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青を翔ける  作者: 倉津野陸斗
第2章 天織り
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俺、どうしたんだろ……

 陸人は何も言わず、ただ先に帰るとだけ呟いて、足早に教室を出ていった。その背中は、いつもより少しだけ遠く感じられて、無意識のうちに追いかけたい衝動が胸をよぎった。


 けれど、目の前の現実が俺をその場に留めた。机の上にはまだ教科書やノートが広げられたままで、片付けるには少し時間がかかりそうだった。


 そして、未来は俺の隣で楽しそうに笑いながら話している。その明るい声が教室の中に響くたび、賑やかな空気が広がっていく。


 彼女の笑顔を見ていると、無理に中断して立ち上がることが憚られて、結局タイミングを失った。未来の声や他の学生たちの笑い声が交じり合い、教室は昼下がりの陽光のような温かさに包まれているはずだった。


 だけど、陸人のいなくなった席だけが、そこにぽっかりと空白を作り出しているようで、どうしてもその光景に目が釘付けになってしまった。


 窓の外からは、午後の柔らかな陽射しが差し込んでいる。白いカーテンが時折風に揺れるたびに、その向こうに広がる青空と遠くの木々の緑が、視界の片隅にちらちらと映る。


 外はきっと暑い。コンクリートの地面が太陽の光を受けてじりじりと熱を放っているだろう。


 その中を、陸人はどんな表情で歩いているのだろう。そんな想像が頭を離れなかった。


 教室にいる俺の体は動けない。だけど心だけが、彼の後を追いかけるように揺れ動いている。あの背中が今どれくらい遠くに行ってしまったのか、気になって仕方がない。


 自分を残して歩き去った陸人の心情を知る術はないけれど、どうしてもその姿を頭から振り払うことができない。


 未来が話している内容はもう耳に入らなかった。頷きながら適当に相槌を打つ自分が情けなく、こんな気持ちでその場に座り続けている自分を嫌いになりそうだった。


 教室の賑やかな空気に溶け込むふりをしながら、俺の心はどこか冷たく孤独な場所に立ち尽くしていた。

 結局、外に出た陸人がどんな顔をしているのか、確認することもできない。


(あー、もう。絶対、陸人怒ってるな……)


 二冊の教科書を手に取り、勢いよくリュックへ押し込んだ。ページの端が少し折れてしまったが、そんなことは気にする余裕もなかった。


「ねー。雄也は、今度いつシフト入ってる?」


「え? ちょっと待って」


 バイトのシフトを尋ねられ、スマホの予定表を開いて確認する。スクロールして、明後日に印が付いてるのを確認した。


 すぐに答えると、少し安心したような表情を浮かべた。


「明後日。十八時から」


「おお、一緒じゃん!」


「あ、そうなん?」


 適当な返事しかできない自分が少し申し訳なく思えたが、未来はまったく気にする様子もなく、相変わらず楽しそうに話していた。その笑顔に救われた気がする。


「あ、ねー。陸人くんなんですぐ帰っちゃったの?」


 未来が気になって仕方がない様子で訊いてきた。俺が未来と話しすぎたから……


「未来に嫉妬したんじゃない?」


 冗談めかして軽く笑いながら、未来に返事をする。

 気まずい空気にしたくない一心で、できるだけ何でもないように装ってみせた。未来が嫌な気持ちを抱かないように、言葉を選ぶ。


 それでも心の奥底では、陸人に対する申し訳なさが消えない。彼の気持ちを考えず、安易に場を和ませようとする自分に嫌気が差す。


 未来の笑顔は無邪気そのものなのに、それを見るたび、陸人の表情が浮かんでしまう。


 きっと今頃、一人でどこか歩いているんだろうか――そんな思いが頭をよぎり、胸の内が締めつけられるようだった。


「えー、陸人くん私に嫉妬してんじゃん」


 未来は呑気に言う。


「嫉妬? 陸人が? まさか……」


「でも、陸人くんいつもはすぐ帰らないんでしょ? 雄也と一緒に帰ってそうだけど。まあ、本当に用事があったのかもしれないけどね」


(そう言えば、今日来る時、用事があるなんて言ってなかった)


 だから、つまり嫉妬している? でも何で?


「悪ぃ。俺ももう行くわ」


「うん。じゃーねー」


 未来と別れ、教室を出ると、どこか虚ろな気持ちが胸を満たした。陸人もこんな思いで教室を出て行ったのかな。

 胸の奥に刺さる棘のような罪悪感が疼く。


 ごめん、陸人――その言葉が喉の奥に詰まったまま、俺はキャンパスを後にする。


 気がつけば、足は自然と走り出していた。舗道を駆け抜けるたび、スニーカーが地面を叩く音が耳に響く。


 昔の陸人を思い出す。怒ると感情を押し込めきれず、黙ってじっとしていられない性格だった。その彼が変わっていないのだとすれば、きっとバスには乗らない。


 歩いて帰るはず――そう思うと、足を止めるわけにはいかなかった。


 真夏の日差しが、容赦なく肌を刺す。空は蒼く澄み渡り、雲一つない広がりを見せている。風は湿気を含んでおり、首筋にまとわりつく汗を運ぶだけで、涼しさなど感じられない。


 木陰を抜けると、葉の隙間から零れる光が瞬くように地面を彩る。その美しい模様さえも、今の俺には視界の端をかすめるだけで、心には響かない。


 陸人は、どこを歩いているのだろう。どうか、まだ追いつける距離にいてほしい。その一心で走る俺の周りには、蝉の鳴き声が幾重にも重なり、夏の暑さをいっそう際立たせていた。

 胸の内に広がる焦燥感とともに、全力で道を駆け抜ける。


(あちぃ。陸人待ってよ……)


 いくつかの坂を越え、視界が開けると、真っ直ぐに伸びる橋が目の前に現れる。


 アスファルトが陽光を反射し、ゆらゆらと揺れる空気が、夏の暑さを目に見える形で伝えてくる。その中を踏みしめて進む足取りは、次第に重くなっていく。


 橋を渡りきると、ふと木陰が広がった。木漏れ日の模様が地面に踊り、風が枝葉を揺らす度に形を変える。ここだけは別世界のように涼やかで、夏の厳しさを一瞬忘れさせてくれる。


 木々の間から見える空は透き通るように青く、時折、小鳥のさえずりが耳に心地よい。


 けれど、その木陰を抜ければ、再び熱気が俺を襲う。

 アスファルトから立ち上る熱波が肌に纏わりつき、蝉の鳴き声が耳元で跳ね返るようだ。

 それでも、前へ進む足は止めない。


(陸人、歩くの早いよ……)


 いくら陸人の足が長くても、あの短時間で駅に着くことはないだろう。だから、走れば追いつけるはずだ。


 そう自分に言い聞かせながら、俺は暑さと疲労を振り払うように足を動かし続けた。がんばれ、俺──。

 どれくらい走ったのか、もう分からない。目に映る景色が次々と流れていき、いつの間にか汗が額から滴り落ちる。息が苦しくなり、足も鉛のように重くなってきた。

 仕方なく、途中の木陰で一息つく。


 蝉の声が耳を支配する中、深呼吸を繰り返す。心臓が激しく脈打ち、鼓動が身体中に響いている。

 少し休んで、再び走り出す。


 照りつける日差しが容赦なく肌を焼く中で、俺は何度も立ち止まり、また走ることを繰り返す。


 足が痛み始めたが、諦めるつもりはない。汗でシャツが肌に張り付く不快感も気にせず、ただ前を目指す。

 そして、駅まであと少しの距離にある小さな信号で立ち止まった。赤く点滅する光に阻まれ、ふと目の前のアスファルトが蜃気楼のように揺れるのを眺めながら、足元に力を込めた。


(陸人、どこだよ……)


 胸がぎゅっと締め付けられるように、悲しみが押し寄せた。


 もし陸人に嫌われていたらどうしよう。

 そんなネガティブな思考が、頭の中をぐるぐると回り始める。


(でも何で俺、陸人のことになると必死なんだろ)


  続いて出た考えは、自分のことなのに自分でも答えは分からない。

 熱と疲れで体は悲鳴を上げているのに、心の不安がそれをさらに重くしていた。


 足が止まりそうになったその時、ふと視線の奥に見覚えのある背中が映り込んだ。――陸人! 間違いない、あの背中だ。


 心がざわめき、一気に身体が軽くなるような感覚に襲われる。


 けれど、名前を呼ぼうとした口からは、まともな声が出なかった。苦しくて、大きな声を出す余裕がない。ならば、走るしかない。


 暑さも疲れも全てを無視して、俺はただ全力で走った。

 頭の中は「追いつかなくちゃ」という一心でいっぱいだった。

 心臓が喉まで上がってきそうなくらいに早く鼓動を打つ。

 汗が滝のように流れ、視界は揺れるけれど、陸人の背中だけは鮮明に見えていた。

 俺は走って、走って、走って、ただ青い夏の中を翔けていた。

 そして、振り絞るようにして名前を呼んだ。


 「陸人!」――声が出た。


 でも、反応はなかった。無視されたのだ。


 しかし、それは風に消されるくらい小さな声だったのかもしれない。失望と焦りが一気に押し寄せ、視界が涙で歪んでいく。止まるわけにはいかない。今度は手を伸ばす。


 その瞬間、俺の指先は陸人の右腕を確かに捉えた。

 触れた感触が、まるで心に灯火を灯すように温かかった。涙が頬を伝うのも気にせず、俺はその腕を掴んで離さなかった。


 

「陸人……」


 陸人がイヤホンを外す仕草を見て、ようやく気づいた。そうか、声が聞こえなかったのはそのせいだったんだ。安堵と少しの苛立ちが心を満たす。


 だけど、口をついて出た言葉はなぜか冷たいものだった。


 問い詰めるような自分の声に驚いたのは、たぶん陸人だけじゃなく、俺自身もだった。


 陸人はそんな俺の拙い感情の波に気づいているのか、いつもの柔らかな笑顔を浮かべてくれた。


 そして、何も言わずにそっと俺を包み込むように近づいてきた。大きな手がそっと肩に触れ、抱きしめられた。


 その温もりが暑さや疲れを全て和らげてくれる気がした。優しい、その一言に尽きる仕草に、俺はどうしようもなく恥ずかしくなった。


「先、行くから」


 誰も見ていないって分かっていても、恥ずかしくなって、短くそう告げる。俺は視線を逸らして歩き出した。


 気まずさを紛らわせるように一歩一歩を速める。

 だけど、背後から陸人の足音がすぐに追いついてくるのが分かった。振り返るまでもなく、彼が隣にいる。歩調を合わせる音が心地よく響いた。


 隣に来た陸人から、いつものいい匂いがふわりと漂ってきた。夏の空気の中でも消えない、どこか落ち着くその香り。 

 まるで俺を安心させるためだけに存在するようだった。


 自然と緊張が解けていく。

 彼がいるだけで、世界が少しだけ優しく感じられる――そんな瞬間だった。


(俺、陸人のこと……) 


 ふと、思いもよらない考えが頭に浮かんだが、まさかとは思い、その考えを打ち消した。

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