豪雨
「だから僕はやめようって言ったんだ」
申し訳無さそうな顔で差し入れのおにぎりを置いていった女将を見送り、僕はこの旅の連れを見やった。長身の浴衣姿の向こうは白く煙り、そこに広がるはずの湖も山の景色も何一つ見えない。帰りに通るはずだった道は、昨晩のうちに水の下に沈んでしまった。
「大雨の予報は出てただろ。なのに君が強行するから……。これあれだぞ、推理小説とかホラーならそろそろ誰かやられる頃だぞ」
いやあ、いけると思ったんだよ、とこちらに背を向けた男から軽薄な答えが返ってくる。
「でもほら、こういうのってドキドキしないか?」
「確かに廊下で鬼の面つけた殺人鬼に遭遇しそうだけど」
「違うよ。何かさあ、楽しくないか? 特別な感じして」
「そうかな。僕は、少し……怖いよ」
どうどうと滝のように降り続く雨は、道路だけでなくこの旅館まで水の底に沈めてしまいそうだ。
「全く、仕様のないやつだな」
ようやく窓から離れた同行者が、僕の隣に腰を下ろす。伸びてきた手に、後ろから抱きすくめられた。
「これでどうだ?」
「……ん」
小さく答えて目を閉じる。もっと、と背をもたせかけると、唇に温かいものが触れる。
そして――雨音が、全てを消していく。