第一章:絶望の漂流
国際宇宙ステーション(ISS)から地球への帰還は、いつも厳粛な儀式だった。だが、今回は違った。要員交代を終え、故郷の惑星へと向かうはずだった乗員2人を乗せた帰還用カプセルは、その運命を大きく狂わせた。航法装置の突発的な故障。それは、彼らの希望を打ち砕く、冷酷な宣告だった。進入角が浅すぎたカプセルは、地球の濃密な大気にはじき飛ばされ、まるで石ころのように宇宙空間へと舞い上がった。地球帰還軌道はおろか、地球周回軌道すらも外れ、彼らは瞬く間に、広大な宇宙の迷い子と化してしまった。
「こちらカプセル。応答願います、ステーション。こちらカプセル、聞こえますか!」
コックピットの薄暗い照明が、二人の顔を青白く照らす。クルーの一人、ジョン・ミラーは、何度も呼びかけを繰り返したが、応答は途切れ途切れで、雑音が混じるばかりだ。彼の声は焦燥に満ち、額には冷や汗が滲んでいた。隣に座るもう一人、女性クルーのリア・マルティネスは、計器パネルの数字に目を凝らしていた。彼女の瞳は、映し出された数値の冷たさに、絶望の色を深くしていた。
酸素残量:1週間分。
絶望的な数字が、彼らの心を蝕む。この広大な宇宙で、たった1週間。それは、永遠にも等しい時間の短さだった。宇宙服を脱ぎ、簡易的な作業着姿の二人の体は、カプセル内部のわずかな浮遊感を保ちながら、重力のない空間に漂っている。酸素供給装置の規則的な作動音が、彼らの残された時間を刻む秒針のように響く。その音は、まるで自分たちの命が少しずつ削られていく音のように聞こえた。
かろうじて奇跡的につながった宇宙ステーションとの通信回線が、彼らと地球をつなぐ唯一の命綱だった。その細い糸を頼りに、地球と宇宙ステーション双方で、かつてない規模の救出活動が始まった。地球では、各国の宇宙機関が緊急会議を開き、ホワイトボードには複雑な軌道計算とタイムラインが書き込まれていく。誰もが、最悪のシナリオを頭の片隅に置きながらも、奇跡を信じようと必死だった。司令室の壁に設置された巨大なモニターには、カプセルの現在位置を示す光点が、宇宙の闇の中を漂うようにゆっくりと動いていた。その微かな動きが、地上の人々の希望の光でもあり、また、時間の経過を容赦なく告げる残酷な針でもあった。
地球では、スペースシャトルがすでに退役し、次期有人宇宙船のプロトタイプがようやく完成したばかりだった。NASAの管制室では、ベテランのフライトディレクターたちが顔を突き合わせ、議論を重ねていた。開発チームは、この未完成の機体をイチかバチかで使うか、あるいは、莫大な費用と時間をかけて退役したシャトルを急遽整備して打ち上げるか、という究極の選択を迫られていた。プロトタイプはまだテスト飛行すら終えていない。万が一の事故でもあれば、今後の有人宇宙開発計画に甚大な影響を及ぼす。退役シャトルの整備には、パーツの調達からシステムの再確認まで、膨大なプロセスが伴う。それは、平時であれば数ヶ月を要する作業だ。しかし、いずれの案も、彼らに残された1週間というタイムリミットを考えれば、絶望的だ。1週間や2週間でできるプランではなかった。時間との戦いは、すでに始まっていた。
そんな中、一縷の望みをかけるかのように、無人貨物船を使うという大胆な案が提案された。それは、本来ISSへの食料や物資の補給に使われるはずだった、使い捨ての輸送船だ。宇宙ステーションへの定期便として運用され、地球低軌道までしか想定されていない機体だった。その貨物船に、緊急で追加ブースターを取り付け、地球周回軌道外へ飛ばすという、前代未聞のプランだった。計画の報告を受けた管制官たちは、誰もがその無謀さに息を呑んだ。膨大な計算と、無理な設計変更、そしてそれを実行するだけの技術的困難が山積していたが、それは、宇宙で漂流する二人を救うための、地球に残された唯一の希望だった。地上の技術者たちは、眠る間も惜しんで貨物船の改造に取り掛かった。溶接の火花が散り、コンピューターの冷却ファンが唸りを上げる。宇宙船の発射準備が行われるケネディ宇宙センターには、不夜城のように明かりが灯り続けていた。
「これは、賭けだ。だが、他に選択肢はない」NASAの長官が、疲労困憊の技術者たちに語りかけた。彼の声には、決断を下した者の重みが込められていた。彼の脳裏には、過去の宇宙事故で失われた命の記憶が蘇る。今度こそ、その悲劇を繰り返すわけにはいかない。
貨物船は、自動航法システムを駆使し、奇跡的に難破した帰還カプセルの近くまで辿り着いた。宇宙の広大さからすれば、針の穴を通すような精密な航行だった。数百万キロメートルに及ぶ広大な宇宙空間で、わずか数メートルという誤差で目標に接近する。それは、まさに人類の技術力の結晶と言える瞬間だった。しかし、そこから先が問題だった。貨物船には、ドッキングアームのような精密なランデブーを行うためのシステムが備わっていなかったのだ。無人であるゆえの限界が、ここで露呈した。貨物船は、カプセルからわずか数百メートルの距離で、それ以上は近づけずに停止していた。お互いの姿は、窓越しにはっきりと見える。だが、その数百メートルが、まるで乗り越えられない銀河の距離のように感じられた。
「こちら貨物船管制。カプセル、聞こえますか。これ以上は接近できません。カプセル側で、貨物船のほうへ移動してください」
無線の向こうからの指示に、ジョンは唇を噛んだ。絶望的な状況は変わらない。今度は逆に、帰還カプセルのほうを無人貨物船のほうに近づけるしかない。だが、故障した航法装置では、それすらも至難の業だった。カプセルの補助エンジンは、わずかな姿勢制御にしか使えない、本来ならば宇宙ステーションから離脱する際の軌道微調整に使うためのものだ。その微弱な推力で、数百メートルもの距離を移動するというのは、気の遠くなるような作業だった。それでも、彼らは最後の望みをかけて、補助エンジンを巧みに噴射し、貨物船のほうに向かって移動を開始する。エンジンの噴射音は、真空の宇宙空間では聞こえないが、カプセルの機体が微かに振動するたびに、彼らの心臓が締め付けられるようだった。しかし、その動きはあまりにも緩慢で、絶望的なほどに距離は縮まらない。宇宙の広大さが、彼らの必死の努力をあざ笑うかのように立ちはだかる。時間だけが、容赦なく、そして確実に過ぎていった。
リアは、疲労で焦点が定まらない目でジョンを見つめた。「ジョン、このままじゃ…」彼女の声は、途切れ途切れだった。酸素の消費を抑えるため、会話すらままならない。ジョンは、リアの手を握りしめた。彼の掌もまた、汗ばんでいた。彼らに残されたのは、わずかな時間と、かすかな希望だけだった。この宇宙の闇の中で、彼らはただ、奇跡が起こることを祈るしかなかった。宇宙服の内側で、生命維持装置の微かな作動音が、彼らの残された時間を刻み続けている。






