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二人の関係性を、或いは二人のことを。
異常だと断言する何者かは少なくないだろう。二人はそのことを充分に理解していた。
東雲の噛む力が徐々に強くなっていったせいか、紅月はぼんやりと目を覚ました。二人で病気について話し合うことになる。何故そうなったのかは、お互いよくわかっていない。ただ、なんとなく。そんな話をしたい気分だった。
東雲が抱えているのは双極性障害。躁状態と鬱状態を繰り返す病気である。その要因となったのはおそらく幼少期のいじめではないかと捉えていた。人によってはそんなことで、と切り捨てられるようなものだったかもしれない。それでも東雲にとっては辛い過去であり、死にたいとさえ思った。それでも、死ぬことができなかった。東雲は語る。紅月がビールの缶を傾けた。
「臆病だから、死ぬことさえできなかった」
命を軽んじるような言葉だったが、そのことに関して何かを言えるような立場では無いことを紅月は自覚していた。だから笑ってやった。
紅月はその時、自身の体を温めようと摩っていた。後遺症、という程のものではないかもしれない。いや、心的外傷後ストレス障害といえば立派な後遺症か。紅月は自嘲気味に笑いながら、東雲に言った。
「死のうとしたのに死ねなくて、後遺症が残るよりいいよ」
紅月は東雲とは違い、何度か自殺未遂をしている。それは傍から見ればただの事故でしかない。うまいことこれで死ねたらいい。そういうタイミングを狙っていた。
そんな彼女を襲ったのが、高校二年の終わりに起きた大震災だった。悲惨なものだった。町が津波に飲み込まれていくのを、紅月は中から見ていた。そう、彼女は死のうとしていた。家族まで巻き込み、震災によって亡くなったのだと、そういうことにしようとしたのだ。
「失敗したけどね」
紅月の家は家族仲がいいように思われる。週末になれば家族と出かけたり、友達に遊びに誘われたとしても家族を優先してきたからだ。実際はそうではなかった。
紅月が抱えているのは統合失調症。考えや行動などがまとめられなくなってしまう病気である。その要因となったのは恐らく、養父からの性的虐待ではないかと捉えている。紅月が家族をも巻き込んでまで死を選ぼうとしたのは、きっとその養父のせいでもあるのではないだろうか。都合よく忘れてしまった紅月にも答えは出せないでいる。
「空音サン、一服しよう」
タバコの箱を差し出し、東雲が言った。紅月はふらりと立ち上がって先にベランダに出る。外気はひんやりとしているが、アルコールで火照った身体には心地よかった。
「恨んでる?」
「どうかな。わたしにはわからないよ」
いつものように、紅月がおれと言わないこと。それだけで、何かが違って思えた。
「有り得ないことだよ」
「普通なら、ね」
トゲのある口調だった。東雲はそれ以上何も言わずにただ火を差し出した。ぼんやりとしている紅月は、もしかしたら何の鎧も纏わない無防備な彼女自身なのかもしれない。東雲は紅月の髪を撫でながらそう思った。そして、それは間違いではなかった。
紅月は過去の経験から自分が女性であることに忌避感情を抱いている面がある。男として生きたいわけではなく、ただ女性であることが嫌なだけ。そのため、粗野な言動がちょうど良かった。
「わたしだって、素でいられるならそれが一番いいよ」
疲れとアルコールのダブルパンチに仮面を剥がれた紅月が弱々しくそう呟く。火が危なくないように気をつけながら、東雲は紅月の体を抱き締めた。一瞬、警戒するように体が竦んだが、すぐに緊張が解ける。
「眠い?」
「んふ、ごめん。ちょとつかぇてぅ」
紫煙を踊らせて遊ぶ紅月はぽやぽやとしていて、言葉も呂律が回らないといった様子だった。左手首を掴んでタバコを取り上げて揉み消し、小さな体を抱き上げる。くったりとしているわりには軽く感じた。紅月はどうやらベッドが苦手らしく、アパートにはベッドが置いていない。一旦ソファに寝かせておいて布団を敷く。シーツをかけて紅月を寝せてタオルケットと毛布をかけると、彼女はころりと転がってくるまった。布団をかけてあげるとすやすやと寝息を立て始める。
「どこで寝ようかな」
恐らく紅月はまた少ししたら目を覚ますだろう。その時にでも聞けばいいかとこたつに戻る。鶏皮せんべいをつまみ、紅月の呑んでいたビールを一口呑んでみる。温くなっている上に苦くて美味しくない。卵焼きで口直しをしているうちにパックのご飯の存在を思い出す。確か何個か残っていたはずだ。
紅月はビールのつまみにと思ったのだろうが、鶏皮せんべいも充分にご飯のおかずになる。卵焼きと鶏皮せんべいをおかずにパックご飯を二つ食べた頃、紅月が目を覚ました。
「晴陽サンどこで寝る? 一緒に寝る?」
「じゃあ、一緒に寝ようかな」
紅月の布団はシングルサイズではなかった。寝相が悪いからシングルだと布団から出ちゃうんだと笑っていたことがある。二人でだって充分寝られるのだから迷うことは無い。前園用の布団を使わせてもらうのは気が引けるし、こたつで寝るわけにも寝かせるわけにもいかないので迷いはなかった。
紅月は顔から火が出そうなほど赤くなっていた。一瞬のことだったが。
「きょ、は、シャワーで、がまんして」
また紅月がむにゃむにゃと言うので、東雲が先にシャワーを浴びることにした。その後に紅月がシャワーを浴びて、こたつの電源を切って二人で布団に入り、電気を消して横になった。小さな体を更に小さく丸めている紅月を背中から抱き締め、胸の辺りをリズム良くたたいてあげた。すると最初は緊張していた紅月がすぐに寝息を立て始める。
紅月の髪から香る花の香りを楽しみながらぼんやりと考え事をする。
一緒に寝ようと言った時、彼女は素直に照れてみせた。そういうことになるとは思わなかったのだろうか。嬉しいような悲しいような複雑な気分である。
初めてのデートであれだけ煽ってきて、更に今日は直接的に求めてきたというのに、無防備すぎる。
それとも。
「それが狙いなのかな」
ぽつりと漏らした言葉に返事は無い。反応もなかった。信頼されていると前向きに考え、うなじにキスをする。
「くりーむ、ぱん……」
どんな夢を見ているのか、紅月はパンの名前を挙げながら布団を食べようとしていた。なんだか観察していると面白くなって、緊張も相俟って寝付けない。東雲は紅月の左手をとってまた薬指を甘噛みした。そして、むにゃむにゃと動いている唇を撫でる。
「いただきます」
噛み付くように口付けると、紅月はびっくりしたように目を開いた。しかし、すぐに目を閉じて受け入れる。背中に手が回り、キツく抱き締められながら、東雲は拙いキスを繰り返す。その内に反応がなくなってくるとやめて目を閉じた。なんだか、よく眠れそうな気がした。
翌朝、忘れた荷物を取りに来たらしい前園の声で目を覚ました東雲は隣に紅月がいないのを少し残念に思った。
「へー、一緒に寝たんですねー、へー」
にまにまとしている前園だが、残念ながら彼女が想像しているようなことは何もしていない。肩を竦めてみせた東雲に、歯磨きをしていた紅月が爆弾を投下した。
「一緒に寝てるとこ写真に撮られてるよ」
「嘘でしょ!?」
「残念ながらホントです」
オーバーリアクションをした東雲に前園が証拠の写真を見せつける。なんとも微笑ましい写真だった。特に紅月の寝顔が可愛らしくていい。そんなことを思いながら写真を見つめていると、紅月が冷蔵庫を開けた。
「結局ピザもチキンも頼むの忘れてたよね。カツ丼するからちょっと待ってて」
「え、うちのは!?」
「あるわけねーだろ森へ帰れ」
しっしっ、と前園を追い払った紅月が玉ねぎをスライスし始めた。ご飯が炊ける音がして、それから作り始める。親子丼と同じたれで玉ねぎを煮込みながら丼によそったご飯に食べやすい大きさに切ったカツを乗せる。卵を溶いて回し入れ、固まってきたところを掬ってカツの上からかけていく。ミツバを乗せたらもう完成だ。
「こんなに簡単に出来るんだ」
「カツは作り置きだからね。ほら、アズ。持ってって食べな」
いつか前園が紅月のことをツンデレと言っていたのがなんとなくわかった。しっかり用意していてあげるあたり流石だ。それをわかっていて待ってる前園も相当のやり手だが。東雲は熱々のカツ丼にがっつくのだった。




