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BiteRing  作者: 月神奏空
1章 バイト・リング
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 何も、初めから彼に好印象を抱いていたわけではない。興味と呼ぶべきものすらもなかったかもしれない。

 それでも、何度か顔を合わせている内に視界に入れば気になるようになった。

 見上げるように首を伸ばさなければ見えない彼の瞳を一度でいいから拝んでやろうと。そう思って観察するようにもなった。

 どうやら自分と同じで漫画やアニメを好んで見るらしいことは話を盗み聞きして得た情報。その割には白髪混じりのくすんだ赤毛は老けて見えるな、などと正直に言ってあまり褒められたものではない感想を抱きながら、十数分立ち尽くしていた紅月(あかつき)空音(そらの)はついに動いた。

「そこの弁当、取ってもらっていいですか」

 「あ、これですか?」

 こくりと頷いた紅月に、彼は嫌な顔一つせずに軽い弁当袋を取って手渡した。

 紅月は学生時代からうんと小さかった。前ならえ、の号令がかかると、自身が基準であるというように腰の横に手を当てる。背の低い順に並ぶ時、彼女はいつもそうしてしたのだ。

 そんな彼女が腕をいっぱいに伸ばしてようやく置いたロッカーの上。ちょっとでも元の位置から動いてしまえばもう自力で取ることはできない。椅子か踏み台でも、と考えたが、極度の高所恐怖症がどう作用するかわからないのでそれらを使うのは怖かった。万が一怪我をしても大変だし、と背が高い人が通りかかるのを待っていた。

「もしかして、ここで10分も待ってて……いや、さすがに……すみません……」

 はっと時計を見てそう言ったのは東雲(しののめ)晴陽(はるひ)。紅月が最近観察している()だ。

 決して睨みつけたりしたわけではない。紅月はただ、黙って見つめて東雲の言葉を聞いていただけだったのだが、何を勘違いしたのか東雲はバツが悪そうに押し黙った。

「12分ですよ。おれ(・・)、終わるの早かったんで」

 いい歳をして言葉遣いもなっていない、などと近所のおばさんにとやかく言われてから気を付けるようにしていた紅月だったが、思わず一人称を変え忘れてしまった。気にするほどでもない失敗を誤魔化すためにと紅月が苦笑いをすれば、東雲も薄く笑みを浮かべた。

 愛想笑いというほどにはわざとらしくなく、それでいて本心からの笑みとは言えないような、ぎこちない笑顔。

 笑うのが下手だな、とまじまじと観察しながら紅月はお弁当(・・・)を頬張った。

 「ご飯、それだけですか? 随分軽いと思ったら……」

 紅月が口にしているのはブロック状に固められたバランス栄養食だ。3回ほど咀嚼してカフェオレで飲み下し、弁当袋の中に空袋を入れて口を縛った。

 「少しでも食べてりゃ職員さんも許してくれますもん」

 紅月と東雲が働くのは一般企業とは異なり、就労支援事業所という障がい者向けのサービスだ。職員さんというのは上司にあたるような人達で、指導や介助をしてくれる存在である。

 あまりにも不健康な食生活を注意されたことがないわけではないのだが、紅月が元々昼食をとる習慣がなかったこと、家ではきちんと食事をしていることを何度も伝えたために今では黙認されている。ほぼ同居状態の親友のフォローのおかげでもあるだろう。

「職員さんにも言い出せなくて。ほんと助かりました。ありがとうございます」

 投げるようにロッカーの上に袋を戻しながら紅月は感謝を告げた。

 職員さんもけして小柄な人ばかりでは無い。しかし場所が場所だけにとってもらうのも申し訳ない思いだった。平均以上に身長の高い彼なら気軽に頼める。

 あと3分も待つことになっていたら、紅月は弁当を諦めて早々にタバコを吸いに外に出ていたことだろう。さすがにそれは職員さんに注意されてしまうので避けたいところだった。

「置き場所を変えたらどうですか?」

「別に困ってないんで」

「まさに今困ってましたよね?」

 困っていない、困っていた、と不毛なやり取りを数度繰り返し、二人で笑い合った。ふつりと黙って頭を下げて挨拶をしたところで東雲が職員さんに声をかけられる。紅月はタバコとスマホの入ったポーチを抱えてスリッパを脱いで持ち上げる。顔を上げた時、思いの外東雲の顔が近くにあった。急に黙り込んだことを不審に思ったのか、顔を覗き込もうとしていたのだ。紅月は弾かれたように二歩下がり、ロッカーに差さりっぱなしになっていた鍵の一つに背骨を打ち付けて低く呻く。

 紅月は感じたばかりのそれを表現出来なかった。恐怖とも歓喜とも悲哀ともよく似ていて、しかしそれらとは全く異なるようなもの。やけに心臓が高鳴り、呼吸すらままならなくなるようなその感覚をなんと呼ぶべきなのか、思いつかない。

 未知の感覚に怯えさえ感じ、なんとか名前を付けようと足掻く内に休憩時間は終わってしまう。火をつけ忘れていたタバコを箱に戻して事務所の中へと戻る。

 午後の作業時間、思った以上に何も手につかず、ぼんやりと考え事をしていた。

 紅月は異性の声に一番魅力を感じるという声フェチ(・・・・)なのだが、最も好きなのは中音域の声だ。話し方が気だるげで少しこもりがちだとなお良い。東雲はまさしくそういう話し方だった。そんなことを考えながら、三角形のパーツを量産していた紅月は、水分補給の時間を告げられてハッとした。そして同時に天啓のようにその言葉が降りてきたのだ。

「恋、だ」

 音にすればなんと単純なことか。パズルの残り1ピースがかちりとハマったような爽快感。

 学生時代のかわいい後輩たちも既に結婚したり子供がいたりと少々の焦りを覚え始めていた30歳の夏。

 紅月は初恋を知った。

 とはいえ、どうしたものか。

 紅月は欠伸をしながら考える。

 あの人はその人が好きで、その人はこの人が。この人はあの人のことが好き。

 恋など知らなかった紅月には複雑すぎたその関係のせいで、社会人一年目の秋にアルバイトをやめることになったことを思い出した。社内恋愛なんて面倒なものはごめんだ。そう思っていたのにな、と。コップを洗いながら紅月はため息を吐いた。


 1ヶ月ほど前、紅月は親友の前園(まえぞの)(あずさ)に酷いことを言ってしまった。


『付き合うとか別れるとかで作業効率悪くなったらどうすんだよ』

『おれに迷惑かけんなよ、冗談じゃねえ』

『なんでもいいけど、普段と少しでも変わるなら反対だよ』


 自分の声が頭の中で反響する。蹲った紅月の脳裏に、前園の泣き顔が浮かんだ。


『うちはソラじゃないんだよ。何も感じないソラとは違うの』


 自分の言葉を後悔する暇もなく告げられた言葉。今でも胸の奥に残った棘。チクチクと痛みだし、呼吸が浅く速くなっていく。

「   」

 言葉は音にならなかった。それでも、側に寄ってきた前園が拾ってくれた。

「大丈夫。大丈夫だよ、ソラ。ゆっくり話して」

 優しく抱きしめられ、紅月は盛大に泣きじゃくった。漸くしてから落ち着いて、好きな人が出来てしまったのだと微かな声で告げた。前園の表情を見るのが怖くて俯いていたが、その顔は彼女によって上げられる。

「よかったじゃん! 相手は誰?」

 前園はまるで自分の事のように喜びはしゃいでみせた。

「ねえ、教えてよ。うちら親友でしょ?」

 などと言ってくるズルい前園に、紅月は「優しい人だよ」とだけ答えておいた。


 例えば、紅月か東雲のどちらか、あるいは両者が普通(・・)であったなら。告白なんかして、幸せになりましょうと将来を誓い合ったりするのもいいかもしれなかった。

 例えば街で偶然出会っただけの関係だったなら。ちょっと食事にでも行きませんかと声をかけられたかもしれない。

 例えばの話。

 そう、例えば。


 そうやって考えることで、紅月は少し落ち着こうとしていた。ありもしないことを想定して、そこに当てはまらないのをいいことに諦めという名のゴールを目指していくのだ。

 前園は『うちはソラじゃない』などと言っていたが、何も感じないでいることなど紅月にだって出来やしない。現にこうして胸の高鳴りを抑えるのに必死になっているのだ。

 作業だって出来ていると言っていいのやら。ひたすらに作り上げた三角形のパーツを組み上げながら、いっそのこと嫌いになってしまえば話は早いはずだと東雲の嫌なところを探し出すことにした。


 結論から言うと、無駄な努力だった。


 嫌なところを探そうと思って観察していれば、どうしても大好きな声とぎこちない笑顔に胸を貫かれてしまう。

 観察し続けて1週間、1ヶ月、半年が過ぎ、あっという間にそろそろ1年というところ。

 冬の寒さを乗り越えた想いは、猛暑と共に更に熱を上げ、2度目の冬に差し掛かる頃、爆発した。

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