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結局、紅月は元恋人との関係をきっぱりと切った。
最初は友人に戻るのだと言って連絡を取りあっていたようだが、東雲と付き合い始めて3ヶ月の記念日をきっかけに連絡を絶つことにした。
紅月曰く「傍で支えてくれるハルが我慢しないでいいって言ってくれたから」と。
そういうことで、二人の間に流れた別れを想起させるような不穏な空気はなかったことにされる。東雲はくよくよと悩むことをやめたのだし、紅月がそうと決めたならそれでいいと思っている。
少しヒヤヒヤしていたのは紅月には内緒だ。
3ヶ月経ってもう一つ変わったことがある。
「それでそれで? 今度はどこにデートに行くの?」
「どこがいいと思います?」
「やっぱり二人には図書館デートでしょ!!」
社内恋愛クソ喰らえ、といった紅月の意向で誰にも言わない約束をしていたが、職員さんの一人に紅月は二人が交際していることを打ち明けたのだ。その職員さんの名前は伊崎真奈。利用者と職員全員の食事を作るのが彼女の仕事だ。午後の作業には伊崎の手伝いもあり、作業の早い紅月はここでも大活躍だった。紅月も伊崎にはよく懐いており、他の人にはできない相談をすることもあった。
そんな彼女に昼食片付けの手伝いとして紅月と東雲という珍しい組み合わせで呼ばれたのがきっかけだった。
『ハル、布巾とって』
すっかり油断していたんだろう。愛称で呼んだことにも敬語を忘れていることにも彼女が気付く様子はなかった。気まずかったのは東雲の方である。伊崎の目がキラキラと輝いていた。
『コップ置いてきます』
東雲が一時退出した際、伊崎が紅月を問い詰めて白状させたのだ。東雲が戻った時、紅月は真っ赤になって瞳を潤ませていた。
「でもあれだよね。お似合いだよね、二人」
「そうですか? 全然ですよ」
主に身長が。そんな副音声が聞こえたのは、紅月の恨めしげに睨めつける視線のせいだろうか。東雲は雑に愛想笑いを浮かべておく。紅月が小さく舌打ちをした。
「図書館デートが似合うってほど、俺本読まないんですよね」
「わたし、彼氏ほっぽって本読み込む自信ありますけどデートって言えます?」
二人の言葉に伊崎は苦笑いだ。
「じゃあ、公園とかは? 空音ちゃん好きそうじゃない」
「あー、いいですね、公園。ハル、今度一緒に行こ?」
気を許しているからなのか、既に打ち明けたからなのか。紅月はプライベートとなんら変わらない様子で東雲に話しかけた。東雲は薄く笑って頷く。伊崎がにまにまと二人を観察していた。
公園か、と紅月が思い浮かべたのはアパートからそう遠くないところにある広い公園だ。遊具が少ないせいかあまり子供はおらず、それどころかあまり人自体が寄り付かないところだ。
学生時代はそこでよく歌を練習したっけ。遠慮なく歌えるのは何もカラオケボックスだけではない。
そんな公園の存在を思い出した紅月が東雲と伊崎に伝える。
「お金かからなくていいね。今日行く?」
「いきなりだね。いいけど」
こそっと東雲が誘うと紅月がウインクしてみせた。楽しげな紅月の様子に、伊崎は目を見開く。
伊崎も職員さんの一人。紅月の抱える病気もそれに至るまでの経緯も聞かされている。いつも笑顔を浮かべていながら、底冷えするような凍てつく瞳をしている理由を知っている。心の底から楽しそうな紅月を見て思わず涙ぐんでしまう。
「空音ちゃぁぁんっ」
伊崎が紅月をキツく抱き締めて頭を撫でる。紅月は突然のことに体を跳ねさせた。東雲も驚いて目を開く。
「よかったね……ほんとに、よかった……っ」
大きく見開かれた紅月の瞳に涙の膜が張り、そして溢れ出す。
紅月は自己防衛のためか、普段ある程度の感情をセーブしていた。一人でいる時、どれだけ悲しくても辛くても泣き喚いて狂ってしまわないように。
凍りつかせることで守っていた心が、ゆっくりと溶かされていく。
紅月が伊崎に本当に心を許した瞬間だった。
二人で涙を流しながら抱きしめ合って、そして最後には照れくさくなって笑いあった。他の誰もいないことを確認した東雲が紅月の頭を撫でる。紅月はとても嬉しそうに透明な笑みを浮かべた。
「その笑顔がいちばん可愛いよ」
いつものような大人であることを自覚してしまっている笑顔だって素敵だけれど、早くから心の奥に閉じ込めてしまっていたであろう子供の紅月が顔を出す瞬間、東雲の心はぎゅっと鷲掴みにされる。
紅月は弱々しい自分を嫌って何度も「ごめん」を繰り返すけれど。
何度だって言ってきたことに嘘は無い。
謝る必要なんてないんだよ。
東雲はお茶休憩の時間になって他の人が来るまで、ゆっくり紅月の頭を撫でる許可をもらった。紅月は心地良さげに撫で受けて、その内に欠伸をし始めた。
「安心すると眠くなっちゃうよね」
「元々睡眠時間短いんでいつも眠いんですよ」
紅月の普段の睡眠時間は2時間から3時間程度だ。それも小刻みに目が覚めてしまうので全然寝た気がしないという。
「寝るって言うより酔い潰れるですよね、空音、サンの場合」
そこで初めて東雲が失敗した。一瞬詰まっただけなのに、伊崎はそれを聞き逃さなかった。
「あ、今の呼び方わざとっぽかった。普段は呼び捨て?」
東雲はからかわれることに慣れていないしどんな反応をするのが正解なのかわからない。戸惑っていると紅月が戸棚を閉める音を響かせた。
「呼び捨てにされるようになったの最近なんですよ。いっぱい練習させてるんです。今は真奈サンしかいないから丁度いいでしょう?」
それっぽい理由を述べた紅月に伊崎は納得した様子を見せているが、それでいいのかと東雲は苦笑せずにいられなかった。なんというか、自分の親と同じ世代の相手を上手く手のひらで転がしているような紅月が少し怖い。
作業を終えた二人は掃除をしてからタイムカードを押して喫煙スペースに向かう。
「今日は珍しい組み合わせでしたね」
先に一服していた時任が微笑んでいる。
「なんか、工場の方に仕事が来てないらしくて。逆に事務所は忙しそうでしたね」
年中忙しい縫製作業に回されることの多い東雲はそもそも伊崎の手伝いに呼ばれることが少ない。紅月はよく伊崎の手伝いをしているが、何をやらせても手早く終わらせる紅月は誰かと一緒に手伝いに入ることが少ない。下手に人と組ませると伊崎の方が間に合わなくなる、というのが職員さんの総意である。
「なんだかんだいってわたし達って完全同期ですからね。入所日まで一緒なんで、いっぺんに話聞いてみたいとか思ったんじゃないですか?」
というのが紅月が3秒で思いついた言い訳。実際の理由はわからないし、時任だってそこを重視しているわけではないので何の問題もなかった。それっぽい理由をでっち上げた紅月は涼しい顔。無駄に説得力のある作り話が上手である。東雲でさえ納得しかけてしまった。
「お先失礼します。お疲れ様でした」
「お疲れ様でした」
一足先にタバコを揉み消した東雲が挨拶すると、時任は笑みを浮かべて、紅月はスマホの画面に視線を落としながら、声を揃えて挨拶をする。
「アズ、今日おれ遅くなっから」
掃除を終えて事務所から出てきた前園に紅月が言う。
「え、帰るの何年後くらい?」
「今日だっつーの」
そんなやりとりをして笑いあってから別れて帰路につく。車に乗り込んだ紅月は東雲にメッセージを送る。
《駅裏のスーパー集合》
《了解、ボス》
《クイーンとお呼び》
《キュイーン》
《機械の動作音だろそれ》
一頻り笑ったあと、紅月は車を発進させた。
スーパーの駐車場に入ってスマホで広告を確認する。今日は鮭の切り身が安いらしい。今日のメニューはクリームソースをかけた鮭のムニエルにしよう。他には何がいいか。スクロールしていると窓をノックされた。視線を上げることなく空いている手で招き入れる。
「何見てるの?」
「チラシ」
「店に入れば貼ってあるのに?」
東雲のそんな疑問は無視する。紅月はかぼちゃが安売りしている情報を見つけて副菜はかぼちゃの煮付けにしようと決めて車を降りた。助手席の東雲がドアを開ける前に鍵をかける。ちょっとした嫌がらせだ。
「いじわる」
追いかけてきた東雲が紅月の頬をつつく。片頬を上げてシニカルな笑みを浮かべた。
「好きなくせに」
もはやお決まりになってきたやり取りに、東雲は脇腹をつつくことで抵抗するのだった。




