客観的事実
ようやく、日が昇った。薄いカーテン越しに差し込む光が、ぼんやりと部屋を照らしている。
荷造りを終えたのは、それよりも四時間ほど前だった。何とかキャリーケースに必要なものを詰め終えたものの、その後も高揚感が収まらず、布団に入っても目が冴えてしまった。明日のこと、雄也のこと――頭の中をぐるぐると駆け巡る思いが眠気を遠ざける。
(眠れない……)
そう呟いて目を閉じるも、いつの間にか記憶は途切れ、気づけばアラームの音が部屋中に鳴り響いていた。
耳に刺さるような電子音を止めようと、左手でスマホを探る。だが、いつも置いてあるはずの枕元にスマホが見当たらない。布団の中で手をさまよわせ、シーツの皺を辿りながら手探りを続けるも、触れるのは布の感触ばかり。
「もう、どこだよ」
寝ぼけ眼のまま、無理やり上半身を起こすと、頭がずしりと重く感じた。隣のベッドサイドテーブルに目をやると、スマホはそこに落ちていたらしい。画面が点滅しながら、律儀にアラームを鳴らし続けている。
手を伸ばしてようやくスマホを掴み、アラームを止める。部屋には急に静寂が戻り、遠くで聞こえる鳥の声と、窓の外から微かに聞こえる車の音だけが響いていた。
顔を軽く擦る。寝不足で少しぼんやりする頭も、これから始まる一日に向けて徐々に動き出していく。
あ、今日はいよいよ、大阪へ行く日だ――雄也と一緒に。
その事実が心の奥で弾けて、眠気なんて一瞬で吹き飛んだ。胸の中が期待と緊張でじわじわと膨らんでいくのを感じながら、俺は布団を蹴り飛ばし、朝の支度を始めた。
アラームを止めて、ゆっくりと起き上がる。カーテンの隙間から差し込む陽光が部屋に広がり、朝だというのにすでに空気は重たく、まとわりつくような暑さを感じた。
八月の夏本番。早朝のはずなのに、気温はどんどん上昇していて、扇風機だけではもう太刀打ちできなくなっている。部屋の中の空気はこもり、熱気がじわじわと肌に張り付くようだ。
「暑……」
寝起きの身体に容赦なく暑さがのしかかり、思わず小さく呟く。Tシャツがすでに少し湿っているのを感じながら、窓を少しだけ開けると、外から熱を含んだ風が入り込んできた。どこまでも夏らしい朝。
エアコンをつけようと、今度はリモコンを探す。しかし、掃除していないことを思い出し、エアコンを使うのは諦めた。
一階に行けば、涼しいだろう。
(あ、雄也はもう起きたかな)
「雄也、起きた?」
そうメッセージを送り、返信を待ちながら身支度を始めることにした。洗面所に向かい、冷たい水で顔を洗う。寝不足の重たいまぶたが少しずつ軽くなり、気分がすっきりとしていく。歯を磨いて口の中をさっぱりさせ、鏡に映る自分の髪に手を伸ばした。
雄也と出かけるんだから、髪もきれいにしよう。そう思いながら、丁寧に髪を整えていく。いつもより少し時間をかけて、サラリとまとまるようにセットする。気合いを入れすぎない程度に自然に――それでも、鏡に映る姿がどこか引き締まって見える気がした。
その時、ポケットの中のスマホが小さく震えた。画面を見ると、そこには「おはよー!」と雄也からの返信が届いていて、自然と口元が緩んだ。今日がいよいよ始まる。実感が胸を高鳴らせた。
『もうすぐだね』
「うん! 俺、超楽しみ」
『陸人がそんなに楽しそうにしてるの珍しいね』
「だって、雄也と旅行だもん」
「旅行?笑 俺んちに泊まるんだよ?」
「それでも、俺からしたら旅行!」
『そっか笑 じゃあ、俺も楽しみ。遅れんなよ』
「うん、またあとでね」
『おけー』
スマホを閉じた時、後ろから声をかけられた。
「ねぇ、何ニヤニヤしてんの?」
妹だ。いつも静かに立っているから驚かされる。
てか、俺そんににニヤニヤしてたか? 急に恥ずかしくなった。
「うわ! い、いたんだ」
「いたよ。早くしてよ」
「ごめんごめん、ちょっと待って」
「てか、お兄ちゃん。雄也くんのこと好きなの?」
「はぁ!? な、なんでだよ」
いきなり、客観的な事実を突きつけられた。
(なんでそんなこと言うんだ?)と頭の中で反射的に問いかける。
いつから気づいてた?
俺が雄也のことを好きだなんて……
隠してきたつもりだった。
ずっと、ただの友達のふりをして、平静を装って過ごしてきたはずなのに。
俺の何が、どこが、この気持ちを悟らせてしまったんだろう。
胸がざわつく。
驚きと動揺、そして恥ずかしさが混ざり合って、まともに考えられない。
言葉にしようにも、喉が乾いて何も出てこない。ただ、雄也の存在を前にして、俺の心の中の秘密がとうとう暴かれたことだけは確かだった。
「やっぱりね。さっきのも雄也くんでしょ? すごいニヤニヤしてたし」
「は、はあ? し、してねぇし」
「はいはい。もう早くしてよね」
「わ、わかったから、ちょっと待って」
取り敢えず、急いで髪を整える。今流行りのガイルヘアに挑戦してみたが、鏡に映る自分を見ても、これが正解なのかよく分からない。サイドの流れとトップのボリュームに気を使ったつもりだけど、少しだけ手が震えたせいか、ところどころ乱れている気もする。
「まぁ、こんなもんか……」
小さく呟いて、手櫛で微調整を加えた。完璧ではないけど、これで十分だろう。雄也と出かけるのに、格好悪い姿だけは見せたくなかったから。最後にもう一度鏡を見つめ、よし、と小さく気合を入れて部屋を出た。
「似合うじゃん」
「え」
「早く告白しちゃえば?」
「は、はあ? な、何言ってんだよ」
突然「告白しろ」なんて言われた。言葉の意味が頭にじわじわと染み込んでいく。その言葉の衝撃よりも、やっぱり俺が混乱したのは、なんで、俺が雄也のことを好きだってわかったんだ?
そんな素振りを見せたつもりなんて一度もなかった。それなのに、どうして見抜かれたんだろう。胸の内を誰にも悟られないように、ずっと隠してきたはずだったのに。
(なんで……?)と、思わず心の中で呟く。
自分ではうまく隠せていたつもりでも、きっとどこかに、雄也に対する特別な感情が滲み出てしまっていたのかもしれない。
冷静を装いながらも、頭の中はぐるぐると回り続ける。「どうして気づいたんだ?」
その答えを探しながら、俺は雄也のことばかり考えてしまっていた。
「苦しいだけだよ。お兄ちゃん、女っ気ないし、雄也くんといるとすごく楽しそう」
「そ、それは……」
「雄也くんも、お兄ちゃんのこと気になってるんじゃないかな」
「え?」
「そんな気がするだけ。早く行けば?」
妹は、時々鋭いことを言う。普段は適当にからかってくるくせに、肝心なところで核心をついてくるから困る。どうやら俺が雄也のことを好きだって、気づいているらしい。隠しているつもりでも、身近な家族には簡単に見抜かれてしまうものなんだろうか。
けれど、それよりも気になったのは、「雄也もお前のこと気にしてるんじゃない?」という妹の言葉だった。
ただのからかいかもしれないけれど、その一言が胸の中で静かに響いた。雄也が俺のことを気にしている? 本当に?
でも、もしそうだとしても、それは「気になってる」だけで、「好き」ではないんだろう?
俺と同じ気持ちなわけがない。
そう自分に言い聞かせながらも、どこか期待してしまう自分がいることに、また少し情けなくなる。
(あー、もうなんなんだよ)
リビングに行くと、母と父がすでにいた。
「おはよう。今日から大阪だよな。なんかこれで菓子折りでも買っていけ」
父が一万円札を渡してくれた。
「あ、ありがとう」
「世話になるんだろ。お釣りはいらないから高いの買っていけ」
「うん」
「雄也くんも全然むかしと変わってないな。強いて言うなら、顔は変わったけどな」
「顔?」
「ああ。可愛くなったな。普通男の子は、かっこよくなるもんだと思ってたけど、あの子は可愛くなってる」
「何言ってんの父さん」
「まあ、雄也くんもうちの子みたいなもんだからな」
「そうよー。お父さんも雄也くんのこと好きなんだから」
「何言ってるんだ。息子みたいにってことだ」
母も父も、からかい合うのが好きで、時々こんなふうに軽口を叩き合っている。けれど、母と父の言葉の端々から、やっぱり雄也は「可愛い」と思われているのが分かる。
俺にとっては当たり前の存在でも、父や母の目から見ても雄也は特別に映るのだろう。それが何だか嬉しくもあり、少しだけ誇らしく感じるのだった。
「雄也くんによろしく言っといてね」
「うん」
「もう行くの?」
「九時に立川駅で会うよ」
「そう。じゃあと四十分くらいね」
あと四十分ほどで立川に着かなければならない。時計を見て焦りながら、急いで朝ごはんを済ませることにした。
テーブルの上には、母が用意してくれた朝食が並んでいる。スクランブルエッグと目玉焼き、たらこ、切り干し大根、そして湯気の立つ味噌汁。
朝からなかなかのボリュームだが、そのすべてが美味しそうで、見た瞬間に食欲が湧いてくる。
(朝からこんなに作ってくれたの?)と心の中で感謝しつつ、手を合わせて食べ始める。
柔らかなスクランブルエッグは口の中でとろりと広がり、たらこの塩気が絶妙にご飯に合う。切り干し大根はシャキシャキとした歯ごたえで、味噌汁はしっかりと出汁が効いていて、ほっとする味だった。
(美味しい)
小さく胸中で呟きながら、一気に箸を進める。
ボリュームがあるとはいえ、気づけばお茶碗もおかずもすべて綺麗に平らげていた。母の朝ごはんは、どんなに急いでいても食べずにはいられない。
食べ終えると、急いで食器を片付けて部屋に戻る。しかし、部屋に入った途端、じっとしていられない自分に気づく。今日はいよいよ大阪へ行く日だ。
しかも、雄也と一緒に。そう思うと、どうにもそわそわしてしまう。
荷物は昨夜のうちにほとんど詰め終えているはずだが、念のためもう一度キャリーケースを開けて最終チェックをする。着替え、洗面道具、充電器……大丈夫、忘れ物はない。
「……よし」
そう呟いて、キャリーケースのファスナーをしっかり閉じる。まだ時間は少しだけ早いけれど、これ以上部屋にいると落ち着かないし、何かしらのミスをしそうな気がした。
「早めに出るか」
立ち上がり、玄関に向かう。キャリーケースの持ち手を引き出す音が、静かな朝の空気に響いた。扉を開けると、外の夏の光が眩しく差し込んでくる。蝉の声が遠くから聞こえ、照りつけるような日差しが今日の暑さを予感させる。
「佐野さんに迷惑かけないのよ」
「うん。わかってるよ」
「頑張ってよ、お兄ちゃん」
「うるさい」




