第6話 海へ
思い立ったらすぐ行動、と有菊は出かける準備をした。
「ついでに今日の夕飯も買ってこよ」
お昼は美玲からもらったお菓子で済ませたので、夜は温かいものが食べたい。
キッチンを漁ってみたのだが、祖父母は海外に出かけるということで、非常食っぽいものしかなかったのだ。
ドアに鍵をかけ外に出て、エレベーターで階下に降りる。エントランスへ向かおうとすると、一階の部屋のドアが開いた。
何気なくそちらに視線を向けると、そこには昨日、駅で怒鳴りつけてきた中年男がいた。男はこちらに気付いていない様子で、玄関ドアに鍵をかけるところだった。
有菊は息を止めて反射的に走り出した。
坂道を駆け上りながらフードを目深にかぶり、一直線にカジタパーツショップに向かう。
角を曲がった先には、昨日と変わらずウサギが手を挙げてお客さんを呼び込んでいるのが見える。有菊は全速力でその脇を抜けて、ガラス扉を押し開けた。
「いらっしゃい」
店の奥から巨体が現れ、有菊はそれを見て、止めていた息を一気に吐いた。
「なんだ? アキちゃんじゃねえか? なんかあったのか?」
梶田は有菊の様子を見て、眉間に皺を寄せた。
「ア、アイツが、お、同じマンションに、住んでたんですよ」
有菊ははずんだ息を整えながら、先ほどの衝撃を梶田に伝えた。
「は? 昨日のアイツか? そりゃ、すごい偶然だな」
「そうなんですよ!」
「また何かされたのか?」
「ううん。姿が見えた瞬間に逃げてきたから」
「そうか」
「なんか、つい反射でここに逃げ込んじゃいました」
「ああ、それは構わんが」
いきなりの訪問なのに、どっしりとした受け答えをしてくれるので、有菊は段々と冷静さを取り戻してきた。
店内は外から見て想像していたより奥に広い。
左手に様々なパーツの見本がディスプレイに表示されており、右手には作業できるようにいくつかのテーブルが並んでいる。そこには精密ドライバーやはんだごて、ケーブルなどがカゴに入って置かれている。
正面にはカウンターがあり、その奥には3Dプリンターが数台見える。
どれもきちんと整頓されており、梶田の几帳面さが伺える。
「あー、怖かった」
「好きなだけ休んでいっていいぞ」
「ありがとうございます」
「ちょっと待ってろ」
そういうと梶田は、店の奥に一度引っ込んで、再び現れた時には、手にお茶の入ったコップを持っていた。
「ほら、取り敢えずこれでも飲んで落ち着け」
それを右手の作業台に置いてくれた。
有菊は椅子に腰を下ろし、すぐに目の前のお茶を飲み干した。
「おお、いい飲みっぷりだな。もう一杯飲むか?」
「いえ、もう大丈夫です」
すると、梶田は何かに反応してサングラスのフレームを触れ、少し止まった。
「あ、お邪魔でしたら、席を外します」
何か連絡が入ったのかと、有菊は席を立とうとすると、梶田は制止するように手の平をこちらに向けた。
「大丈夫だ。それより、ちょっと失礼」
そういうと梶田は有菊のすぐ横まで来た。そして、巨体を折り曲げて有菊のスニーカーの後ろから何かを取り上げた。
「変な虫がついていた」
「え?」
「捨てとくぜ」
指でつまんだ黒い物体を、カウンターの横のゴミ箱へ投げ入れた。
「やだ。どこで着いたんだろ」
そう自分のスニーカーを隅々まで見直した。
「昨日、長旅だったんだろ?」
「そんな自然豊かなところ、歩いたつもりないんだけど」
「あんなの列車内にもいるぜ」
「じゃあ、車内かなー。もーやだー」
「すぐに見つかったから、傷は浅いさ。しかし、オジサンはアキちゃんが心配だよ」
「普段はこんなんじゃないんですよ」
本当に普段はこんな落ち着きなく虫をつけていたり、誰かに怒鳴られたり、逃げたりしていない。いや、逃げてはいるかもしれない。
そんな情けない自分に少し落ち込んだ有菊は、歯噛みした。このままじゃダメだと自らを奮い立たせ、きちんと当初の目的を果たすことにした。
しかし、すぐに店外へ出る勇気はなくて、五分くらいグダグダしていた。そして、ガラス越しに誰も追ってこないことを充分確認してから、梶田にお礼を言って店外に出た。
再び地図アプリを立ち上げながら、海へ向かって歩き始め、十分くらい経った頃だろうか。ボロボロの一軒家の門扉の前に椅子を置いて座っているおばあさんが見えてきた。
なんとなく変な人なんだろうなと思いつつも、この道を通る以外に海のほうへ行くには、かなり遠回りをしないといけない。
諦めた有菊は、できるだけ視線を遠くにおいてその前を歩く。そして近づくと、案の定というべきか、七十代くらいのおばあさんが声をかけてきた。
「アンタ、見かけない顔だね」
最初から警戒心丸出しで、それでも立ち上がって近づいてくる。
「はい。昨日引っ越してきたばかりです」
「子供だろ? なんでこんな時間にウロウロしてる」
「あー、もう卒業してるので」
「はあ? なに嘘ついてるんだ。どこの学校だ?」
「いえ、もう義務教育の過程は……」
「ぐちゃぐちゃうるさい娘だね。そこで待ってろ。平日の昼間から、子供が海で遊んでると通報してやる」
そう言うと、そのおばあさんはのそのそと家の中に入っていった。有菊は面倒なことになりそうだと、早足でさっさとその場を離れた。
ああいう自分が一番正しいと思い込んで、間違っているとレッテルを貼ったものに対して、とことん強気に出る人間はどこにでもいるんだなと首をすくめた。
「一番身近な大人があのタイプだったからなぁ」
有菊はうんざりしながら、駆け足で目的地に向かった。
段々と潮の香りが強くなってきた。
民家は完全に無くなり、倉庫やそれに関連する建物や何に使うのかわからない雑多な物が多くなる。
「こんなにも人気のない場所だったかな」
もう少しここへ向かう道のりは楽しい印象があったのだが、寂れた空気に神経質になっていく。
「なんだろう? なんか嫌な予感がするな」
有菊の予感はよく当たる。
特に悪いものであればあるほど。
しかし、また別の日にこの道を歩くのも億劫だ。嫌な予感と面倒を天秤にかけた結果、トランクルームが今もあるかどうかだけ確認して、今日は帰ろうという結論に達した。
「そもそも、私が見たのって十年くらい昔だし、すでにない可能性もあるしね。遠目に確認して、無ければもうここにくる必要もないし」
そう自分に言い聞かせながら、昔はバージとして使われていたであろうものの上に建てられた倉庫街を抜けていく。こんなにも大きなバージがあったんだと感心して足元を見ると、どうやら複数繋ぎ合わせてあるらしい。幼い頃はそんなことは目に入らず、ずっと沖合に並ぶ、アクリルと木でできた海上農場に目を輝かせたものだ。
沖合の農場は変わらずきれいで、中で植物が茂っているのが見える。
しかし倉庫街のほうは、薄曇りの天気も相まって、以前の記憶よりも治安が良くない雰囲気が漂っている。建物はどれも古く、段ボールやドラム缶などが打ち捨てられている。
なんとなく忍足でいくと、ひとつ隣の路地から声が聞こえてくる。何を言っているかわからないけど、何か焦っているような、囁くような男の声だ。
その瞬間、シュンと何かが出力される鋭い音が鳴った。
「銃声?」
映画でしか聞いたことがないけれど、シチュエーションも含めて銃声にしか聞こえない。
「おい、こっちだ!」
そういう声と足音が、なんとなくこちらに向かっている気がする。
「念のため」
不穏な空気に有菊は身を隠せそうな階段下のスペースに、体を滑り込ませた。
そうして、手を頭の後ろに回して蝶のヘアクリップを外した。
「まさか、こんなすぐに使うなんて思わなかった」
手に乗せた蝶のヘアクリップの胴体部分を開いて、中のスイッチを入れた。すると、メガネにペアリング完了の表示が出る。それから、ステルスモードを選ぶと、蝶は手のひらから姿を消した。
有菊はそれを空に離す。
蝶は音もなく羽ばたきながら、上昇していく。