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失われた最愛

中盤から唐突なシリアス展開注意

時刻は午後19時半。

外はもう夜だ。

ただ一人残っていた常連客が帰り、店内には品の良いクラシックの音だけが流れている。

水場で洗い物をしていたマスターが布巾で手を拭いながら顔を上げた。


「ゴロー君、少し早いけど閉めようか。」


「了解です。」


少し早めの閉店に得した気分になった俺は、ナイスダンディなマスターに素早く返事をした。

雪のような白髪をオールバックにし、これまた真っ白な髭を顎から数cmはみ出るくらいの長さで綺麗に整えている。

老人の証とも言える無数の皺までもが、マスターのダンディさを強調していた。

齢65を迎えているこのマスターはいつ見てもスーパーナイスなダンディであった。

彼は剣道の高段者らしく、その肉体は今なお衰えていない。

10kgの荷物が入った段ボールを片手で軽々と運んでいた時は目を疑った。

俺もいつかはこんな大人になりたい、と心から思う。



彼の名は月城聡師(つきしろそうし)

住宅街に佇む喫茶『十六夜』のマスターであり、接客兼コーヒー係だ。

聞くところによるとコーヒー業界では名の知れた名人であり、マニアの中には地方からわざわざマスターのコーヒーを飲む為に、遥々ここまで来る者も多いのだとか。

確かにたまに見かけるな。

コーヒーだけを注文して、匂い嗅いだりカップ回したりマスターをチラチラ見たりしてる不審な奴ら。

どうせならケーキとかも注文しろよ。

あとコーヒー業界って何だよ。


下らない事を考えつつも閉店作業を進める。

『十六夜』でバイトを始めてもう一年になる。

粗方の作業は一人でもできるようになっていた。

コーヒーと紅茶を注ぐのだけはまだまだ半人前以下だが。



レジの集計はマスターに任せるとして、俺は掃除でもするか、と考えていたところで厨房から女将さんが出てきた。


「ゴローちゃん、悪いけど厨房の掃除をお願いできるかしら。こちらは私がやっておくから。」


「勿論オーケーです。」


彼女の穏やかスマイルには勝てない。

俺は即座に返事をした。



彼女の名は月城巴恵(つきしろともえ)

マスターの奥さんである女将さんは、マスターと同様に綺麗な白髪を揺らしながらニコニコしている。

俺は女将さんが笑顔を崩したところをほとんど見た事がない。

女将さんが怒ることなどあるのだろうか。

少し見てみたい気もする。

『十六夜』では接客兼紅茶係である。

サンドイッチ等の軽食も担当する。

また、女将さんは薙刀と合気道の高段者であるという。

マスター同様、身体能力は老齢のそれじゃない。

にこやかに笑いながら階段を二段飛ばしで駆け上がるのを見た時は、心底驚いたものだ。



女将さんの指示を受けて厨房の清掃を終えると、ガチャッという扉の開く音が聞こえた。

店舗の扉ではない。

マスターと女将さんの家でもある居住区の扉だ。

この喫茶店は二階建ての家の一階部分の半分を占めている。

残り半分と二階が居住区だ。

その扉が開かれたという事は、彼女ら(・・・)が帰ってきたのであろう。


ドタバタと慌ただしい足音が聞こえる。

ちょうど手が空いていた俺は、出迎える為に居住区と店舗を繋ぐ内廊下に向かった。

ヒョコッと中を覗くと、あちらもちょうど曲がり角から顔を見せたところであった。


「あっ、パパ!ただいまっ!!」


元気いっぱいの幼女が満面の笑みでダッシュしてくると、弾道ミサイルが如きタックルをかましてきた。

まともに受け止めると互いに痛い思いをする。

俺は上手く衝撃をいなして彼女を抱き止めた。

手慣れたものである。


「パパー!にへへー……」


甘えるように俺の腹に顔を擦り付けてくる。

パパと呼ばれているが勿論俺の子どもではない。


この幼女はマスター達の孫である月城輝夜(つきしろかぐや)である。

『十六夜』のマスコット係だ。

『十六夜』でバイトする前から俺に懐いてくれており、バイトを始めてからパパと呼ばれるようになった。

何度訂正しても頑として直さない為、マスター達さえも気にしなくなった。

輝夜はまだ幼稚園児だ。

成長すれば勝手に直るだろうというのが俺含む皆の見解であった。



輝夜に遅れてパタパタと足音が聞こえる。

俺がそちらを向くと、またもやちょうど曲がり角から出てきたところだった。

彼女は俺の顔を見ると気怠げに片手を上げて挨拶した。


「よぉ、お疲れさんゴロー。店仕舞いは終わったのか?」


「あぁ、ちょうどいま終わったところだよ。亜夜姉ぇもお疲れ様。」


そういって労うと、彼女はニヒルな笑みを浮かべた。

こういうのが一々様になる人だ。


彼女は月城亜夜(つきしろあや)

マスター達の一人娘であり、輝夜の母親である。

高い身長にスラッとした細身の体。

なのに出るとこはしっかり出ており、成熟した大人の色香を醸し出している。

これだけの色気を振り撒いているにもかかわらず、彼女の容姿は若々しい。

精々が20代半ばから後半くらいにしか見えないが、実年齢は35だ。

『十六夜』では主に接客をしている。


旦那……つまり輝夜の父親とは、輝夜が生まれて間もなく離婚している。

元旦那はかなりの浮気性であり、子どもができたら治まるかもしれないと期待していたようだ。

しかし輝夜が生まれても悪癖は一切治らず。

ついに我慢の限界を迎えた亜夜姉ぇの方から離婚を迫ったらしい。

曰く、輝夜がまだ物心つく前の方が傷つかなくて済むだろうとのことである。


旦那は嫌がったそうだが、マスターと女将さんが何かをしたようで、結局は早々に手続きを終えて逃げるように去って行った。

それ以来、元旦那は一度も姿を現していないらしい。

マスター達、本当に何やったんだよ……。



ちなみに俺が彼女を亜夜姉ぇと呼んでいるのは、彼女が昔からの知り合いで、それこそ姉のような存在であったからだ。

亜夜姉ぇは俺の母親の友達である。

小さな頃から亜夜姉ぇには色々とお世話になってきた。

こうして『十六夜』でバイトできているのも、元を辿れば亜夜姉ぇのお陰である。

彼女は俺が心から信頼できる数少ない人であった。







……突然だが、本当に突然だが、ここで俺の身の上を軽く話しておこう。


俺の名は燕昇司吾郎(えんしょうじごろう)

一年前から始めた出会い系サイトを使ってママ活、姉活をするのが趣味となりつつある高校生だ。

『十六夜』では基本的に厨房で調理や製菓を担当している。

16年前に、極普通の一般家庭に生まれた。

幼稚園までは一般的な平和を享受していたと記憶している。

全てが変わったのは小学一年生の夏だ。




父が亡くなった。

交通事故だった。




母は嘆き悲しんだ。

子どもの頃の話だが。

今でも良く覚えている。

この日、俺達はささやかながらパーティーをする予定だったのだ。

理由は母の妊娠である。



「お前もお兄ちゃんになるんだぞー!母さんの事、頼むぞ!!」



父はそう言って乱暴に俺の頭を撫で、嬉しそうに笑っていた。

それが、俺が最期に見た父の姿だった。


パーティーの為の買い物をし、意気揚々と帰ろうとした父を、一台のワゴン車が跳ね飛ばした。

その日は暑い夏の日だった。

そのワゴン車はエアコンが故障しており、虫が入ることを嫌がった運転手は窓すら開けずに運転していた。

熱気にあてられて呆然としたまま運転し、歩道に突っ込んだのだ。

ほんのちょっと運転するだけなら大丈夫だと思った。

そんな事を言っていたと、誰かから聞いた。


父が亡くなって数日間の事はあまり鮮明に思い出せない。

ただ覚えているのは、母がずっと泣いていた事。

そして、一部の友人や父の会社関係の人達を除き、ただの一人も親族が葬式に訪れなかった事。


詳しくは聞いていないが、父も母も親類と上手くいっていなかったようだ。

むしろ悪かったと言って良い。

父は富山の人間だったが、実家を捨てて東京へ上ってきた。

母の生家は元華族の名家だったが、父と結ばれる為に駆け落ちのような形で家を飛び出したらしい。


父の死を悔やむ人は、決して多くはなかった。




更に不幸は重なる。

度重なる心労、愛する人を失った絶望感、何をどうすべきかもわからず空回りする日々。

そんな日々に、身も心も蝕まれてしまったのだろう。




母は、流産した。




最愛を失った。

そして最愛になるはずだったものまでも。


母は壊れてしまった。

精神病院に入り、亡くなるまでの約十年間をそこで過ごす事になる。

俺は孤児院に入れられた。

母が亡くなるその日まで、行ける時は必ず母の元へ行った。


母の泣き顔を見たくなかった。

母の笑顔が見たかった。

母に褒めて貰いたかった。

母に叱って欲しかった。


母に俺を見てもらうこと。


それが、少年期における俺の生きる理由となっていた。







何故急にこんな話をしたのか。

それは、ニヒルに笑う亜夜姉ぇを見て、あの日の事を思い出したからだ。


あの日、母が亡くなった、俺にとって人生最悪の日。



そして。




俺という存在が、異質に歪んでしまった日。

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