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BiteRing  作者: 月神奏空
3章 傷を抉って
16/23

※16

ちょっと今回も暗いお話です。少しずつ増えますがちゃんとハッピーエンドに向かっています。

優しく見守ってあげてください

 紅月が不安定になるペースがどんどん上がっていることに、ようやく気付いたのが2月の始め頃。付き合い始めてからもうすぐ3ヶ月という時だった。

 何かが近付いてきている。それが何なのか、東雲がすぐに思い浮かべることはできなかった。前園と東雲とで交代で紅月のアパートに泊まり様子を見るようにしていた。

「……返して」

 顔を俯かせた紅月がぽつりと漏らした。東雲は彼女の顔を覗き込む。ここではないどこかに意識が向いているようで、彼女は気付かない。

「空音サン」

 声をかけても、目の前で手を振っても、肩を叩いても、脇腹をつついてみても。一切反応を見せない。

 東雲は紅月のスマホを手に取った。紅月の母に、もしくは前園に。連絡をしておいた方がいいと思った。彼女の様子がおかしいことを。しかし、何を感じ取ったのか、連絡先を開いた途端に紅月は東雲の手からスマホを奪い返した。奥歯を噛み締めながら、誰にも知らせるなと言うように。

「空音サン。もうダメだよ。我慢できていないよ」

 東雲は諭すように優しく言うが、彼女は聞き届けようとしない。壊れたようにただ何度も繰り返す。それは悲しい自己暗示。

「だいじょぶ、だから……っ」

 体が震えている。声は掠れている。

 辛い、苦しい、助けて、と。

 抑えきれない悲痛な叫びはもう東雲にまで届いているのに、どうして。

「俺は頼りないかもしれない。俺じゃ嫌なのかもしれない。誰ならいいの。誰になら言えるの」

 揺れている瞳にきちんと自分が映っているのか、東雲には自信がなかった。怯えを見せる紅月が何を見て(・・)いるのか、東雲にはわからない。何ができるのか、何をしてあげられるのかもわからない。ただ、このまま放置というわけにはいかないのはわかっている。

「貸して、空音サン」

「やだ……」

「空音」

「いやだって、いってる」

「ソラ!!」

 前園がそうするように愛称で呼ばれたことで驚いたのか、紅月は持っていたスマホを落とした。すぐさま拾い上げた東雲はとりあえず前園に電話をかけた。事情を知ってしまった今、頼るべき相手は彼女の家族では無い気がしたからだ。

『もしもしー、どったの?』

 電話の相手が紅月だと信じて疑っていないせいか、前園は軽い調子で応答した。

「前園サン、東雲です。スピーカーに切り替えます」

 前園はすぐに察したらしい。一呼吸置いて彼女は紅月に話しかけた。

『ソラ。嫌な夢でも見たの?』

 スピーカーから前園の優しい声が届き、紅月はぼろぼろと涙を溢しながら狂ったように笑い出す。夏が終わりを迎えようとしていた時、同じようなことがあったのを思い出した。東雲はその時の前園の言葉も一緒に思い出してゾッとした。

──ソラは限界になった時にも笑うんです。

 突然腹を抱えて笑い出した紅月に職員さんが戸惑っていた時、泣き出した前園が震える声でそう言っていた。自分にはどうすることもできない悔しさ。それが彼女の目に涙を浮かべさせたのだろう。

「前園サン」

『落ち着くまで抱きしめていてあげてください』

「やってみます」

 彼女が涙を流しながらも笑い続けているのは発狂ではなく精神が崩壊寸前となった時の自己防衛だと思っている。笑い飛ばしてしまうことで辛く苦しい状況から脱したい。その願いがそうさせているのだと。そうでもなければ、彼女の瞳に自分が映っているはずがないのだから。

「空音サン」

 紅月は朦朧とする意識の中でも東雲を認識していた。願わくば、この痛みから救い出して欲しいと。

 電話を置いた東雲は紅月の小さな体を抱き締めた。背中をさすって、深呼吸を促す。ゆっくり、ゆっくり。自身もそっと息を深くしながら、声をかけ続ける。

「大丈夫だよ」

 君の言っていることは間違いではない。確かに大丈夫(・・・)なのだと、何度も繰り返す。時計の針が動いて、小さな音を立てた。微かだというのにやけに響く音だった。紅月がふと目を閉じて脱力する。気を失ったようだ。

「気絶しちゃいましたけど」

『手を握っててあげてください。起きた時に淋しがらないように』

「わかりました。ありがとうございます」

 電話を切って、東雲は紅月を抱き上げる。随分と軽く感じた。まるで抜け殻のようだと背筋が冷える。

「大丈夫だからね」

 サービス管理責任者の城内に言われて紅月が拗ねていたことがあった。誰もが許されている自己暗示を何故自分はしてはいけないのかと。大丈夫だと言えば大丈夫な気がしてくる。だから大丈夫だと言うのに、と。それは違うよ、と諭されても紅月は納得いかない様子でいた。

 誰もがその言葉を暗示のために使う訳では無い。紅月にはそれがわかっていなかったのだろうと思う。そして今、東雲にもわからなくなってきた。

 果たして、彼女は本当に大丈夫(・・・)なのか。

「……大丈夫」

 魔法の言葉だと誰かが歌っていた。しかし、これではまるで呪いのようではないか。

 紅月が一人暮らしを始めてから12年が経つという。未だに苦しめる彼女を救うことができるのは、そんな言葉ではないだろうに。一度唇を引き結んだ。

「は、るひ」

 思っていたよりもずっと早く、紅月が目を覚ました。潤んだ瞳で見つめられ、そして名前を呼ばれた東雲は少し苦労して笑みを形作った。

「はるひが、いる」

「うん、いるよ」

「なんで?」

 紅月はまるで何も覚えていないようだった。壊れかけたこころが、自分を守るために記憶を閉じ込める。破滅願望に似たものを持つ紅月が、必死で生きようとしていることに何か胸の奥から熱いものが込み上げてきた。東雲はキツく細い体を抱き締める。

「会いたかったから、来ちゃったんだよ」

 空音のことが、好きだから。

 耳元で囁くと、紅月は嬉しそうにはにかんだ。そして、彼女はけして東雲の言う通りではないことを察した。

「夢を見るんだ」

 紅月は寂しそうに語り始めた。


 夢を見るんだ。

 まだ、みんなで仲良く暮らしていられた時の夢を。

 小学校高学年になって、紅月はオトナになった。

 初めは服の上から。そして潜り込んできて、次第に──

『好きな人としかしちゃいけないんだよ。空音は父さんが好きか?』

 何かおかしい。そう思っていても、幼かった紅月には何がおかしいのか明確な答えを出すことができなかった。

 好きか、嫌いか。答えるならもちろん。

 それが間違いだったなんて、一体誰が責めることができようか。彼女は初めから嘘をついていたわけではなかった。好きだったから、受け入れた。ただそれだけのこと。

 彼女がまだまだ子供で、答えを教えるべき大人が間違ったことを刻み込んだ、ただそれだけのことだったのだ。


「ハル、お腹空いた」

 三音以上の名前で呼びたくない。突然そう言った紅月に東雲は少し戸惑った。思えば、親友の前園梓のことも彼女は「アズ」と呼んでいる。同様に紅月は東雲の事を「ハル」と呼び始めた。距離感が縮まったようで嬉しく思うのは事実だった。

「ご飯ならさっき食べたでしょ、空音」

 東雲も紅月のことを呼び捨てにした。まだ照れくささはあるものの、すぐに慣れるだろう。二人は何事も無かったかのように日常に戻った。

 いや、違う。

 紅月の発作も全て含めて、彼らの日常なのだ。

 東雲は紅月の額と自身の額に手を当てる。熱がないようだったらそのままにしておいて平気です、と前園から言われている。興奮状態にあったためか少し熱いような気がするが高熱というほどではない。

「なに?」

「空音が考えすぎで知恵熱出てないかと思って」

「わたしそんなにバカじゃないからね?」

 言っておくけどハルよりは賢いよ。そう言って胸を張る紅月だが、東雲は苦笑した。

「空音はバカだよ。知識のあるバカだ」

 だってそうでなければここまで自分を追い込むような真似をするはずがない。よく見ないとわからない、しかし、逆に言えばよく見ればわかる、紅月の左手の甲に刻まれた傷痕をなぞる。これだけわかりやすく自分が傷ついていることをアピールしてきた紅月に、周りの大人は気付かなかったのだろうか。こころが成長を拒み、年ばかり食ってきたバカな紅月を、東雲は再びキツく抱きしめる。

「もういいよ、空音。もう我慢しなくていい」

「ん? なにそれ、どしたの?」

「お腹、空いたんでしょ」

 チョコレートを差し出しながら、東雲は微笑む。いつかきっと、その言葉が彼女の助けになれることを願って東雲は繰り返す。

「我慢しないで」

「んー、なんかよくわかんないけど、わかった」

 紅月は不思議そうにしながらも東雲の手の中にあるチョコレートにかじりついた。

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