱出用のシャトルは、マイクの熟練した操縦と、最後の望みを賭けたシステム調整によって、加速した。精密な計算と、直感的な操縦が融合し、宇宙空間を滑るように進んでいく。彼は、カプセルのわずかな推力調整と、自身の操縦技術、そして運を信じた。一点の曇りもない集中力で、彼は操縦桿を握りしめ、ターゲットへと向かう。
漆黒の宇宙空間で、三つの小さな点が互いに接近していく。無人貨物船の残骸が、まるで不吉な亡霊のように、その周囲を漂っている。その瓦礫が、彼らの間に横たわる絶望を象徴しているかのようだった。
そして、奇跡は起きた。
緊急用シャトルは、帰還カプセルとのランデブーに成功したのだ。わずかな衝撃とともに、シャトルがカプセルの船体に接触する。ドッキングアームを持たないシャトルとカプセルが、まるで手を取り合うように、宇宙空間で結合した。計器パネルのランプが緑色に変わり、結合が成功したことを告げる。マイクは、その瞬間、安堵のため息をついた。彼の額には、びっしりと汗が滲んでいた。
マイクは、素早く船外活動用の装備を身につけ、エアロックへと向かった。宇宙服を着用したジョンとリアが、カプセルの内部で、震える体で彼を待っていた。彼らの宇宙服の酸素残量を示すランプは、すでに危険域に達している。
マイクは、自身の緊急用シャトルが持つ大容量の酸素タンクから、直接ジョンとリアの船外活動服の酸素ユニットに酸素を供給させることに成功した。それは、まさに綱渡りのような作業だった。ホースを接続し、バルブを慎重に開く。酸素が、乾ききった彼らの生命維持装置へと流れ込む。
2名の遭難者が3名に増えた。しかし、この瞬間、彼らの生存可能期間は、わずか24時間から1週間にまでのびることとなった。それは、ソユーズ宇宙船の救助を待つための、最後の、そして唯一の選択肢だった。彼らは、絶望の淵から、わずかな希望の光を手にしたのだ。宇宙の広大さの中で、三つの命が、細い糸で繋がれた。そして、彼らの運命は、地上で進行中の、もう一つの壮大なレースに委ねられることになった。