第4話 まさかの災難
室内の様子を見て、有菊は愕然とした。
「どうしたの?」
隣の部屋から出てきたお隣さんが、スリッパをひっかけて有菊の後ろから覗いた。
「なにこれ?」
お隣さんも驚いた様子で息を呑んだ。
ドアを開けた先には、さまざまなものが散らばっている。玄関の靴からはじまり、部屋の衣服やカバン、奥の方はさまざまなデバイスが散らばっている。
「ねえ、これ空き巣に入られたんじゃない?」
「え?」
目の前の惨状に、うまく頭が働かない。
お隣さんは中までは入らず、室内の様子を手をかざして観察している。
「ほら、何か盗られてるんじゃない?」
そう言ってお隣さんは、「これは警察に通報したほうがいいよ」と有菊を促した。
こんな不穏な現場に、今まで一度も居合わせたことがなかった有菊は、緊張で強張りながらもメガネを触れた。そして、緊急通報のボタンを押そうとして、はたと気がついた。
「あ、でも、私じゃ何が盗られたかわからない」
有菊の言葉に、お隣さんは「確かに」と顎に手を当てた。奥二重の瞳を少し細めて考えるお隣さんは、確実に年上のはずだが、黒目が大きいせいか少し幼く見える。
「でも佐野さん達が戻ってきた時にわかるかもしれないし、とりあえず通報だけでもしなよ」
さすがに、このまま何もなかったことにするのも問題だろうとの結論に至り、通報はすることにした。
「はい……」
まさか、ここまできて、この惨状に遭遇するとは予想だにしなかった。震える手で有菊は生まれて初めて警察に通報をした。
散々待たされて、やっと現場検証にきた警察官は、極めて事務的に指紋採取や足跡の痕跡などを、持ってきた旧型のホログラフィックデバイスで一通り調べただけだった。
盗まれたものは有菊がわからないと言うと、盗品の登録もされなかった。そして、「窓から入られた可能性が高いですが、ドアの鍵も古いタイプなので、バイオメトリック認証にアップグレードしたほうがいいかもしれませんね」と言うと、サッサっと帰ってしまった。
もう少し手厚いフォローを期待していた有菊は、その最低限の警察官のやりとりに、突き放されたような孤独感を感じた。
現場検証の終わった室内に足を踏み入れると、本当に色んなものが散らばっていて、何かを探していたような形跡がみられる。
「ちなみに、佐野さん達が散らかしたっていうことはないよね?」
どこから手をつけていいものか立ち尽くしていると、開きっぱなしの玄関からお隣さんがそう聞いてきた。いつからそこにいたのかわからないが、今は話し相手がいることに救われる。
「多分、それはないと思うんですが」
ふたりの名誉のために、そう言ってみたものの、今まで一度も一緒に暮らしたことがないので、ふたりがどんな生活をしていたのか知らない。
「あの、散らかっているんですが、さっき言っていた本はなんてタイトルでしょう? 探してきます」
玄関まで戻って、お隣さんに確認しようとすると、綺麗な黒髪を揺らしながら、断るように両手を胸の前で振る。
「いやいやいや、いいよ。それより片付けをしないと」
「……そうですね」
有菊のあまりの落ち込みように、お隣さんは「よかったらワタシも手伝おうか?」と申し出てくれた。
「大丈夫です。見た目は派手に散らかってますが、なんか割れ物とかもないし、ひとりでも大丈夫そうです」
力なく首を振ると、お隣さんは有菊にちょっと待つようにと指示して隣の部屋に戻った。
すでに陽の暮れた外の風景を、玄関からぼんやりと眺めていると、ものの数分で紙袋を抱えて戻ってきた。
「これ肉まんと水と、あとお菓子。肉まんは蒸してあるから、そのまま食べられるよ」
「あ、ありがとうございます」
温かい紙袋を受け取ると、お隣さんは「何かあれば、気にせず声かけてね」と部屋に戻っていった。
有菊は表情を変えずに玄関のドアを閉めると、ぺたんとその場にへたりこんだ。そして顔を歪める。
「うー」
この理不尽な一日に、どこに何をぶつけていいのかわからず、顔を沈めた紙袋に向かって唸り声をあげる。
駅では変な男に絡まれるし、部屋は空き巣に入られるし。
「うー、うー」
でも、こんなことで元の家になんて帰れない。
もし帰ったりしたら、母親が鬼の首を取ったかのように、有菊の失敗を近所にふれてまわるのが目に見えている。
あそこを脱出するためにしてきた努力を、こんなことで無に帰するなんて絶対に嫌だ。
「うー、うー」
今まで暮らしていた町では勉強に必死で、本音を話せる友達はいなかった。そして、リアルの顔を知らない仮想空間上だけの知り合い(AI診断で有菊との相性がマッチした子たち)も少しいるけれど、そちらも上辺だけの付き合いをしていた。
有菊が本当に心許せるのは、祖父母のふたりだけだったのだ。
仮に現実を知らないその子たちに、この話を聞いてもらったところで、同情は得られても、今のこの気持ちは絶対に伝わらない。
一瞬、悪戯っ子の存在が頭に浮かんだが、それも何か違うと目を瞑る。
紙袋から伝わってくる肉まんの温かさだけが、今のリアルだ。
「うー」
自分はずっと長い間、間違った選択をし続けているかもしれない。そんな恐怖が有菊の体に広がりそうになる。それを否定するように、足掻くように横に首を振る。
「うー」
駅では梶田さんに助けてもらえたし、今もお隣さんから食べ物をもらい心配もしてもらえた、と有菊はできるだけ嬉しかったことを思い浮かべる。
こんなに一度にひどい目に遭ったことはないけれど、結果的にはプラスマイナスゼロなんじゃないかという気がしてきた。
「ジェットコースターみたいな一日だったけど、いま手元に温かい食べ物がある時点で、むしろプラスなんじゃないの?」
暗示をかけるように肯定的な言葉を口にして、有菊は顔を上げ、紙袋から真っ白で、まだ湯気の立ちのぼる肉まんを取り出した。
そして、思い切りかぶりつく。
「んー」
温かい肉まんからは、たくさんの肉汁があふれて、有菊の体に染み込んでいくのがわかる。外側の皮の部分も甘くてふわふわで美味しい。
「んま」
あっという間に大きな肉まんを食べ切った有菊は、グッと顔をあげた。
「もう、これって今日は私の勝ちでしょ」
そう言って口元を拭うと、ひとり片付けをはじめた。