在りし日の母と受け止める姉
俺は6歳で幸せを失った。
父が亡くなり、弟あるいは妹は産まれてくる事すらできず、母は病んだ。
7歳の誕生日は母に祝ってもらえなかった。
母は無機質な病室でいつも静かに外を眺めていた。
たまにニヤニヤと笑ったり、ぶつぶつと呟いたりしていた。
思い出したように突然泣き出す事もあった。
急に無言で自らのお腹を叩き続ける事もあった。
酷い時は顔を掻き毟って唸り声を上げたりした。
そんな母を見ても、俺は怖がる事も嫌う事もなかった。
母は俺が守る。
ただそれだけがいつも心にあった。
極稀に正気を取り戻す日もあった。
テストで良い点数を取って褒められた。
もっと頑張ってもっと良い点数を取ろうと思った。
貰い物のクッキーを一緒に食べて美味しいねって言った。
俺がもっと美味しいお菓子を作って母に食べさせてあげようと思った。
母を守る為に空手を習った。
近くの道場で週に数回の鍛錬。
特殊な家庭環境の俺はほぼ全ての費用を免除された。
知り合いの子に一緒にやらないかと誘われたのがきっかけだった。
これで母を守れるようになる、と子供心に考えていた。
いま思えばそんな力が役に立つ事などほとんどないのだが、当時の俺は必死だった。
強くなりたかった。
身も心も、強く。
母を安心させてあげたかった。
空手ではあっという間に同年代を追い越し、上の人達と一緒に練習するようになった。
大会でも結果を残し、母が褒めてくれないかと毎回期待した。
一度だけ、母が正気に戻った時にテレビで俺の試合を見てくれた事があった。
危ない事をしないで、と怒られてしまった。
褒められはしなかったが、俺は嬉しかった。
母が心配してくれている事が、何よりも嬉しかった。
俺は強くなりたい。
母は傷ついて欲しくない。
なら傷つかないくらい強くなれば良い。
あの頃の俺は本当に単純だった。
勉強も頑張った。
中学に上がってからも成績は常に上位をキープした。
先生からの覚えも悪くなかった。
俺は問題を起こすような生徒ではなかった。
学校での出来事に関心などありはしなかった。
料理もできるようになった。
お菓子作りも得意になった。
孤児院の大人に頼んで教えてもらった。
折角作ってもあまり母は食べられなかったけれど。
一口だけでも食べてくれた時は、自分が認められたような気がしていた。
中学生になってからは新聞配達のアルバイトを始めた。
きちんとした手続きを踏めば許可は出た。
走り込みを兼ねて自転車を使わず配達して回った。
何をするにしても俺は頑張りたかった。
苦労したかった。
母は常に苦しんでいたから。
苦しめば苦しむほど、母に近付けるような気がしていた。
中学三年生の冬。
粉雪が街を白く染め、冷たい風が意思を持った刃のように肌を痛めつけていた。
特待生として高校への推薦入学が決定していた俺は、自由登校なのに受験勉強の為に足繁く学校に通う同級生達を尻目に、病院に通っていた。
憔悴した精神は、母の身体をも蝕んでいた。
いくつもの病気を併発しており、患者に生きる意志がない以上手の打ちようはないと言われていた。
俺は怒らなかった。
母が、死を望んでいるような気がしていたから。
だからその時は一緒に死のうと思っていた。
母がいなくなれば生きている意味もないと、本気でそう考えていたのだ。
そしてその日、病室の扉を開け、いつものように静かに外を眺めている母を見た瞬間に。
あぁ、今日なんだな……と感じた。
理由はなかった。
ただの直感だった。
しかし事実でもあった。
その日、母は眠るように息を引き取ったのだから。
ただ一つ誤算があった。
それは、旅立つ前に母が正気に戻り、俺に別れを告げた事であった。
「ごめんね、吾郎。」
母はそう言った。
思わず固唾を飲んでしまう。
「な、何だよ突然。」
身体が震える。
「何を……謝ってるんだよ。意味、わかんねぇよ。」
視界が滲む。
「そうだ、俺……高校決まったよ。前にも報告したけど、たぶん聞こえてなかっただろうから。」
前が見えない。
「それから、今度また空手の大会があるんだ。全日本の全国大会。師範達も期待してくれてる。俺、絶対勝つよ。」
母が見えない。
「それから、本屋で旨そうなケーキがいっぱい載ってるレシピ本見つけてさ。作ったことないやついっぱい載ってたから思わず買っちまったよ。今度作ってくるからさ。食べてくれると……嬉しいな。」
覚悟してたはずだ。
「そ、それから……高校入ったら、亜夜姉ぇのところでバイトさせてもらえるかもしれないんだ。今度ケーキとかクッキーとか色々作って食べてもらってさ。上手くいけばあの喫茶店でバイトできる。新聞配達より給料は良いし……そうだ、そしたら母さんに服でも買ってきてやるよ。たまにはオシャレも良いもんだぜ?」
わかってたはずだ。
「それから…それから……こ、ここに来る途中で、近所の犬に吠えられちまってさ。母さん、犬好きだったろ?いつかさ、二人で暮らせるようになったら犬買おうぜ。俺も頑張って世話するからさ。」
なんで……なんで涙が止まらねぇんだよっ…!!
「あ、あと……あと…な……えっと…その………」
「ありがとう、吾郎。」
母は優しく微笑んだ。
俺の好きな笑顔で、俺の好きで手つきで、俺の頭を優しく撫でてくれた。
「いっぱい会いに来てくれてありがとう。いっぱいお話ししてくれてありがとう。いっぱい頑張ってくれてありがとう。いっぱいいっぱい……一緒にいてくれて、ありがとね。」
母は泣いていた。
笑いながら、泣いていた。
俺も涙が止まらなかった。
「なに……言ってんだよっ!当たり前じゃんか!もっと会いに来る!もっと喋る!もっと頑張るから!もっともっと一緒にいるから!だからっ…!」
母は俺の言葉を遮るように俺の頬に手をやった。
冷え切った母の掌が心地良くて、この期に及んで母に甘えたがる自分が心底嫌になった。
「吾郎。」
もっと名前呼んでくれよ。
「受験合格おめでとう。あなたはやっぱり頭の良い子ね。高校ではもっと自分の為に時間を使ってちょうだい。」
もっと褒めてくれよ。
「空手の大会頑張ってね。応援してるわ。……でも、お願いだから大きな怪我はしないでね。」
もっと心配してくれよ。
「この間、吾郎が作ってくれたロールケーキ、とっても美味しかったわ。もっと美味しいお菓子作って、色んな人を笑顔にしてあげてね。」
いつも誰の為に作ってると思ってんだよ。
母さんが食べてくれないなら意味ないんだよ。
「亜夜ちゃんのこともお願いね。あの子、強がってるように見えるけど、とても繊細な子だから。吾郎ならきっと、亜夜ちゃんの支えになれるわ。」
何で息子に友達のことお願いしてるんだよ。
普通逆だろ。
もっと俺の面倒見てくれよ。
「それと、犬は駄目よ。吾郎は犬アレルギーだから。幼稚園で犬と遊んで大変だったの忘れたの?」
何で……何でそんな昔のこと覚えてんだよ。
「そんな事、よく覚えてたな。」
嗚咽を堪えつつ何とか口にする。
「あら、忘れるはずないでしょ。愛する息子の事なんだから。」
なんでもないことのように母は言った。
その言葉に、その笑顔に、その優しさに。
どうしようもなく……救われた気がした。
「……だからね。」
母寂しげに笑う。
「吾郎は、まだ来ちゃ駄目よ。愛する息子がすぐに死んじゃったりしたら、母さんいっぱい泣いちゃうから。」
何だよそれ。
ずるい……ずるいよっ………
そんな事……言われたら………
「母さん…っ……母さん………うっ……うぁ………うわぁぁぁぁぁ」
「ふふっ……吾郎ったら…いつまで経っても泣き虫なんだから。」
母は、俺が泣き止むまで、ずっと頭を撫でてくれていた。
翌日、母は目覚めなかった。
雨が降りしきる中、幼い頃に母とよく来た公園で、俺は傘も差さずに座り込んでいた。
昨日は雪だったのに今日は雨だった。
神様が、母の為に泣いてくれているのだろうか。
らしくもない考えに鼻を鳴らす。
自分で考え自分で嘲笑うなんて、生産性の欠片もない。
ふと雨が当たらなくなった。
いや、誰かに傘を差されたのだ。
機械的に後ろを振り向く。
「こんな所にいやがったか。風邪引くぞ馬鹿。」
「……亜夜姉ぇ」
乱暴な口調の割に表情から怒りは読み取れない。
むしろ俺のことをただ心配しているような瞳だった。
よく見れば目が充血している。
目の下も赤い。
彼女も友の死に涙してくれたのだろう。
「とりあえずうちに来い。ずっとここにいるつもりもねぇんだろ?」
「でも……」
「良いから来い。孤児院にはアタシから連絡しておく。」
問答無用とばかりに連行される。
抵抗するつもりも気力もありはしなかった。
「とりあえず風呂入ってこい。もう沸かしてるから。着替えは……適当にジャージとかで良いだろ。」
「でも……」
「でもじゃねぇ!とにかく入ってこい。まじで風邪引くぞ。」
ポイポイと服を脱がされ浴槽に叩き落とされた。
暖かい湯が寒さで凝り固まった身体を優しく解してくれているような気がした。
風呂から上がった俺は用意されていた服を着た。
わざわざコンビニで下着まで買ってきてくれたようだ。
どうやら亜夜姉ぇは部屋にいるようだ。
部屋の扉をノックすると、入ってこいと命令された。
部屋に入ると亜夜姉ぇはベッドの上で胡座をかいてこちらを見ていた。
服装が変わっている。
大きなTシャツを着ているが、もしや下は下着しか履いていないのではないか。
何となく見ないようにして窓から外を眺めながら口を開いた。
「あの、服と下着……ありがとう。あと、風呂も……」
「気にすんなよ。それより、ちょっと座れ。」
亜夜姉ぇがベッドをポンポンと叩く。
困惑して動けない俺を催促するように再度叩いた。
仕方なく座ると、突然後ろから抱き締めてきた。
「え、ちょっ!…….亜夜姉ぇ、何を?」
背中に柔らかな感触が伝わる。
こんな時でも意識してしまうのだから、男とは情けない生き物である。
いや、暖かい風呂に浸かったお陰で気にする余裕ができたというべきか。
「ゴロー……お前、大丈夫か?」
亜夜姉ぇの口調には確かな優しさと心配する気持ちが詰まっていて、動揺していた気持ちは自然と落ち着いた。
「大丈夫だよ。」
「ほんとにか?」
「本当だよ。」
「ほんとのほんとにか?」
「本当の本当に。」
「ほんとのほんとのほんとか?」
「しつこいね。大丈夫だって。」
「お前の母親に誓ってか?」
「ごめん、嘘ついた。」
「だろうな。知ってた。」
それは反則だ、という思いと同時に、ここで母を持ち出されて許せるのは亜夜姉ぇだからなんだろうなと思う。
雨音だけが室内に響く。
正直、今も頭の中はぐちゃぐちゃだ。
何をどうすれば良いのか。
明日からどう生きていけば良いのか。
まるでわからない。
父が亡くなった時、母はこんな気持ちだったのだろうか。
「………アタシにぶつけて良いんだぞ。」
「……なに言ってるのさ。」
「整理ついてないんだろ?」
「昨日、ちゃんと母さんとは話したよ。」
「母親には言えない事。母親だからこそ訴えられないものもあるだろ。」
そんなもの。
勿論あるに決まってる。
やり場のない怒りとか。
耐えがたい絶望とか。
色んな鬱憤とかストレスとか良くわからないぐちゃぐちゃした醜い感情とか。
「そんな事言っても、何してくれるのさ、亜夜姉ぇは?」
「…….お前が望むなら、何だってしてやるよ。」
より強く俺を抱き締める。
背に感じる感触が強くなった。
「言ってる意味わかってるの?」
「当たり前だろ。お前こそわかってんのか?」
「……何でそこまでしてくれる訳?」
「少なくとも、完全な善意とか自己犠牲とかではねぇな。………まぁ、あれだ。………アタシも、整理つけたいんだよ。」
亜夜姉ぇの柔らかな唇が首筋に当たる。
「……誘ってんの?」
「今更なに言ってんだアホ。そんなの一々聞くなっての。」
「………輝夜ちゃんは?」
「親父達の方に預けてある。」
亜夜姉ぇの家は喫茶『十六夜』の隣にある。
「………たぶん、止められないよ?」
「童貞に理性や技なんて求めちゃいねぇよ。」
母さん、ごめん。
亜夜姉ぇのこと頼まれてたけど。
たぶん、期待されてた形にはなれないや。
「良いから全部、アタシにぶつけな。アタシが……ゴローの全部、受け止めてやるから。」
はい、という訳で吾郎くんの童貞を奪ったのは亜夜姉ぇさんでした。
歳の差20歳だけど吾郎くんだから(白目)




