第7話 緊張の逃亡
有菊は息をひそめて周りの様子を伺い、こちらに人が来ないことを確認した。
「しかし、何が行われているんだろ?」
もしかしたら、こんな隠れるようなことではなく、何かのイベントとか撮影だったりするかもと、検索してみる。しかし、そんなものは何も書き込みはなく、遠くでは再び銃声のような音が聞こえる。
「いくら治安が悪いからって、これはやりすぎだよー。ニホンって世界有数の安全な国じゃなかったっけ?」
心の中でぶつぶつと文句を言っていると、ディスプレイに新たなウィンドウが立ち上がった。
蝶型ドローンから送られてくるデータを受信したのだ。そして上空から映し出された映像と、人の配置がディスプレイに表示された。
「結構いるなー」
有菊はこの寂れた場所に不似合いな人数の多さに、ただならぬものを感じた。人間と判定されたポイントの数を数える。
「イチ、ニー、サン、シー、ゴー、ロク、ナナ、ハチって、これってヤバいんじゃない?」
やはり嫌な予感は当たっていた。
今からここで、私は無関係ですと言って出ていって通用するとは思えない。何を見たわけでも、何かをやったわけでもないけど、捕まったら面倒くさそうだ。
しかし、幸いこのあたりはあまり人がいないようだから、今近くにいるふたりが反対側に移動したら、逃げようと息を殺して刻々と変わる画面を見つめた。
人の声も少しずつ遠くなっていき、ディスプレイ上でも有菊の周りに人がいなくなったのを確認する。
「よし、今なら逃げられそう」
そう階段下から足音を立てないように、来た道を戻ろうと立ち上がって、一歩二歩と歩き出した瞬間。
── カツン
どこからか小石が飛んできて、近くのドラム缶に当たった。
「え?」
その音に反応して、バタバタと複数の足音がこちらに向かってきた。
「おい、こっちだ!」
「お前はあっちから回れ!」
「あれも持ってこい!」
ディスプレイにも有菊を囲むように人が集まっているのが表示されている。
「え? え? 一体何が起きてるの?」
有菊は先ほどまで隠れていた階段下に急いで戻る。
しかし、ただ物陰にいるだけでは近くに来られると見つかってしまう。
脈が早くなるのを感じながら、有菊はくっと気合いを入れてしゃがみこんだ。
「これは、総動員しないと」
そういうと、パーカーを引っ張って手足を隠した。さらにフードを目深に被ると、フードの紐の先端のアグレットにあるスイッチを押す。
するとパーカーがみるみる色を変えていき、ついには量子光学迷彩で周りの風景に溶け込んでいった。
実はこのパーカーも蝶のヘアクリップ同様、ハンドメイド好きな祖母からの贈り物だった。まさか日常生活に不必要なこの機能を使う日が来るとは思わなかった。
マニュアルを読むのが好きな性格で良かったと、有菊はフードの下から、自分の姿が風景と化していることを確認する。
「ここら辺だ。お前、デバイスにサーマルカメラついてるなら、それも使え!」
「はい!」
複数人の男たちが有菊の周りを何度も行き来する。
随分とラフな格好をしているが、銃のようなものや、スタンバトンなど物騒なものを手にしている。
「これは、本当にやばいやつだ」
息を外に漏らさないように、パーカーの中へそっと吐きながら、いつまでも続く捜索に気配を消す。
ひとりがジリジリとこちらに近づいて来るのを感じながら、祈るように有菊はディスプレイの表示を見つめ続ける。
ふと、ゴーグルで何かを操作していた男が、有菊のすぐ近くで立ち止まる。
そして、しばらくこちらを観察して、首を傾げながら近づいて来る。
ついに男の手が、有菊のパーカーに伸びる──
もうダメだ、と有菊はギュッと目を閉じた。
「おいっ! こっちだ!」
「あっちに逃げたぞ!」
「急げ!」
その複数の声で、目の前にいた男も顔を声のほうに向けて、再び有菊のいるあたりを見て、少し首を傾げてから走っていった。
有菊は周りの音が完全に消えるのを待ち、ディスプレイを見て、自分の周りに人がいないのを確認する。このチャンスを逃したらもう逃げられないかもと、蝶に合流地点の座標を送り、立ち上がった。
足の痺れなどないことを確認すると、最初は忍足で階段下から出て、周りに人の気配がないことを確認しつつ、徐々にギアを上げていく。
十メートルくらい離れたところで、猛ダッシュして来た道を戻る。
「今日二度目のダッシュだ」
走るのは嫌いじゃないが、こんな風に追われるようにして走るのは楽しくない。
先ほどの因縁のおばあさんは相変わらず家の前の椅子に座っており、有菊のほうを見てギョッとした顔をしていたが、それを無視して走り抜けた。
グングンと走り、もう完全に撒けただろうと思ったところまできて、初めて振り返った。
後ろから追って来る姿はなく、有菊は走るのをやめた。
そして、平静を装って歩き出した。
「人通りが少なくて良かったのか悪かったのか。とりあえずもう大丈夫かな」
誰もいない道を、まだ荒い息を整えるように一定のリズムで歩く。
「蝶はまだこちらに向かって飛んでるかな。もうこのあたりで回収してもいいかもな」
先ほど設定した座標をこの先の緑地に変更して、そこまで何度か振り返りながら歩を進めた。
緑地は遊具などなく、グラウンドとベンチがあるだけのシンプルな場所だった。まだ蝶は到着していないので、ベンチで待つことにした。
そこで初めて量子光学迷彩モードのままだったことに気がついた。
「あちゃー、やっちゃった」
急いでいつものクリームイエローのパーカーに戻した。なんとなく埃っぽく感じたので軽くはたく。そして、虫の一件があったので、スニーカーも汚れてないから確認してからベンチにどさりと座った。
「あー、疲れた」
足を投げ出して、周りの緑をぼんやりと眺めていると、ひとりの男の子がグラウンドに入ってきた。
遊びにきた割にはひとりだし、どうしたんだろうと眺める。
十歳くらいだろうか?もう少し幼いかもしれない。もしかして迷子かな?と、有菊は観察しながら想像をめぐらす。
その子はサラサラの黒髪に黒い瞳で利発そうな顔をしており、ピンクのラグランスリーブのスウェットにカーキのポケットいっぱいのハーフパンツを履いている。
「え? なんか、こちらに向かってきてる?」
広いグラウンドを渡って、まっすぐ有菊に向かって歩いてくる。
「なんだろう?」
面倒くささより好奇心が勝って、そのままベンチでソワソワと待っていると、男の子はついに有菊の正面までやってきた。
そして、小さな口を開く。
「お兄ちゃんと一緒じゃないんですか?」
そう不思議そうに聞いてきた。