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青を翔ける  作者: 倉津野陸斗
第3章 響想
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客観的事実

 ようやく、日が昇った。薄いカーテン越しに差し込む光が、ぼんやりと部屋を照らしている。


 荷造りを終えたのは、それよりも四時間ほど前だった。何とかキャリーケースに必要なものを詰め終えたものの、その後も高揚感が収まらず、布団に入っても目が冴えてしまった。明日のこと、雄也のこと――頭の中をぐるぐると駆け巡る思いが眠気を遠ざける。


(眠れない……)


 そう呟いて目を閉じるも、いつの間にか記憶は途切れ、気づけばアラームの音が部屋中に鳴り響いていた。


 耳に刺さるような電子音を止めようと、左手でスマホを探る。だが、いつも置いてあるはずの枕元にスマホが見当たらない。布団の中で手をさまよわせ、シーツの皺を辿りながら手探りを続けるも、触れるのは布の感触ばかり。


「もう、どこだよ」


 寝ぼけ眼のまま、無理やり上半身を起こすと、頭がずしりと重く感じた。隣のベッドサイドテーブルに目をやると、スマホはそこに落ちていたらしい。画面が点滅しながら、律儀にアラームを鳴らし続けている。


 手を伸ばしてようやくスマホを掴み、アラームを止める。部屋には急に静寂が戻り、遠くで聞こえる鳥の声と、窓の外から微かに聞こえる車の音だけが響いていた。


 顔を軽く擦る。寝不足で少しぼんやりする頭も、これから始まる一日に向けて徐々に動き出していく。


 あ、今日はいよいよ、大阪へ行く日だ――雄也と一緒に。


 その事実が心の奥で弾けて、眠気なんて一瞬で吹き飛んだ。胸の中が期待と緊張でじわじわと膨らんでいくのを感じながら、俺は布団を蹴り飛ばし、朝の支度を始めた。


 アラームを止めて、ゆっくりと起き上がる。カーテンの隙間から差し込む陽光が部屋に広がり、朝だというのにすでに空気は重たく、まとわりつくような暑さを感じた。


 八月の夏本番。早朝のはずなのに、気温はどんどん上昇していて、扇風機だけではもう太刀打ちできなくなっている。部屋の中の空気はこもり、熱気がじわじわと肌に張り付くようだ。


「暑……」


 寝起きの身体に容赦なく暑さがのしかかり、思わず小さく呟く。Tシャツがすでに少し湿っているのを感じながら、窓を少しだけ開けると、外から熱を含んだ風が入り込んできた。どこまでも夏らしい朝。


 エアコンをつけようと、今度はリモコンを探す。しかし、掃除していないことを思い出し、エアコンを使うのは諦めた。

 一階に行けば、涼しいだろう。


(あ、雄也はもう起きたかな)


「雄也、起きた?」


 そうメッセージを送り、返信を待ちながら身支度を始めることにした。洗面所に向かい、冷たい水で顔を洗う。寝不足の重たいまぶたが少しずつ軽くなり、気分がすっきりとしていく。歯を磨いて口の中をさっぱりさせ、鏡に映る自分の髪に手を伸ばした。


 雄也と出かけるんだから、髪もきれいにしよう。そう思いながら、丁寧に髪を整えていく。いつもより少し時間をかけて、サラリとまとまるようにセットする。気合いを入れすぎない程度に自然に――それでも、鏡に映る姿がどこか引き締まって見える気がした。


 その時、ポケットの中のスマホが小さく震えた。画面を見ると、そこには「おはよー!」と雄也からの返信が届いていて、自然と口元が緩んだ。今日がいよいよ始まる。実感が胸を高鳴らせた。


『もうすぐだね』


「うん! 俺、超楽しみ」


『陸人がそんなに楽しそうにしてるの珍しいね』


「だって、雄也と旅行だもん」


「旅行?笑 俺んちに泊まるんだよ?」


「それでも、俺からしたら旅行!」


『そっか笑 じゃあ、俺も楽しみ。遅れんなよ』


「うん、またあとでね」


『おけー』


 スマホを閉じた時、後ろから声をかけられた。


「ねぇ、何ニヤニヤしてんの?」


 妹だ。いつも静かに立っているから驚かされる。

 てか、俺そんににニヤニヤしてたか? 急に恥ずかしくなった。


「うわ! い、いたんだ」


「いたよ。早くしてよ」


「ごめんごめん、ちょっと待って」


「てか、お兄ちゃん。雄也くんのこと好きなの?」


「はぁ!?  な、なんでだよ」


 いきなり、客観的な事実を突きつけられた。


(なんでそんなこと言うんだ?)と頭の中で反射的に問いかける。

 いつから気づいてた? 

 俺が雄也のことを好きだなんて……


 隠してきたつもりだった。

 ずっと、ただの友達のふりをして、平静を装って過ごしてきたはずなのに。

 俺の何が、どこが、この気持ちを悟らせてしまったんだろう。


 胸がざわつく。

 驚きと動揺、そして恥ずかしさが混ざり合って、まともに考えられない。

 言葉にしようにも、喉が乾いて何も出てこない。ただ、雄也の存在を前にして、俺の心の中の秘密がとうとう暴かれたことだけは確かだった。


「やっぱりね。さっきのも雄也くんでしょ? すごいニヤニヤしてたし」


「は、はあ? し、してねぇし」


「はいはい。もう早くしてよね」


「わ、わかったから、ちょっと待って」


 取り敢えず、急いで髪を整える。今流行りのガイルヘアに挑戦してみたが、鏡に映る自分を見ても、これが正解なのかよく分からない。サイドの流れとトップのボリュームに気を使ったつもりだけど、少しだけ手が震えたせいか、ところどころ乱れている気もする。


「まぁ、こんなもんか……」


 小さく呟いて、手櫛で微調整を加えた。完璧ではないけど、これで十分だろう。雄也と出かけるのに、格好悪い姿だけは見せたくなかったから。最後にもう一度鏡を見つめ、よし、と小さく気合を入れて部屋を出た。


「似合うじゃん」


「え」


「早く告白しちゃえば?」


「は、はあ? な、何言ってんだよ」


 突然「告白しろ」なんて言われた。言葉の意味が頭にじわじわと染み込んでいく。その言葉の衝撃よりも、やっぱり俺が混乱したのは、なんで、俺が雄也のことを好きだってわかったんだ?


 そんな素振りを見せたつもりなんて一度もなかった。それなのに、どうして見抜かれたんだろう。胸の内を誰にも悟られないように、ずっと隠してきたはずだったのに。


(なんで……?)と、思わず心の中で呟く。


 自分ではうまく隠せていたつもりでも、きっとどこかに、雄也に対する特別な感情が滲み出てしまっていたのかもしれない。


 冷静を装いながらも、頭の中はぐるぐると回り続ける。「どうして気づいたんだ?」

 その答えを探しながら、俺は雄也のことばかり考えてしまっていた。


「苦しいだけだよ。お兄ちゃん、女っ気ないし、雄也くんといるとすごく楽しそう」


「そ、それは……」


「雄也くんも、お兄ちゃんのこと気になってるんじゃないかな」


「え?」


「そんな気がするだけ。早く行けば?」


 妹は、時々鋭いことを言う。普段は適当にからかってくるくせに、肝心なところで核心をついてくるから困る。どうやら俺が雄也のことを好きだって、気づいているらしい。隠しているつもりでも、身近な家族には簡単に見抜かれてしまうものなんだろうか。


 けれど、それよりも気になったのは、「雄也もお前のこと気にしてるんじゃない?」という妹の言葉だった。


 ただのからかいかもしれないけれど、その一言が胸の中で静かに響いた。雄也が俺のことを気にしている? 本当に?


 でも、もしそうだとしても、それは「気になってる」だけで、「好き」ではないんだろう?

 俺と同じ気持ちなわけがない。

 そう自分に言い聞かせながらも、どこか期待してしまう自分がいることに、また少し情けなくなる。


(あー、もうなんなんだよ)


 リビングに行くと、母と父がすでにいた。


「おはよう。今日から大阪だよな。なんかこれで菓子折りでも買っていけ」


 父が一万円札を渡してくれた。


「あ、ありがとう」


「世話になるんだろ。お釣りはいらないから高いの買っていけ」


「うん」


「雄也くんも全然むかしと変わってないな。強いて言うなら、顔は変わったけどな」


「顔?」


「ああ。可愛くなったな。普通男の子は、かっこよくなるもんだと思ってたけど、あの子は可愛くなってる」


「何言ってんの父さん」


「まあ、雄也くんもうちの子みたいなもんだからな」


「そうよー。お父さんも雄也くんのこと好きなんだから」


「何言ってるんだ。息子みたいにってことだ」


 母も父も、からかい合うのが好きで、時々こんなふうに軽口を叩き合っている。けれど、母と父の言葉の端々から、やっぱり雄也は「可愛い」と思われているのが分かる。


 俺にとっては当たり前の存在でも、父や母の目から見ても雄也は特別に映るのだろう。それが何だか嬉しくもあり、少しだけ誇らしく感じるのだった。

 

「雄也くんによろしく言っといてね」


「うん」


「もう行くの?」


「九時に立川駅で会うよ」


「そう。じゃあと四十分くらいね」


 あと四十分ほどで立川に着かなければならない。時計を見て焦りながら、急いで朝ごはんを済ませることにした。


 テーブルの上には、母が用意してくれた朝食が並んでいる。スクランブルエッグと目玉焼き、たらこ、切り干し大根、そして湯気の立つ味噌汁。

 朝からなかなかのボリュームだが、そのすべてが美味しそうで、見た瞬間に食欲が湧いてくる。


(朝からこんなに作ってくれたの?)と心の中で感謝しつつ、手を合わせて食べ始める。

 柔らかなスクランブルエッグは口の中でとろりと広がり、たらこの塩気が絶妙にご飯に合う。切り干し大根はシャキシャキとした歯ごたえで、味噌汁はしっかりと出汁が効いていて、ほっとする味だった。


(美味しい)


 小さく胸中で呟きながら、一気に箸を進める。

 ボリュームがあるとはいえ、気づけばお茶碗もおかずもすべて綺麗に平らげていた。母の朝ごはんは、どんなに急いでいても食べずにはいられない。


 食べ終えると、急いで食器を片付けて部屋に戻る。しかし、部屋に入った途端、じっとしていられない自分に気づく。今日はいよいよ大阪へ行く日だ。

 しかも、雄也と一緒に。そう思うと、どうにもそわそわしてしまう。


 荷物は昨夜のうちにほとんど詰め終えているはずだが、念のためもう一度キャリーケースを開けて最終チェックをする。着替え、洗面道具、充電器……大丈夫、忘れ物はない。


「……よし」


 そう呟いて、キャリーケースのファスナーをしっかり閉じる。まだ時間は少しだけ早いけれど、これ以上部屋にいると落ち着かないし、何かしらのミスをしそうな気がした。


「早めに出るか」


 立ち上がり、玄関に向かう。キャリーケースの持ち手を引き出す音が、静かな朝の空気に響いた。扉を開けると、外の夏の光が眩しく差し込んでくる。蝉の声が遠くから聞こえ、照りつけるような日差しが今日の暑さを予感させる。


「佐野さんに迷惑かけないのよ」


「うん。わかってるよ」


「頑張ってよ、お兄ちゃん」


「うるさい」

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