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BiteRing  作者: 月神奏空
1章 バイト・リング
5/23

5

 今日のデートに誘う際、東雲は不安で仕方がなかった。カラオケに夢中になっている紅月を見つめながら小さくため息を吐いた。

 彼女自身の言葉を借りるなら、紅月は他の人と比べると忘れっぽいところがあるので、もしかしたら東雲が恋人であるということさえも忘れているのではないだろうか。人より少し(・・)ネガティブ思考に陥りやすい東雲はそう不安で仕方なかった。

「ねえ、晴陽サン。一緒に歌お?」

「ガンバリマス」

 マイクを差し出してきた紅月の頬はもう濡れていなかった。ニコニコと楽しそうな彼女に、先程の涙の理由を問いかけたところで答えは返ってこないだろう。答え合わせの必要などないようにも思える。生き生きとした彼女の様子に、先程のことなどすっかり忘れてしまったのだということを察した。

 東雲はけして紅月を傷付けようと思って言ったわけではない。自分を好いてくれる可愛い彼女を泣かせるようなことをするほど愚かではないつもりだ。

 しかし、そうは思っていても人の心とは複雑なもので理解し難い。東雲が一番驚き、そして喜ぶタイミングで口付けられ、咄嗟に出た言葉が彼女の心の傷に触れてしまったらしい。東雲は褒めたつもりだったのだが、上手くいかないものだ。

「ねェ、晴陽サン。キス、して?」

 先程とは打って変わった甘えた様子でねだる紅月に、東雲は動揺した。慣れた様子で口付けられるのもなかなかに緊張したが、自分からというのはその比ではないくらいに緊張する。東雲には紅月のようなスマートなキスなどできはしない。東雲がおそるおそる抱き寄せて唇を重ねれば、紅月が舌で唇をつつく。ゆっくりと口を開いてより深く交わそうとした時、歯と歯が強くぶつかった。

「ごめん、上手く出来なくて……っ」

 仕切り直しを願った東雲だったが、熱く濡れた瞳に見つめられて叶わなかった。紅月はそこでようやくマイクをテーブルに置いて東雲の首に腕を回す。溶け合うように何度も角度を変えてキスを交わして、東雲が紅月の脇腹に触れていた手を揺らした時だった。紅月が突然弾かれたように身体を離す。そして、誤魔化すように一つ咳払いをして次の曲を入れた。

 よりにもよって、と東雲はため息を吐きたい気持ちになった。紅月が歌ったのはセクシーで際どい一曲。官能的なフレーズを熱い吐息混じりに歌い上げる紅月に、つい。

「ごめん、ちょっとトイレ」

 あまりにも露骨すぎてバレやしないかと思ったが、このままでいるよりはいい、と東雲は判断し席を立った。紅月は特に気にすることもなく誘うような振り付けを加えながら歌い続けている。

 晴陽サンは、おれのことそこまで好きじゃないと思う。

 自信が無い、不安で仕方がないというように紅月が漏らした言葉を思い出し、東雲は壁にもたれかかってゆっくりと息を吐く。こんなにも夢中にさせておいて、自信が無いだなんて。

「罪な人だよ、空音サン」

 恨み言を言うように呟き、兆したものが治まるのを待つ。紅月の方こそ、好きでもなんでもないんじゃないか。もしかしたらからかわれているだけなのではないか。東雲は嫌な想像をして顔を覆った。

 紅月は養父から性的な行為を求められた時、まだよく分かっていなかった彼女はそれに応じてしまったのだそうだ。そこから、彼女は徐々に崩れ始めた。女としての尊厳を踏みにじられる行為に逆らえない自分。彼女が心を病んでしまうのは必然のようにも思える。

 そんな話を聞かされた東雲は、紅月が自分に嫌われようとしているように思えた。付き合ったばかりで、何故。理由などないのかもしれない。色々と考えた結果、もしかしたらそうではないのかも、と思いつく。

 たすけて

 微かな声が聞こえたようだった。

《清いお付き合いなんて、おれは知らないよ》

 自嘲気味に彼女が投げ捨てた言葉を拾って、優しく包んで返してあげたことを少し後悔している。

《じゃあ、俺とはそういう付き合いでいいんじゃない?》

 何が清いお付き合いだ。東雲は一向に治まる様子のないものを腹立たしく思い盛大に舌打ちをした。何か別のことを、と考えると、ふと紅月の寂しげな声が聞こえたような気がした。

 だいじょぶ。しんじてないから

 信じているから、ではなく、信じていないから、大丈夫(・・・)。その言葉が頭をよぎった時、東雲は冷水を浴びせられたような気になった。

「晴陽サン、おれ、疲れた。次晴陽サンね」

「ごめん、遅くなっちゃって」

「だいじょぶだいじょぶ」

 部屋に戻るなりマイクを差し出された東雲は笑みを返す。チクチクと痛む胸に気付かれてはいけない。画面には全国平均よりも少し上の点数が表示されている。紅月から歌は下手では無いと思う、と聞いたことがある。その言葉通りというべきだろうか。

 手を繋いで二人で交互に歌う。何曲目に入った頃だったろうか。紅月は東雲をじっと見つめるようになった。どこか居心地の悪さを感じて東雲は「どうしたの」と問いかける。紅月は繋いだままの手に視線を落として口を薄く開き、何も言わずにそのまま閉じた。もしかして嫌だったんだろうか、と手を離そうとした東雲の手は紅月にしっかりと握られた。何度か唇を動かしていた紅月だったが、ついに言葉を紡ぎ出すことはなかった。リモコンを操作して新しい曲を入れて歌い始める。

 なんだか寒いな。

 この冬の季節に冷房なんてかかっているはずもないのだが、東雲はひやりとした空気についエアコンに視線を向けた。異常を知らせるランプなどが点灯していないことを確認してから紅月の方に視線を戻す。

「好きだよ、空音サン」

 無性に抑えられない気持ちになって、東雲は彼女にそう告げた。彼女は振り返りにっこりと微笑む。そこで東雲はおかしな疑問を持ってしまった。この子は誰だ(・・・・・・)、と。歌い終えた紅月が不思議そうに首を傾げている。

「どしたの?」

 心配そうな彼女の声を聞いたら、先程覚えた違和感はさっと消えてしまった。なんでもないよと首を横に振り、リモコンを操作する。

「晴陽サン」

 名前を呼ばれて紅月を見ると、いつもより少し潤んだ瞳がイタズラに細められた。ゆるりと口角を上げた彼女は繋いでいない方の手で東雲を指差す。そして少し指を下げて言った。

「全開だよ、社会の窓」

「うわ、ホントだ。え、いつからだろう。恥ずかしい」

 悪い笑みを浮かべたままの彼女はとても楽しそうだった。ファスナーを締めながらつられて笑った東雲はほっと息を吐く。

 終了5分前の連絡がきて、二人は名残惜しむようにゆっくりと手を解いてコートを着た。会計を済ませてからカラオケの前に寄った居酒屋の前に戻ることにした。すぐ近くの場所までたっぷりと時間をかけて歩く二人は自然と手を繋いでいた。

「ちょっと自信なくしちゃったな」

「何の自信? どうして?」

「せっかくいい曲歌ってたら途中でいなくなっちゃったから」

 あの際どい曲の話か、と遠い目をした東雲に紅月は気付かない。

「あの曲、アズがすっごい褒めてくれるんだよ」

「前園サンは空音サンが何歌っても褒めるでしょ」

 それもそうかも、と顎に手を当てた紅月は純真にも見えて可愛らしい。カラオケ店のブースで見せた妖艶な様子とは大違いだ。一体いくつの顔を持っているのだろう、と東雲は興味が湧いたが問うことはしなかった。

「あの曲はズルい。それに、あんな声で歌われたらさぁ……」

「ズルいって何? 声が何?」

 からかうためにわざと聞いてきているのかと東雲は思ったが、紅月はキョトンと目を丸くしておりいつもより幼い印象を見せていた。これが演技だったらすごいな、と思いながら短く告げる。

「トイレで察して」

 紅月は途端に嬉しそうな顔をした。彼女にはどうやら欲をかきたてることができたかどうかの方が重要らしい。紅月の過去など関係ないと言ったことはあるのだが、彼女を歪めてしまったであろう養父の存在に怒りが湧いた。あまり多感な方ではないはずの東雲だったが、さすがに我慢ならなかった。

「今度はホテルにでも行く?」

 ニマニマとしている紅月。

「オジサンをからかうんじゃありません」

 東雲がぴしりと言うと紅月は笑顔のまま固まった。じわりと瞳が潤み、溢れだしそうになっている。

「ごめん、びっくりさせた? 怒ったわけじゃないからね?」

 強い口調で怖がらせてしまったかとすぐに謝罪したが、紅月の瞳からはそのまま涙がこぼれ落ちてしまった。ゆっくりと離れていく指先を掴めない。東雲は、ただ静かに彼女の後に続いて歩いていくことしかできなかった。

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