4
「ソラー、ねえ、ソラ、大丈夫?」
ぼーっとしている紅月に前園は目の前で手を振りながら声をかけた。
「うん……ちょっとトリップしてたわ」
紅月はスマホを見つめたままぼんやりとした声で返事をした。
「まだ迷ってるの? もう1ヶ月だよ」
ちょうど1ヶ月前。紅月は勢い余って東雲に告白してしまった。そして、その結果。
《俺でいいんですか? よろしくお願いします》
びっくりした顔と絵文字と音符の絵文字が添えられたその文を眺めてため息を吐く。
一体何を迷っているのかというと、デートに誘うかどうしようか、ということだった。付き合うことになったらしい、と曖昧な報告をした紅月に前園が提案したことだ。前園は「恋人同士なんだから」と言うが、紅月には自覚がない。つい勢いで告白してしまった後からのやり取りは記憶にないものが多い。付き合ってるんだなぁ、と他人事のように感じながらスクロールしていく。どれもこれも覚えのないやり取りばかりで複雑な気分だった。
「今日休みなんだから誘っちゃいなよ」
前園には通院の予定があるため一緒に遊びに行くことはできない。このままでは紅月はとてつもなく退屈な時間を一人でやり過ごさなくてはいけなくなる。
「勢いで告白しちゃったもんだから付き合ってもらってるだけなんじゃないかと思うんだけど」
吐き捨てるように言ってささっと作ったベーコンエッグサンドを頬張りながらコーヒーを淹れる。少し寂しげな声色になったのは、そうではないと思いたい気持ちの表れだろうということに紅月は気付かない。前園はバンと机を叩いた。
「ソラはいっつもそう。なんでそんなに自分を卑下するのさ。好きでもないのに1ヶ月も付き合ってられると思うの? ソラはかわいいし料理もできるし多才だって東雲サンだって言ってるじゃん。その自信のなさは人によって嫌味だと思われるよ」
「すみません」
勢いに押されて反射的に謝ってから、紅月は苦笑を浮かべる。
「アズはおれのこと褒めすぎだよ。大好きかよ」
「大好きだよ。まだまだ言い足りない」
褒めるところはいくらでもある、と前園が口を開いたので手で制してメッセージ画面を開く。さて、いざ誘おうと思うと文面が思い浮かばない。
《今日は休みだけど、予定はある?》
交際を初めてから、プライベートでは敬語を使わずに話そうと決めたことは過去のやりとりでわかった。送信ボタンをタップしてから前園に見せたら少し不満げな顔をしてみせた。いきなり誘うよりは自然だと思ったのだが、前園は早く結果を知りたいらしい。
タバコを咥えてマッチを手に取ってベランダに出る。ガスライターとオイルライター、それからマッチ、時には電子ライターなど、色々試してみたが、今日はなんだかマッチの気分だった。独特の香りが気に入っている。火をつけた後のマッチは振って火を消してから灰皿に投げ捨てる。今日の天気は曇り時々雪と予報が出ている。スマホで天気を確認した後に空を見上げると確かに雪の降り出しそうな感じがした。ぽこ、と軽い通知音がなって画面上部にメッセージが表示される。
「はぁ?」
間の抜けた声を上げた紅月は部屋の中に向かって手招いた。窓に近づいた前園に画面を向けると、彼女は文面を読んでガッツポーズを見せた。
《それならデートしない?》
こちらから誘うつもりだったのだが逆に誘われてしまう形になって拍子抜けである。なんと返事をするべきか迷っていると、窓が開いてスマホを奪われた。すぐに閉められて取り返すことは叶わなかったが、前園が悪いようにするとは思えないので任せておいた。
返ってきたスマホを確認すると《カラオケに行きたい》という一文と両手を上げて喜ぶ狐のスタンプを送っていたことがわかる。こんなスタンプ買ってたなぁ、とぼんやり眺めながらタバコの火を揉み消して室内へと戻る。不思議と視界が霞んで足元がふらつく。
「良かったじゃん」
そんな前園の言葉を聞いて抑えられなくなった。
デートという言葉を使ってくれたことが嬉しかった。ようやく実感できた、そんな感じがした。後押ししてくれた前園に感謝の気持ちも沸き起こる。色々と耐えきれなくなって前園に抱きついて涙を流した。
傷つくことに疲れていた心はいつも後ろ向きな想定を繰り返してきた。それらを簡単に打ち破って希望を与えてくれた前園の東雲に感謝して押し入れにしまいこんだままになっていた化粧品の入ったポーチを取り出す。
前園が出かけるのを見届けてから支度を始めることにした。時刻は7時過ぎ。時間に余裕はあるように思えるが、久々のメイクに緊張してうまくできない可能性を考えて急いで洗顔をする。
「うわ、苦ェ」
口の中に泡が入ってしまい、慌てて口を濯ぐ。歯磨きとうがいを済ませてから早速メイクに取りかかる。
全体的にピンクでまとめ、ふんわりとした印象にしておく。髪はアイロンでストレートにしてハーフアップにした。東雲が好きだと言っていたヘアスタイルだ。
「ん、悪くないんじゃないか?」
普段はあまり印象に残らないようなパッとしない顔立ちの紅月。だからこそメイクのしがいがある。どこか疲れきった様子を感じさせる自分とは別人のようで満足した。荷物をカバンに詰めて時間を確認するとまだ余裕はありそうだ。ゲームを開いて時間潰しをしながら返信を待つ。支度が終わったとのメッセージを送っていいものかと悩んでいると着信音が響いたことに驚いてスマホを落としてしまった。慌てて拾い上げて応答をタップ。
「はい、紅月です!!」
『東雲です』
なんだか少し可笑しそうな東雲の声が聞こえてきた。
『今から電車に乗るよって連絡だったんだけど、迷惑じゃなかったかな』
「メッセージでもよかったじゃん。びっくりしちゃったよ」
『びっくりさせたかったの』
時間を確認しながら文句を言った紅月はもう電車に乗るのかと時刻表を確認する。今から出るなら到着は待ち合わせの時間の30分前には着くだろう。
「着いてから予定あった? おれも今から出ちゃっていいかな?」
準備に時間がかかると思って待ち合わせ時間をゆっくりにしてくれたのかもしれないがその必要は無い。正直に言うなら、そんな気遣いよりも早く会いたいと言う気持ちが強い。紅月は熱くなる頬を扇ぎながら問いかけた。
『一服して待ってようかと思ってたけど、一緒がいい?』
「いっしょ、いい。いまで、る」
緊張でうまく言葉が発音できない。東雲はあまりそのことには触れずにいた。電話を切る直前にたった一言。
『かわいい』
そう言っただけで。
「……むかつく」
自分ばかりが緊張しているようで許せなかった。その余裕を絶対に崩してやる、と拳を握ってから戸締りをしてアパートを出る。
いつもより少し近道をして駅の近くに車を停める。今日は歩きで駅周辺で遊ぶ予定だ。紅月は人を乗せられるほど運転に自信が無いからだ。
「ごめんね、待たせちゃった?」
「今来たとこだから」
電車が来る時間は事前に調べてある。あまり外で待たなくてもいいように調整したので嘘は言っていない。
「あれ、空音サン。傘は? 雪降ってるけど……というか積もってるけど」
肩に薄く乗った雪を払いながら眉を寄せる。紅月には東雲が何を言いたいのかわからなかった。言われてからよく観察してみれば確かに東雲は傘を持っている。
「雨ならともかく雪に傘は使わない」
「ワイルド過ぎるでしょ。風邪引くよ」
そう笑ってから、東雲は何かに気付いて言葉を詰まらせた。しかし、特に表情を変えることもなく傘を差して紅月の方に傾けた。紅月はそれとなく肘に掴まって引き寄せてみた。東雲の腕に力が入った。
居酒屋の前の喫煙スペースに向かい、一服してからカラオケに向かった。何年ぶりかわからないと笑う東雲には任せておけないので、紅月がさっさと受付を済ませてドリンクバーでミックスジュースを作ってブースに入る。
「歌いまくります!!」
「どうぞ」
紅月は普段から色んな歌を口ずさんでいる。歌が好きなんだろうと東雲は聞き専に徹するつもりでいた。
紅月が一曲目に選んだ歌は、年上の恋人との別れを想起させるものだった。初デートで一発目に歌われると複雑な気分である。東雲は苦笑したがそれ以上に、しっとりと歌い上げる紅月の歌声に魅了された。
「上手だね」
音程が正確かどうかを示す判定バーをじっと見つめたままの東雲を見つめた紅月はふとイタズラ心が芽生えた。画面に集中している東雲の顎に指をかけ、間奏に入ると同時にそっと引く。やっと自分を見た東雲にご褒美だとでも言うようにキスをしてみせる。
「慣れてるなぁ……」
感心しているような、困惑しているような、そんな声色。紅月は片頬を上げてシニカルに笑った。
「経験は豊富だからね、おれ」
何事も無かったかのように歌を再開した紅月の頬がキラリと光ったこと。気付かないふりをするのが優しさであるのか、東雲には理解できなかった。




