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紅月が褒めてくれるまで、自分の顔が、声が、性格が。どれもこれも好きにはなれなくて、鏡も写真も大嫌いだった。東雲はメッセージの通知によって光った紅月のスマホに映る自分を見てそんなことを思った。もちろん今だって好きになれたわけではない。それでも、紅月にとってはいい物なのだと思うと、大嫌いよりはマシな思いに変わった。
昨夜、宝石に触れるよりも優しく丁寧な手つきでありながら容赦なく傷口を抉る東雲を、紅月は薄く笑いながら受け入れた。きっと彼女はもう覚えていないだろう。それだけ酷いことをしたのだ。
東雲は髪を梳くように撫でながら、寝息を立てている紅月を見つめる。
──愛して。
繰り返す度に掠れていった涙声。東雲から求めることで養父との行為を連想したのか、紅月は怯えるように瞳を揺らしていた。壊れてしまわないように、それでいて確実に傷を深くしていく。彼女を傷付けたのが間違いなく自分であるのだと。
歪んでいると思われるだろう。しかし、それ以外の方法を東雲は紅月から聞いていなかった。
女性との交際経験がほとんどなかった東雲は、交際経験の豊富な紅月に色々と教わっていた。彼女が好きなことを全て覚えると約束した。紅月はあまり素直ではないので、彼女が本当に好きなことを探るのは苦労した。そんな中で、酒に酔った彼女が漏らした言葉が今でも耳の奥に残っている。
『傷つけられたい。上書きして欲しいんだ、汚れきったおれを晴陽サンの色に染めて』
どうせ翌朝になれば忘れているのだ。東雲だって忘れてしまえばよかった。そんな自傷行為の一環に巻き込まれてあげる必要なんてなかった。
「空音サン、朝だよ」
揺すり起こすと彼女はパッチリと目を開けて、それから二度ゆっくり瞬いた。
「……おれ、いつ寝た?」
「日付が変わる前には寝てたよ。ビール呑みきらずに寝たからよっぽど疲れてたんじゃないかな。覚えてる?」
何があったのか、東雲の口からは言わない。彼女が混乱して自身を傷つけ始めるのを防ぐ意味もある。
「あー、全然覚えてない。もしかしてこたつで寝てたの運んでくれた? 重かったでしょ」
「全然軽い。もう少し脂肪つけてもいいんじゃない?」
嘘は言っていない。本当のことを言わずに避けているだけだ。紅月も深く追求したりしない。わざわざ自分から傷付きにくるのはやめてくれた。東雲はほっと息を吐く。まだ2ヶ月にもなっていない、短い付き合いだ。それでも紅月の生き方を少しばかり良い方向に変えられたことに安心した。
「そういえばもう少しで2ヶ月だね」
「ん? うん、そうだね」
そうだっけ? と言いたそうな紅月の声色に、東雲はくすりと笑う。記念日だなんて気にしない所がなんだか彼女らしく思えた。もしかしたら誕生日も覚えられていないんじゃないか、と東雲は少し不安になった。別に誕生日を祝ってほしいというわけではなく、そこまで興味がないのかと思うと少しゾッとするのだ。
「俺の誕生日って覚えてる?」
「え、何いきなり」
紅月は東雲のシャツを羽織っただけでベランダに出ようとしていた。寝起きの一服のためだろう。
「せめてもう少し暖かい格好してよ、空音サン」
見てる方が寒くなる、と苦情を込みで東雲が言うと、紅月は知ったことかと舌を出した。随分と生意気である。機嫌が良さそうだな、と胸を撫で下ろした東雲はジャンパーを持ってベランダに出た。肩にかけてやると大人しく腕を通したので、やはりシャツ一枚では寒かったらしい。
「で、誕生日だっけ。まだ半年先なのに欲しいものでも決まってんの?」
どうやらしっかり覚えているらしい、と安心したが、ふと違和感を覚えた。
「そういえば、どこで知ったの?」
東雲は紅月に誕生日を教えたことがないのだ。覚えているかどうか以前の問題であったことに気付くのと同時に何故彼女が教えてもいないはずの誕生日を知っているのか不思議に思った。
彼女はあまり他人に興味を持つような人ではないと感じる。自分自身のことにもあまり関心がなく、すぐに忘れてしまうような人だから仕方ないことかもしれない。人間観察も趣味だとは言うが、紅月が個人のことを意識することは稀だと思う。それは作業所メンバーの総意である。
紅月は人懐っこく明るく誰とでも話せるが、その実誰とも親しくない。そういう風に見られている人物だ。実際のところがどうであれ、だ。
「誕生日、カレンダーに書いてあったし。去年祝ってやったじゃん。ちび二人でアーチ作って」
今年度、作業所のカレンダーには利用者の誕生日に名前が書かれていたらしい。そんなことには全く気が付かなかった東雲は素直に感心する。紅月の言う通り、去年の誕生日は紅月と前園が揃って誕生日を祝ってアーチを作ってくれた。精一杯腕を伸ばしている二人の間を腰を屈めて通った記憶もある。そういうことは覚えているんだな、と思うと、紅月が他にどんなことを覚えているのか興味が出た。
「じゃあ、俺の好きな食べ物覚えてる?」
「えー、好きな食べ物? なんか言ってたっけ? あ、米が好きだって聞いた覚えあったような」
「そうそう、お米大好きだよ、俺」
はっきりと覚えているわけではなさそうで自信なさげだったが、それでも正解だ。東雲は嬉しくなって紅月を背後から抱き締めた。
「もちが食べられないんだっけか。あれ、なんで?」
米が好きなのにもちが嫌いって面白いね、と紅月が笑う。
「おもちはね。子供の頃に喉に詰まらせたことがあるんだ」
「あー、トラウマだ」
「そうかも」
紅月が質問してくれるのが嬉しい。知ろうとしてくれることが嬉しい。東雲は小さな体をかき抱く。
「一昨日だったかな。元彼から連絡きた」
このタイミングでそれ、言う?
東雲は衝撃で声が出せなくなった。1ヶ月ほどまともに連絡が取れなくなっていて、自然消滅かなと言っていた元恋人。10歳も年下だというけれど、公務員で安定した収入のあるしっかりした人だと噂程度に聞いていた。今となっては思い出せないが、紅月がうんとオシャレをして作業所に顔を出した時、一緒にいた人だった。わざわざ遠い所からも会いに来てくれるような、いい恋人だったという。
「……より、戻すの?」
連絡が来なくて、寂しくなって。紅月が東雲と付き合うのは、そういうことだった。遠距離恋愛が辛いから、と。
「考えてみたら、やっぱり好きなんだよね」
目の前が真っ暗になった。東雲はどんな言葉を言ったのか、はっきりと思い出せない。
ただ一つ思ったことは。
「やっぱり、俺じゃないんだね」
紅月を幸せにできるのは、ダメダメな俺なんかじゃない。東雲は紅月の幸せを願い身を引く覚悟をした。
「でも、わたしが愛されたいのは晴陽サンだけだよ」
全ての仮面を脱ぎ捨てたありのままの紅月だ。付き合いの短い東雲でも、そう感じとった。タバコをふかしながらそっと微笑んだ紅月には、普段感じる強さが見えない。庇護欲をそそられる消えてしまいそうな程に弱々しい彼女こそが本来の姿だと思えるのは、普段の強気な彼女であれば、心を病んでしまうほどの事態にはなっていないはずだからだ。
「自分のことをおれって言い始めたのは、中学校に入ってから。ほら、制服で登校するようになって、嫌でも自分は女なんだって思うようになっちゃって。男だったら、父に手を出されずに済んだのにって思うと、そういう振る舞いをするようになったんだ」
弱い心が壊れてしまわないように、幼い紅月が必死で作り上げた、男勝りで強気な人格。男友達とふざけあってはしゃぎ回って悪さをして。そうすることでしか鬱憤を晴らすことのできなかった彼女の、最後の仮面。
「ねェ、晴陽サン。わたしを愛してよ」
浮気だなんだと責める気にはなれなかった。身を引く覚悟もできていたのに、そんな風に縋られてしまっては。
「……ごめん。少し、考えさせて」
東雲はすぐに答えを出すことができなかった。
紅月は弱いのだ。守られなくては生きていけないのだ。食事を摂りたがらないのも、自らを傷つけるのも、薬を過剰に摂取するのも。死にたがっているわけではなかった。全身全霊で助けを求めているのだ。辛くて苦しいのだと素直に言えない彼女が周囲に気付いてもらうためにはそれしかなかったのだ。
果たしてそんなに脆く弱い彼女を支えるのが自分であっていいのか。
やはり、東雲では答えを出せそうになかった。
「よく、考えてみて」
紅月の選択に任せる。東雲は情けなくも思考することを放棄した。紅月は細く長く紫煙を吐き出しながら、どこか遠くを見つめていた。
「うん、わかった」
「空音サンが幸せになれるのが俺の望みだから」
それだけは、間違いなく伝えておきたかった。紅月は東雲の言葉に、それはそれは嬉しそうに笑った。とても30歳の大人の女性とは思えない、なんの含みもない、透明な笑顔だった。




