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買い物を終えて一度アパートに戻って車を置いて公園に向かった。
「学生時代、ここで歌の練習をしてた」
そう言って紅月は公園にある石のベンチの上に立った。ステージに立っているような気分なんだろう。彼女はよく通る声で歌い始めた。
「空音は歌手になりたいとか思わなかったの?」
「思わなくはなかったかな。夢はたくさん見た」
歌手になりたい。小説家になりたい。声優になりたい。音楽を作りたい。配信者になりたい。
夢はたくさん見た。挑戦しようともした。
歌をたくさん歌った。人前でも緊張せずに歌えるように合唱部に入って練習した。物語を考えるのが好きだった。文章にして友達に見せたりしていた。アニメを見るようになってよく物真似をするようになった。演じることが好きになった。オリジナルの曲を演奏してみたりもした。ラジオ配信ができるアプリを使ってみた。トークに自身はなかったがファンになってくれる子はいた。
やってみたいことはたくさんあった。
紅月の瞳から涙が零れた。
「今更……今更だよ」
現実を見ろ。できるはずがない。いつまでも夢ばかり見ていたって仕方ない。子供じゃないんだから。
紅月が全ての声を振り切って前を向くことができるようになったのは、30歳の誕生日を迎えた時だった。親の言うことなんて関係ない。自分の人生なんだから自分の好きなことをしたい。そう思えたのが、人より少し遅かった。
「いいんじゃないの。今からでも」
紅月は東雲の声に俯かせていた顔を上げる。
「空音はもう30だなんていうけど。俺からしてみればまだ30、だよ」
七つ年上の、兄たちよりも年上の東雲が。
「空音は色んなことができるんだもん。なんにだってなれるよ」
それは魔法の言葉。石のベンチから飛び降りて、東雲に抱きついた。軽々と抱きとめて、東雲は微笑む。随分と自然な笑顔を浮かべられるようになったのはいいことだと自分でも思う。紅月が変えてくれた。だから今度は東雲が紅月を応援する番だ。
「空音、帰ろっか」
まだ2月だと考えれば異常なほど温かいけれど、それでも紅月の体はすっかり冷え切っていた。
「そういえば、今日ハル失敗したね」
呼び方を変えるようになって日が浅いのに、と紅月がからかう。東雲は失敗なんかじゃないよと笑ってみせた。紅月が怪訝な顔をする。
「照れたでしょ」
にっこりと微笑めば、さすがにしてやられたことに気がついた。ちくしょう、と紅月は舌打ちをした。
しばらく談笑してからアパートに戻る。手洗いうがいを済ませた紅月は早速キッチンに立った。米を洗って炊飯器に入れてスイッチを入れると紅月にもスイッチが入ったかのようだった。
鮭の切り身に塩コショウを振ってキッチンペーパーで水気を拭き取ってから薄く小麦粉をまぶす。フライパンを日にかけてバターを乗せ、溶けきらないうちに皮の見える方から焼いていく。軽く焼き色がついたらひっくり返して同様に焼く。
小鍋に小麦粉を入れ、カップで計った牛乳を少しずつ入れてだまにならないように混ぜていく。牛乳を入れ終わったらバターを入れてよくかき混ぜながら煮詰める。コンソメと塩コショウで味を整えてクリームソースの完成だ。
あらかじめ電子レンジで加熱しておいたかぼちゃをしょう油、酒、みりん、砂糖を同量ずつ入れたつゆで煮込む。かぼちゃに味が沁みるまでの間に風呂をやっておけばいい。
あとは……と冷蔵庫を見た紅月はきゅうりの醤油漬けを取り出す。仕切りのあるプレートに盛り付けていってご飯が炊けるまでラップをかけておく。
「お風呂入ってきたら」
「そうしようかな」
ずっと見ていたらしい東雲にようやく気付いた紅月が声をかけると、東雲はタンスから着替えを取り出した。一番上の引き出しには東雲、二番目には前園で三番目に紅月の服。どうせ頻繁に泊まりに来るのだから、と紅月が提案したのだが、それならばと遠慮なく私物を増やしていく二人に思わず苦笑を漏らしたのはもう二週間も前のことだ。
東雲が風呂に入っている間に紅月は刻んだチョコレートに温めた生クリームを混ぜていく。クッキングシートを敷いたバットに流し込み冷蔵庫に入れておく。
「上がったよー」
「早いね」
よかった、見られずに済んだ。ほっとしながら紅月はビールを取り出した。缶を開けて一口呑んでから冷蔵庫に戻して紅月も風呂に入ることにした。
紅月は長風呂である。二時間も入ってることがよくある。東雲は時々声をかけて寝てやしないかと確認する。
「ふぃー、気持ちよかった」
冷蔵庫からキンキンに冷えたビールを出して呑んでさっぱりしたように声を上げた紅月に東雲は笑いを漏らす。
風呂上がりで火照っているためかかなりの薄着のままベランダに出ようとした紅月を慌てて止めてフード付きパーカーを頭から被せた。東雲の上着を紅月が着るとワンピースのようになるのが少し面白くて東雲は小さく吹き出す。
「ハルも一服する?」
そう言って彼女が見せたのは煙管と刻みたばこの入った袋。
「俺、それ初めてなんだけど」
「簡単だよ」
指で摘んだ刻みたばこをくるくると丸めて火皿に乗せマッチで火をつける。熱いスープをすするように、ゆっくりそっと煙を吸いながら紅月は目を細めた。
「……なんか、えっちだ」
「っ、ごほ、けふっ」
東雲がおかしなことをいうものだから、噎せてしまった。涙を浮かべながら東雲を睨みつけて、紅月は握りしめた拳を東雲の脇腹に押し付けた。
「俺はこっちでいいや」
いつものように慣れた紙巻煙草に火をつけて東雲は大きく紫煙を吸い込んだ。葉を注ぎ足してもう一度ゆっくりと香りを楽しむ紅月。ふんわりとバニラの香りがした。3度煙を吐いた紅月が煙管を指で優しく弾いて灰を落とした。
「コンってやんないんだね」
漫画やドラマなんかで見たことのある、と東雲がいうと、紅月は「長持ちさせたいから」と言った。どうやらあれは演出上の動作であって、実際にはやらないものらしい。確かにあんな扱い方をしていたらすぐに壊れてしまうか、と東雲は納得する。
「ほんと、色んなことを知ってるね」
煙管の使い方など東雲は知らない。自分以外でも、それを知っている人に会うのは紅月が初めてだ。紅月は色々な知識を持つ。
「本で覚えた」
読書家の彼女は好奇心旺盛で自分でやってみないと気が済まないという。それが罪になることでなければいいと思う。彼女が興味のないことって何かあるのだろうか。作業所での作業を見ていても同じことを思う。彼女が作業に困るところを見たことがない。色々な作業があるが、全部そつなくこなしているように見える。どこでも引っ張りだこにされるくらいだから。
「知るのが好きなんだ。話の種になるでしょう?」
そう言って部屋の中に戻った彼女は一枚の小さな紙とスポンジのようなものを持ってきた。
「なにそれ」
「巻紙とフィルター。手巻きタバコ、知ってる?」
刻みたばことスポンジのようなもの──フィルターを巻紙に乗せて器用にくるくると巻いていき、糊の部分を舌で湿らせて最後まで巻く。
「知っていても、体験したことがなければ話が面白くない。だから体験してみたい」
差し出されたタバコは甘い香りがした。火を付けて一口吸ったところで、そういえばさっきこれ舐めてたよな、と気付いた東雲はなんとも言えない気分になって目元を手で覆った。初めて吸う手巻きタバコにはやたらと熱を上げられるのを感じる。
「通販で色々買っておいたんだよねー」
「あ、それ、空音が読んでた漫画に出てたやつ?」
ウルグアイ産のバニラの香りが特徴的なアーク・ロイヤルを咥えた紅月がにっと笑った。電子タバコも加熱式タバコも一通り揃っていて、ついでに葉巻もあるらしい。
「好きだねぇ、タバコ」
「集め始めたら止まらなくて」
タバコだけに限ったことでは無い。彼女はとことんものを集めるのが好きだった。お金が入るとすぐに使ってしまう、と困った顔をしていたが、一体これらを買うのにいくらかかったんだろうか。東雲は背筋が冷えた。
「……困ったら言ってよね」
お金に困ると冗談ではなく食事を摂らなくなるのが紅月である。かといって計画的にお金を使うのも貯金をするのも彼女は得意ではないようだし。
──結婚したらお金の管理は俺がしよう。
明日お金が入った途端に全部なくしてしまいそうな紅月の様子に決意を固める東雲。
タバコを吸い終えてご飯を食べて、紅月が冷蔵庫からチョコレートを出した。
「わあ、美味しそう」
「ただの生チョコだよ。ハッピーバレンタイン」
「あ」
バレンタインにチョコレートをもらったことなんてなかった。東雲はすっかり思いつかなかった。二度チャイムが鳴ってから玄関のドアが開く音がしてびくりと体が跳ねる。
「よ、アズ。ちょうどいい」
帰りが遅くなることは伝えていたが、東雲が泊まることは伝わっていなかった。前園は少し驚いたような顔をして東雲を見たが、何事も無かったかのように紅月が差し出した生チョコに食いついた。
「さあ、ゲームをしようか」
いつの間に持っていたのか、ポケットからトランプを出した紅月が楽しげに言い、前園と東雲は顔を見合わせた。




