22
静香と葵と樹、3人が泊まっていった夜。東雲は紅月に時間を作ってくれと頼んだ。だから紅月はゆっくり話し合えるようにと買い物も料理も事前に済ませて一日ずっと予定のない日を作った。
そのせいで、現在、紅月は暇を持て余していた。
「時任サンを優先させるとか、ないわァ」
東雲は時任と書店に行く予定が出来たといって出かけてしまった。今からでも前園に帰ってきてもらいたいところだが、早朝から出かけて行った前園はいつも以上にオシャレをしていたのできっと気合いの入ったデートなのだろう。邪魔するわけにはいかない。
「彼女ほっぽって友達と遊びに行くとかマジでないわァ」
東雲曰く「空音とはいつでも一緒にいられるから」と。ふざけんな、とキレてしまってはあまりにもワガママかと思って言葉を飲み込んだのが悪かったのか。
8時頃出かけて行った東雲が昼を過ぎても帰らない。
13時まであと5分をきった所でチャイムが鳴った。なんとなく嫌な予感がしたが、あまりにも暇すぎたので玄関にかけていって、開けた。
胸騒ぎがした時は大人しくしているべきなのだ。紅月は慌ててチェーンロックをかけた。相手は当然のようにドアを開けようとする。
「なんで、ここがわかったの」
まさか母が? 一瞬でも疑ってしまえばもう止まらない。視界が徐々に暗くなっていく。左手での慣れないスマホ操作では画面を見ずに電話をかけることができない。かといって、あまりの恐怖に視線を逸らすことができない。何をしでかすかわからない。観察していなければ。
玄関先に立っていたのは、養父の悟史だった。
「ちゃんと話をしよう。ここを開けるんだ」
紅月は頑として動かなかった。否、動けなかった。
「それなら開けなくてもいい。とにかく話をしよう」
悟史は居座るつもりのようだった。紅月はドアノブを引く力を強くするが、なんの効力もなかった。何事かを喚く男をぼんやりと見つめながら左手の親指を動かす。
発信音が響く。視界が真っ暗になる。
気が付いたら、養父はいなくて、それどころか自分も玄関にはいなくて。
「目が覚めた?」
声をかけられてまず時計を見た。時刻は10時だった。
「……ハル、いつ帰ってきた?」
「9時半頃かな。用事はすぐに済んだから」
悪い夢を見ていたのだと気付いた。あまりにもリアルな夢だったので恐怖から抜け出せない。
「大丈夫?」
こたつの中で横になっていたことから、恐らく東雲の帰りを待っている間に寝落ちしてしまったのだろうということはわかる。紅月はスティックのカフェオレをお湯で溶いている東雲に飛びついた。
「怖い夢を見たんだね」
平気だと思っていた。アパートで暮らすようになってから、何度か悟史が家に押しかけてくる想像をしたことはあった。まずは警察に電話をして、と冷静に対処できるように何度もシュミレーションをした。
しかし、夢ではそうはいかなかった。あの後どうなったのかなんて、例え夢だとしても考えたくは無い。
「それが普通だよ」
ぽつぽつと夢の話をした紅月に、東雲はそう言った。
「普通とか、当たり前とか、そういうこと、言われたくない」
どうせ普通じゃない。どうせ当たり前なんかじゃない。
紅月はぷい、と拗ねたように顔を背ける。東雲は優しく髪を撫でた。
「異常だって言われるよりもいいでしょう?」
「それは、そうだけど」
確かにズレているかもしれないが、それだって個性の範囲内だろう、と紅月は唇を尖らせる。
普通だとか、当たり前だとか。そんな言葉は最初から求めていない。そんな世間一般の大多数であることは望んでいないから。ナンバーワンよりオンリーワンがいい。だからそんな言葉で括ってほしくない。
だけど異常と言われるのはもっと嫌だ。排除されてしかるべき、そんな存在にはなりたくない。
自分は変えたくない。でも認めてもらいたい。
結局のところ、それだけのこと。
「そんなことより、時間作って欲しいとか言ってて時任サンとデートとはどういう了見だっ」
「デートじゃないし。すぐに帰ってきたでしょ」
夢の中ではだいぶ時間が経っていた感覚だったけれど、1時間半の外出くらいとやかく言うほどではない。ないけれど。
紅月は東雲の腰に腕を回してしがみついた。
「時任サンと、どこ行ったの」
別に何かあるとは思っていない。例え付き合う前にそういう冗談を言っていた二人だったとしても、それが現実に怒るだなんて思っていない。そもそも東雲に浮気なんてできるはずがない。
「買い物に付き合ってもらったんだよ。本当は前園サンに頼もうかと思ったけど、若い女の子と二人きりじゃ空音が心配すると思ったから」
ほら、そういうところ。紅月は腰に額をぐりぐりと押し付けることで無言の抗議をする。老けたおっさんと二人きりでも心配してますけど、なんて冗談を言ってやってもいいが、思いの外紅月にゾッコンな東雲が相手では笑い転げて会話どころじゃなくなりそうだ。
「時間作って欲しいって言ったのは、大事な話をしたかったから。空音もカフェオレ飲む?」
「飲むに決まっとろーが。それとタバコ」
「はいはい。ちょっと待って」
二人でカップを持ってベランダに並び、咥えタバコにお互い火をつけ合う。ふわりと紫煙が揺れて二人を囲む。降り始めた雪がカップの中に飛び込んで溶けた。
「まだまだ冬って感じだね」
寧ろ今からが冬? などと笑う紅月に、東雲は同調するように笑みを浮かべた。
「まだ2月だからね」
煙と一緒に白い息を吐き出しながら、二人でそっと体を寄せ合う。背中合わせに立ってカフェオレを飲み、タバコの煙を吸い込んでは細く吐き出す。
紅月が落ち着いてからの方がいいか、と東雲は言葉を選んでいたが、そもそも彼女はリラックスしている状態でなければ一服などしないことを思い出す。
思わずくすりと笑い声を上げれば、背中に感じていた熱が離れていく。
「なに、どしたの」
何か面白いことあったの、と覗き込んでくる紅月の頭をかき乱すように撫でる。女性はこういう撫で方を嫌う傾向が強いと聞くが、紅月は別だった。髪が乱れるのも気にせず撫で受け、それどころかもっと撫でろと言わんばかりに頭を擦り付ける。
「空音が言ってた、ヘビースモーカーにベビーって言っちゃう話を思い出して」
ヘビースモーカーな警察官に捕らえられた犯人が「まだ乳離れできていないのか、ベビー」とからかってみせるシーンが物語の中にあったらしい。煙なんかを吸いたがるのはおしゃぶりを必要とする乳離れできていない子供と同じだと、そういう意味のからかい方らしい。
「わたしがベビーだって言いたいの?」
にっこり笑って拳を握り指を鳴らす紅月をゆっくりと撫でて宥める。反射的に目を細めて擦り寄る姿は猫のよう。愛らしくてたまらない。東雲はタバコを揉み消し、紅月の唇を奪った。
「びっくり、した……」
心臓が止まる、などと言いながら自身の胸に手を当てた紅月に、東雲は薄く微笑む。彼女の手からタバコを取り上げて揉み消し、その場に跪く。紅月は首を傾げて、それでもこの後の展開を予想しているのか、動こうとはしなかった。
左手をとって赤い線の浮かぶ薬指を撫でる。何度も何度も噛み付いたことですっかり痕の残ってしまったそこを銀が覆う。
「結婚してくれますか?」
東雲の問いかけに紅月は動揺を隠しきれない。
「嵌めてから聞く? 外堀埋めてくのは好きじゃないって前にも」
「外して投げてしまえばいい。『冗談じゃない』と笑えばいい。空音にだってできること」
もう何もわからない子供じゃないのだ。気に入らなければ拒絶すればいい。そうでないのなら。
紅月はまだおろおろと視線を泳がせている。
覚悟ならとうに出来ていたはずだ。
『結婚しようぜ』
先にそう言ったのは紅月なのだから。忘れたなんて言い訳はもうさせない。
例えそれがうっかり口をついて出てしまった言葉だったとしても。
例えその言葉に深い意味がなかったのだとしても。
「俺にこうさせたのは空音だよ。責任取って」
そう弱々しく言ってあげれば、紅月は。
空音は小さく頷いてみせた。
初めは赤ん坊のオモチャみたいな脆いもの。他所の大人が触れればすぐに壊れる、そんな脆い関係だった。いくつも重ねてようやく強固な絆となって、今はこうして二人を繋いでいる。
銀が覆うBiteRing。
温かい涙がぽつり。
絡み合う指先には煙の匂い。
陽は月を飲み込みまだまだ高くなる。
「これからもよろしく、空音」
「こちらこそ、だよ。ハル」
重ねた唇の乾きに薄ら微笑んで。
彼女は彼と同じ名に。




