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今このタイミングでそれを言うか?
と、そんな風に叱られたのもいい思い出だ。東雲はキッチンに立つ紅月を見つめながら口元に笑みを浮かべる。
「揚げ物するからあんまり近寄らないで」
ほぼ毎回はねてきた油で火傷をしてしまう紅月が慎重になってそう言ってきたので、東雲は少し離れたところで見守ることにしている。
二人は同棲を始めた。前園がとても悔しそうにしていたが、気にせず遊びに来ればいいと紅月が言ったので丸く収まった。前園は変わらず毎日のように泊まっているので三人での共同生活のようなものだ。
「はい、もしもし」
『ママ? あおいだよ』
一緒に暮らすようになると、葵からの電話は頻繁にかかってきていることがわかった。ここのところ毎日電話がかかってきていて、紅月はにこにこと嬉しそうにしている。
紅月が葵と樹を手放すことになった本当の理由は、東雲はまだ聞いていない。後で話すと言われてそのまま聞けずにいる。
しかし、望んでそうしたのではないことは明白だった。
「葵、うちに来る? 来るならポテト作ってあげる」
『ママのポテト!? たべたい!!』
心境の変化からか、紅月は葵と樹をアパートに招くようになった。そういう時は決まって揚げ物を作り、ついでにフライドポテトを作るのだ。綺麗に洗ったじゃがいもをくし型に切って素揚げする。揚がったポテトは油を切って冷めない内にボウルに入れて塩を振っておく。
「おばあちゃんと樹と3人でおいで」
じゃがいも1キロだと2人しかいない今は多く感じるが、人数が増えればあっという間になくなるためこれでもたりないかもしれない。つまみ食いをしようと伸びた手を叩いた紅月は追加でじゃがいもを5個洗って揚げた。
「ママー!!」
チャイムも鳴らさずに突撃してきた葵と樹を東雲が食い止める。熱い油のあるキッチンに行かせるのは危ないからだ。紅月の母が苦笑いしながら入ってきた。東雲はぺこりと頭を下げる。
「空音。前に欲しいって言ってた巻き紙とフィルター持ってきたけど、どこに置いておこうか」
紅月がタバコを吸い始めたきっかけは漫画のキャラクターだと言っていたけれど、実際は母の影響だったらしい、ということを東雲が知ったのはつい最近のこと。
今ではタバコを吸うのはやめたらしいが、紅月の母は元々ヘビースモーカーだったそうだ。手巻きタバコや煙管なんかは母から教わったという。母の影響、恐るべし。
一緒に住むようになって、東雲もいるからと子供たちを呼ぶようになって、母と接する機会も増えて。
改めて紅月は自分が家族のことをとても好きなのだと実感させられる。
東雲はお下がりのタバコ用品を大切そうに鍵のかかる小箱にしまった紅月を見つめてほっこりと口元を綻ばせた。
そうこうしている内にポテトが子供たちでも食べられるくらいに冷めた。あまり冷めすぎても美味しくないのでジュースとビールと焼酎を用意する。今日は紅月の母と子供たちも泊まっていかせるつもりらしい。
最初は迷惑じゃないかと遠慮していた母も、一杯呑ませてしまえば簡単に口説き落とすことが出来た。紅月は東雲に親指を立ててみせた。
しばらくジュースとポテトに夢中だった子供たちがゲームをしたがった。葵が持ってきたゲーム機をテレビに繋いでコントローラーを4つ用意する。葵が樹にコントローラーを持たせて拙いながらも操作方法を説明している。
「お兄ちゃんだねぇ」
東雲がそう呟きながらちらりと紅月を見ると、彼女は瞳を潤ませながら口元を押さえていた。どうやら母親としてのスイッチが入ったらしい。子供の成長に思わず涙が零れてしまったようだ。
紅月が落ち着くのを待ってゲームを始める。4人で白熱した戦いを繰り広げていたのだが、いきなり紅月が母にコントローラーを押し付けて外に飛び出した。
ドアの前でポケットからスマホを取り出していたので着信があったのだろう。東雲は紅月の母に操作方法を教えながら葵と樹の二人を相手にしていた。
「今更何の用だ!!」
鋭い怒鳴り声にびっくりした樹がコントローラーを落として泣き出した。葵が玄関に駆けていこうとするのを引き止めた紅月の母が東雲に目配せをする。東雲は頷いて玄関へと向かった。
紅月は玄関にもたれかかっているのか、少しばかりドアが重い。ゆっくりと押し続けるとふと軽くなる。気付いた紅月が避けたのだ。
ちらりと顔を見ると蛆虫でも見たかのような不快そうな顔をして、それでも電話は切らずにいた。少し耳から話してわんわんと喚く声を聞き流している。
だれ?
口の動きだけで問うと、郵便受けの上にスマホを置いた紅月が左胸の前で人差し指を下向きに交差させてから弾くように跳ね上げたあと、胸の前で親指を立てた。
それから紅月は再びスマホを持って、中に入れと言わんばかりに手を払ってみせる。東雲は大人しく従うことにした。
「誰だって言ってましたか?」
「それが、なんかこう……それからこうして、誰とは教えてくれませんでした」
東雲は紅月の手の動きを真似てみせた。すると、紅月の母は難しい顔をしてから「子供たちをお願いします」と言って立ち上がった。
「はるさん、ゲームしよ」
「ママを待ってなくてもいいの?」
「3にんでもできる」
葵は未だにグスグス言っている樹にコントローラーを握らせた。ああ、やっぱりお兄ちゃんだなぁと思うと自然と笑みが浮かぶ。
3人でゲームの続きをしていると、母に背を撫でられながら紅月が戻ってきた。よほど泣いたのだろう。マスカラが溶け出して目の周りが真っ黒だ。
「ママこわい!!」
「ひっ、ママもこわいっ!! 化粧落としてくるわ」
樹に叫ばれた紅月は鏡を見て小さく悲鳴を上げてから宣言した。
「意外と落ち着いてますね」
東雲がそう言うと、紅月の母が短く息を吐いた。
「言い聞かせたから今は大丈夫ですけど。夜は不安定になるかもしれません」
あくまで一時的かもしれない。不安そうな彼女の様子を見ると東雲も不安になってきた。一体誰からの電話で、何を言われたことであんなに怒っていたのか。まだ東雲にはわからない。ただ、一つだけわかったことはある。
「二人とも手話がわかるんですね」
作業所には聴覚障害を持つ利用者もいる。紅月がその利用者との会話を避けているのは明白だった。わざわざ俯いたり背を向けたりしているからわかりやすい。
そんなエピソードを聞かせた上で意外だったと伝えると、紅月の母は苦笑いした。
「きっと悔しいんですよ。最後まで続けられなかったものを見るのが」
あの子は負けず嫌いだから、と彼女が笑った時、洗顔を済ませてさっぱりした様子の紅月が戻ってきた。残念ながらどういうことなのかを詳しく聞く時間はなかったが、それは本人に聞くことにしてもいいかもしれないと思い直す。東雲は袖を引っ張られてゲームの続きに集中することにした。紅月はしばらく黙ったままでいたが、その内手巻きタバコのセットを入れた小箱を持ってベランダに出た。
くるくると巻いて糊の部分を舌で湿らせて最後まで巻く。マッチで火をつけて天を仰ぎ無防備に喉を晒す。東雲が残した赤い痕がよく見えるので少し気まずくなる。紅月も紅月の母も子供たちも誰も気にしていないのはわかっているつもりだが、それでもなんだか気恥ずかしいのだ。
「ママ、さみしい?」
振り返った樹は祖母に問いかける。背後の紅月の母は驚いたように目を見開き、隣の葵が樹の肩を叩いて自分の方を向かせて「しぃ」と人差し指を唇に当てた。
「樹くんも葵くんもすごいですね。ママのことをよくわかってる」
紅月が寂しがっていることに気付いた樹も、それを人に言ってはいけないとわかっている葵も。東雲は自分の考えを軽く否定しながら苦笑した。本人たちはきっとそこまで深く考えていない。そこまで考えられる子供がいるとするなら、この世界では大人が実に生きにくくなってしまう。
「空音がわかりやすいだけですよ」
そんな言葉とは裏腹な自嘲的な響き。きっと彼女にも分からなかったのだろう。理解してあげることができなかったのだろう。紅月が何を思い、何を望んでいたのか、なんて。わかるはずがないのだ。本人では無いのだから。
ましてや、本人にもわからないことなら、尚更。
「空音に、プロポーズしました」
東雲の言葉に、紅月の母がゆっくりと瞬く。そして、既に聞いていると言って頷いた。そして。
「あの子が返事をしていないことも」
東雲は思わず目を逸らした。喉を反らせたまま見つめてくる紅月の瞳が、自分を蔑んでいるように見えてしまったからだ。
そんなはずないのに。
──本当に?
東雲はただ俯いて、紅月の母が語る悲しい話を聞くしかなかった。




