大和、最後の出撃の陰で
5日1403、GF電令作第605号
「1YB指揮官は31Sの駆逐艦約4隻をもって掃蕩隊を編成し九州南方海面まで、海上特攻隊の対空対潜警戒に任ぜしむべし」
※1YB 第一遊撃部隊(第二艦隊 2F )31S 31戦隊
6日0827 発GF参謀長、宛2F長官
出撃時機は貴要望通りとせられたるも燃料について大本営戦争指導部の要求に基づくGF機密051446番電通り2000屯以下とせられたし。
右に関連し、掃蕩部隊の兵力並びに行動は当初予定通りとされたい。
昭和20年(1945年)4月5日
第31戦隊旗艦 花月
花月は大和に接舷し燃料積載を開始していた。
そこに大和より追加の重油積載の命令が入った。
「明日朝徳山で重油500トンを積み大和に積めか、今積んでいる分では足りないのか?もう3千トン位積んでるはずだが?」
「沖縄まで全速で航海してそこで浮砲台をするんですからね、重油がなきゃボイラーも焚けないしそうなると砲一つまともに撃てませんよ、手動でやれる大きさじゃないですからね」
「今時人力で動かせるのはちっこい船だけですよ。この花月だって主砲は人力では無理です」
31戦隊旗艦を務める花月の艦橋ではこのようなやり取りが行われていた。
「では燃料積載が終わり次第徳山へ戻り追加の重油を貰ってくるか」
そう話し合って居た所へ大和より兵学校候補生たちを退艦させるので徳山まで便乗させるようにとの命令が入る。艦長を務める東中佐は水雷長に航海当番配置に付けを命じ采配を委ねた。
だが問題が起きた。燃料搭載で横付けしているだけの花月と大和の間には人の移動手段が無かったのであった。水雷長は考えた挙句搭載していた青竹を数本束にして両者の間に渡すこととした。
20時を過ぎても候補生は降りてこなかった。花月側はどうしたのかと思っていたが大和側では「酒保開け」で別れの宴が行われていたのであった。
連日の勤務で当番兵が疲労の極にあると感じた航海長は通信士らを艦長休憩室で仮眠するように命じた。
そこに手持無沙汰であったのか戦隊司令官を務める鶴岡信道少将が艦橋に上がってきた。司令官は航海長を話し相手と定めて本日大和で行われた会議の話を教えた。もしかしたら関係者が全て海の藻屑になっても後世に伝えてくれることを願ってかもしれなかった。
「きょうの軍議は駆逐艦の艦長たちはこの作戦には皆反対だったよ。この作戦の成功の確率はゼロだと言うんだ。自分もそう思う。艦長たちは命を惜しんで反対したのではない。不合理な戦闘のやり方は海軍の戦いではない。何千人もの若者をなぜ大和一隻の『名誉の沈没』のために連れて行かねばならないと言う艦長までいた。それにしてもGFの神参謀にも困ったものだ。昨年6月のサイパン陥落後、戦艦扶桑・山城をサイパン島に乗り上げてさせて陸上砲台にすると本気で考えて各方面を口説いて回ったが我がクラスの中沢君(中沢佑少将、軍令部第一部長)に成功の算の無いことを論破されてやっと引っ込めた。だが、今度は大和を陸上砲台にするだ。合理的な作戦ではないから一億総特攻のさきがけという精神論で遂に自説を貫いた。こういうのを作戦の外道というのだ。良く覚えておくがいい」
そう言うと、艦橋を見まわしてこう告げた。
「明日は早いし、出撃時は31Sは豊後水道を先頭を切って行かねばならん。君も少し休んで置いた方が良い」
そう言って司令官は下に降りて行った。
4月6日0200 候補生全員上甲板に整列。能村副長、清水少佐、臼淵大尉、当直将校、甲板士官の見送りを受け、横付け中の花月機銃甲板へ大和上甲板へ渡した青竹を伝い移乗、矢矧の候補生は内火艇で移乗した。
花月は0600に抜描し、徳山へ回航、0724に燃料岸壁に着岸、候補生を降ろして0800から燃料を積載し始めた。その量は500トン、燃料敞のタンクの底に溜まったいわゆる簿外燃料をさらって集めた物である。
積み込みは1140まで掛かった。その間航海長らはつかのまの休息を取り、1235に出港した。
徳山は桜が咲き誇り山々の緑に映えていた。別れを告げるように花月は徳山湾を出て大和と合流した。
湾口に停泊している大和に近づいた花月が油の移載の指示を仰ぐと「重油の移載は取りやめ、花月は所定の位置に占位せよ」との指示が返ってきた。
只事ではないと艦長は通信長を兼任している航海長へ暗号室に通信士を走らせて電報を調べさせた。
そこでGFから第二艦隊宛に不可解な電文が来ているのを知った。
~6日0827 発GF参謀長、宛2F長官
出撃時機は貴要望通りとせられたるも燃料について大本営戦争指導部の要求に基づくGF機密051446番電通り2000屯以下とせられたし。
右に関連し、掃蕩部隊の兵力並びに行動は当初予定通りとされたい。~
「2F全体で2千トン?ふざけて居るのか!それでは沖縄に着くまでに燃料切れで動けなくなるだろうが!」
東艦長が怒鳴るのも無理はないことであった。鶴岡司令官も渋面であったが一言だけぽつりと。
「既に積んでしまっている分は降ろしようが無いからな、さっさと積んだ2Fの作戦勝ちだな」
この言葉に溜飲を下げる面々であった。
この時の艦隊編成は以下の通りであった。
第二艦隊 旗艦 大和
第二水雷戦隊 旗艦 矢矧
41駆逐隊 冬月
涼月
17駆逐隊 磯風
浜風
雪風
21駆逐隊 朝霜
霞
初霜
掃蕩隊
31戦隊 旗艦 花月
43駆逐隊 榧
槇
歴戦の艦が集結し艦長や司令官も大戦を生き延びたベテランが揃っていたが航海士等の本来中堅が務める士官には兵学校を出てまだ2年程の中尉が務めるなど人材不足も現れており精鋭と謡われた2水戦も昔日の面影はもうなかった。
大和では伊藤司令長官が森下信衛参謀長と最後の打ち合わせをしていた。
「対潜掃蕩隊を早期に還すのは却下されたか。残念だな、士官候補生や傷病兵・老年兵などもう大和の為に巻き添えにされるのは我々だけで十分なのにな」
「九州沖に入ったら早々に引き上げさせましょう。豊後水道を出れば敵の勢力下なのでそれまでにとは思いましたが止むをえません」
「息子も特攻で何も良い事は無い(伊藤長官の子息叡は第五航空艦隊で戦闘機搭乗員4月28日に特攻で戦死)せめて同年代の者たちを救えればと思ったが」
「昨日花月の東艦長に遺品を届けてくれるように頼みましたがこうなるとは思いませんでした。東は乗艦が沈んでも2度も生還した男なので悪運だけは強そうですが果たして……」
「鶴岡司令官の強運に期待だな」
「確かに」
鶴岡司令官の強運とは戦艦扶桑着任日に同期の陸奥艦長の訪問を受け昼食を共にした後夕食は陸奥で取ろうと約束したその午後に陸奥は爆沈した。更にその扶桑から異動した直後にレイテ沖海戦が起き扶桑は撃沈されてしまった。それらを回避した鶴岡司令官は強運の持ち主と呼ばれたが本人は「運だけで武運には見放されている」と嘆いていた。
「問題は43駆逐隊だな。松型は航続距離が短い。燃料切れで帰れ無くならねば良いが」
「礼号作戦の時にもギリギリでしたからな、あの艦の泣き所です、43戦隊の司令は綾波艦長だった作間です。うまく切り抜けてくれることを信じるのみです」
「そうだな」
6日1430 出港各艦一斉に抜描し予定順序通りに豊後水道へ向かう。そのまま第一警戒序列を取り豊後水道に入る。1700頃に敵潜水艦発見の報を受け掃蕩隊は護衛に来ていた海防艦らと攻撃を行う。翌7日0600に大隅半島を通過し艦隊は第三警戒序列(輪形陣)を取る。
外洋に出たため大和では掃蕩隊の任務は終わりと判断し帰還命令を出そうとしていた。
「幸いなことに敵の攻撃は無かった。無事に帰してやれそうだな」
伊藤長官の言葉に有賀艦長が微笑む。その雰囲気は見張りからの連絡で粉々に砕かれた。
「朝霜落伍」である。
朝霜は異常な黒煙を吐きながら艦隊から遅れ始めていた。機関の故障は明らかであった。
31戦隊旗艦 花月
「大和より信号、掃蕩隊は朝霜を護衛しそのまま帰還せよ、以上です」
「航海長、面舵一杯、反転し朝霜に向かうぞ」
「復唱、面舵一杯!速度そのまま」
「43駆逐隊に連絡! {我に続け}だ」
「信号発信します! {我に続け}」
反転し朝霜に向かった31戦隊であったが朝霜に座乗していた21駆逐隊司令の小滝大佐と朝霜艦長の杉原少佐が反転帰還することに反対し、修理して艦隊の後を追いたいと大和に訴えていた。その説得に時間が掛かったがようやく反転した。1200過ぎにレーダーが敵航空機の編隊を捉え各艦は「合戦備え」を下名して準備を整えた。
「敵は大和に向かい此方には来ないかも」という希望は此方に向かってくる一群が発見されたことで潰えた。
空母バンカー・ヒルから発進したヘルダイバー10機が襲来してきた。
「朝霜に近づけさすな! 撃ちまくれ!」
花月は搭載している九八式十糎高角砲を発射して敵機を牽制し、松型の2隻は周りを煙幕を張って援護を行ったが十分な速度の出せない朝霜に爆弾が命中していく。
「朝霜艦後部で爆発! 沈みます!」
僅か数分の事であったが戦闘は終わった。
敵の引きあげた隙に花月と榧と槇は朝霜の乗員の救助を行った。
その間に大和へは第二派の攻撃が始まっていたが此方に敵機のくる様子は無かった。雲が低空にまで広がり此方を視認できなかったようであった。対空戦闘にとって邪魔であった雲が今度は彼らを助けていた。
「生存者の救助は終了しました、隊指令も艦長も無事です」
「そうか、では帰還する」
「よろしいのですか?大和は未だ戦っております」
「我々の受けた命令は朝霜を連れて帰れという事だ、朝霜は救えなかったが多くの乗員を助け上げた。彼らを生きて連れて帰るのも立派な使命だ」
こうして花月は帰投する事となった。途中燃料不足となった松型の2隻に大和に積むはずだった燃料を分け与えて31戦隊は無事に柳井沖の泊地迄帰投した。
帰投途中で大和が沈んだことを無線で知り朝霜の乗員たちは一緒に戦えなかった事で泣いた者も居たと言う。
朝霜の乗員は戦死34名 負傷38名 生存者292名
31戦隊の被害は 花月 戦死3名 負傷者25名
榧 負傷者3名
槇 負傷者無し
大和以下第二艦隊は坊ノ岬沖で大和以下5隻が沈没、冬月以下4隻が佐世保に生還した。
生き残りの艦は損傷の大きな涼月を除き31戦隊に合流した。
歴史改変部分は電文のこの部分を変えただけです。
改変前
6日0827 発GF参謀長、宛2F長官
出撃兵力及び出撃時機は貴要望通りとせられたるも燃料について大本営戦争指導部の要求に基づくGF機密051446番電通り2000屯以下とせられたし。
右に関連し、掃蕩部隊の兵力並びに行動は機宜制限されたし。
改変後
6日0827 発GF参謀長、宛2F長官
出撃時機は貴要望通りとせられたるも燃料について大本営戦争指導部の要求に基づくGF機密051446番電通り2000屯以下とせられたし。
右に関連し、掃蕩部隊の兵力並びに行動は当初予定通りとされたい。
つまり2F(第二艦隊)は31Sを当初の作戦の通りに九州沖までの護衛を変更して早めに帰らせたいとGF(連合艦隊)に要望したのを史実では認めていたのをIFでは却下した形にしただけです。
それがちょうど朝霜の故障にかちあって朝霜乗員の生還に結び付いた。
ささやかですが歴史が変わったところです。




