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特にこれといって見たい映画があるわけではなかった。ただ、紅月が映画館で映画を見たことがないと言うので予定に組み込んだだけだ。ちょうど紅月の好きそうな探偵ものの映画がやっていたのでそれを観ることにした。
紅月は初めての映画館に緊張した様子だ。きょろきょろと辺りを見渡してそわそわしている。
映画が始まってしまえば大人しいもので、じっとスクリーンに見入っている。ただ、大きな音に慣れていないのか、時々びくりと体を跳ねさせていた。
映画が終わると紅月は少し疲れたように欠伸を漏らした。東雲が紅月に寝ていてもいいよ、と言うと、彼女は助手席で器用に丸くなって眠り始めた。
「空音サン、起きて」
「やぁ、だ……」
車を走らせること1時間半。アパートに着いてからも紅月は素直に起きようとはしなかった。慣れないことの連続で疲れてしまったのだろう。東雲は外出自体あまりしないという紅月の話を聞いていたのでそう感じた。
「無防備すぎる」
まぶたにかかった前髪をそっと避けて、唇に触れる。むにゃむにゃ言っている彼女に覆いかぶさって唇を重ねた。すぐに離れようとした東雲だったが、それは叶わなかった。首の後ろに回された手に押さえられ、口付けは深くなる。舌を絡め取られて上手く呼吸することもできず、東雲は薄く涙を浮かべた。
「やーい、ヘタレを捕まえたった」
「キスして欲しかっただけなの?」
「姫を目覚めさせるのは王子様のキスだけでしょ」
べ、と舌を出した紅月は東雲の体を押し返してシートベルトを外した。困り顔でため息を吐く東雲に構うことなくさっさと車を降りてしまう。
「困ったお姫様だこと」
やれやれと首を振った東雲も車から降り、部屋の中へと入っていく紅月を追った。
「今日、泊まってく?」
「前園サンは?」
「彼氏の家」
短いやり取りだったが、東雲は色々と察した。
前園から、誘うように言われたのだろう、とか。
勇気がなくて今の今まで言えずにいたのだろう、とか。
それでもやはり一人ではいたくなかったのだろう、とか。
「泊まらせてもらう」
それだけを告げた。言いたいことはたくさんあった東雲だったが、わざわざ指摘して機嫌を損ねるようなことをする必要は無いと判断した。
「ピザとチキン頼むけど、他にも何か食べる?」
「それだと買い物行かなきゃいけないんじゃない? 何もいらないよ」
紅月の問いに東雲が答える。紅月はしばらく顎に手を当てて考え込んでからパタパタと東雲に歩み寄った。
「手料理食べたくない?」
にんまりと笑う紅月に、何やら良くないことを考えていそうだと感じた東雲だったが、魅力的な提案に沸き起こった食欲を抑えることはできなかった。短く食べたい意志を伝えると、紅月はさっとつまみを作ることにした。
「もしも美味しかったら、ご褒美ちょうだい」
「それなら、何が欲しいのか考えておいて」
どうせ撫でて欲しいとかそんな可愛らしいお願いをしてくるのだろう。東雲はそんなことを思っていたのだが、先程彼女が見せたイタズラな笑みを思い出した。あまり難しい要求でなければいいなと東雲は祈るような気持ちでいた。恋人が作る愛情たっぷりの手料理が不味いはずがないのだから、紅月はなかなかの策士である。いや、東雲が単純で引っかかりやすいだけなのか。
冷蔵庫から缶ビールをとったかと思うと、紅月は勢いよく呑み始めた。
「いつも呑みながら作るの?」
東雲が問いかけると、紅月は呑むのを止めてチルド室から鶏皮を出した。
「おつまみ作る時は呑みながらだよ」
つまみに合う味付けかどうか、お酒を呑みながら味見をして確かめるのだという。フライパンに底から1センチほどのオリーブオイルを入れ、充分に温まった所に3センチ程の大きさに切った鶏皮を入れて揚げ焼きにする。充分に火が通ってパリパリになったところに少しキツめの塩コショウを振って折りたたんだキッチンペーパーを敷いた皿に乗せて完成。油をオイルポットに入れてフライパンを洗い、今度はバターを溶かす。ボウルに卵を3個割入れ、よく混ぜている間に潰したニンニクをフライパンに入れる。香りが立ったところで卵と鶏がらスープを入れてかき混ぜ、ある程度火が通ったらくるりと巻いてひっくり返した。
「食べてみる?」
端っこを箸で切って差し出してきたので、東雲は口を開いた。バターとにんにくの香りに米が欲しくなる。
「パックでよければご飯もあるよ」
そう言った紅月が嬉しそうに微笑んでいる。卵焼きを皿に乗せて2センチ幅に切り、こたつに運ぶ。東雲はパックご飯をレンジで温めることにした。紅月は一足先にこたつに入ってぐいぐいとビールを呑んでいる。
「ペース早くない? 大丈夫?」
紅月はアルコールに強い方じゃない。悪酔いしてしまわないかと心配したが、既にほろ酔いの紅月はぽやぽやとしながらタバコの箱を弄んでいた。
「一緒に一服する? ベランダでいいのかな?」
「ん、ベランダ」
一人にしておけない感じになっているので、東雲もタバコの箱を手に取ってベランダへと向かう紅月についていく。
二人で並んでタバコを吸っていると、紅月はとろけた視線を東雲に向けた。経験の乏しい東雲でも、流石にこれはわかる。
「まだ、だめ」
「ご褒美くれるって言った」
紅月は完全に男を落とすモードに突入している。東雲は思わず生唾を飲み込む。
「まだ早いよ」
その言葉は彼女に対してか自分に対してか。浅ましくも兆す自身を叱咤するように言えば、紅月は不満げに唇を尖らせた。
養父に傷つけられていた紅月に。
親友と思っていた相手に裏切られた紅月に。
「まだ、早いの」
所詮男はそんなもの、だなんて。東雲は同一視されたくなかった。熱い吐息を漏らす紅月の頭を胸に抱き込む。ドカドカとうるさい鼓動が聞こえるだろう。紅月はしばし大人しく聴いていたが、つけたばかりのタバコの火を揉み消して部屋の中に入り、炬燵で寝始めた。疲れているところに酒が入り眠気が限界だったのだろう。
紅月が求めてくるのを頑なに拒む東雲には意地があった。紅月は他愛もない思い出話をするように、あまりにも残酷なことを言ってのけている。彼女は既に覚えてはいないのだろうが、東雲にとってはショックな言葉だった。
『体の関係がない男女に愛は存在しないんだって。だから、あの人はおれを愛するために抱いたんだってさ』
半月ほどまえのことだ。何やらひどくイラついた様子の紅月が電話越しにそんな言葉を口にしたことを思い出す。フィルターまであと少し。不味くなってきたタバコを揉み消して紅月の傍に寄る。穏やかな寝息を立てながらも、撫でようとした東雲の手を彼女は振り払った。
ほら、嫌がっているじゃないか、と東雲は誰に伝えるでもなく思った。体で繋がっていなくても、心が繋がっていればいい。これからどれだけの間一緒にいるのかはわからないが、焦ることは無い。なるようにしかならないのだから。東雲は性急に求めてくる紅月を宥めることに必死でいる。
紅月が欲しいかと言われたら、それは欲しいと答えるだろう。男なのだから欲がないわけではない。初デートの時に、彼女だってそれに気付いたはず。だからこそ彼女は求めてくるのだ。しかし、それではいけない。
もっともっと、東雲が紅月のことを好きでたまらないのだと、きちんと彼女が理解するようになってから。それまでは。
「愛してるよ、空音サン」
もっとお互いのことをたくさん知っていって、お互いのことを信頼し合える関係になって。
紅月の忘れっぽいところも、東雲の落ち込みやすいところも。
それぞれがただの個性でしかないのだと受け入れられるようになってから。それからだって遅くは無いだろう。
東雲は紅月の左手をそっと持ち上げた。これは振り払われなかった。
「これも、自分でしなくていいんだよ」
紅月には爪や指、腕などに噛み付く悪癖があった。強いストレスを感じた時の自傷行為。なんとかやめさせようと家族や友人が手を尽くしてくれたと言うが、それでも治まらなかった行為。
『肌にね。傷があると落ち着くんだよ』
自身の価値を下げるためだと、彼女は言っていた。痛みが必要なわけではない。傷でなければいけないわけでもない。薬指に何度も甘く歯を立てる。
「愛してるよ、空音」
彼女が寝ているうちにこんなことをして、罪悪感がないとは言いきれない。しかし、この行為は彼女を繋ぎ止めるために必要だと思った。
「 生 き て 」
それは切なる願い。東雲は思わず一筋の涙を流し、嗚咽を漏らした。




