真実はいつも残酷だけどたまには優しい感情があったりして
青く澄み渡る空にはかすれたような雲が浮いている。
春の暖かな日差しが降り注ぐ中、屋上に吹いた風が俺の頬を優しく撫でた。
気持ちの良い風……なのだろう。
何気ないただの風に春の趣きを感じたいところではあるが、残念ながら今はそんな状況ではない。
自己紹介をしたはずなのに何の応答もないとはいかなることか。
だが、まぁ…それも仕方のない事かもしれんな。
いま桜坂先生の脳内では、おそらく様々な情報が行き交ってショートしそうになっているに違いない。
そんな顔をしている。
「はぁ……」
溜息を一つ。
こうなるだろうとは思っていた。
あまりにも突然すぎた。
そしてあまりにも信じられない出来事だ。
大学生だと思っていた相手が高校生で、おまけに自分が就任した高校の生徒だなんてな。
まるで他人事のようにそんなことを考える。
先生が落ち着くまで待ってあげたいところだが、生憎そんな時間はない。
俺はバイトに行かねばならんのだ。
決められた時間は守らねばならない。
自慢ではないが、俺は女性にはだらしないが基本的には勤勉なのだ。
本当に自慢にならないな。
馬鹿なことを考えている場合ではない。
行動を起こさねば。
「あの……桜坂先生?」
一瞬、何と呼ぶべきか迷ったがここは学校で相手は教師、そして俺は生徒だ。
まずは先生と呼ぶのがベストだろうと判断した。
「へっ…あ、はい!えっと……燕昇司……君?」
混乱の極み。
どうやらこの人は突発的な状況に適応するのに時間がかかるタイプのようだ。
何となくわかってはいたが今は頑張ってほしい。
「はい、燕昇司です。そしてツバメです。先日は楽しかったですね。」
「え、あ、うん。楽しかった…ね。」
「……何となく、わかっていただけましたか?」
「えっと、えっと………つまり、燕昇司君がツバメ君で、ツバメ君が燕昇司君で……?」
「合ってるようで間違ってるようで合ってます。正しくは燕昇司=ツバメです。」
「う、うん……うーん………」
少し立ち直ってはいるが完璧に飲み込むにはまだ時間がかかりそうだ。
かくなる上は。
「ひとまず燕昇司吾郎は置いておきましょう。俺がツバメである事は、わかっていただけました?」
そう言いながら再度前髪をかき上げる。
「う、うん、確かにツバメ君だね。……あれ、大学は?」
「あ、それ嘘です。ごめんなさい。」
ぺこり。
「えっ!?」
あわあわ。
「21歳の大学生っていうのは嘘です。本当は16歳の高校二年生です。見ての通り。」
学ランをアピールするように両手を広げた。
先生の大きな瞳が俺の頭上から爪先までを何往復かする。
「高校、二年生……2-Bの……」
「はい、燕昇司吾郎です。わかりましたか?」
「わかった……わかった…けどわかりたくない。」
混乱は収まったが、困惑は今なお残る。
「そうですね、俺も正直……わかりたくない気分です。」
出会い系の俺的鉄則。
近場で探してはならない。
この近場というのは地理的なものだけではない。
年齢は中高で被ることのない3つ以上は離れているのが好ましいし、地方から上京してきた人なんかだと尚良い。
だから奈良から上京してきた新社会人で24歳のハルさんを選んだのだ。
それがまさかの高校教師で、うちの高校で、うちのクラスの副担任だと。
悪い冗談もここまで重なると呪いだ。
そんなもの、わかりたくもないだろう。
んーっ、と考え込んでいた先生だが、やがて何かに気づいたようにはっとした。
「……え、という事は、私……16歳の子と……?」
「やっちまいましたね。」
何を、とは言わない。
「そ、そんなっ!!私、もしかしてもうクビ!?解雇!?いやいや、それ以前の問題で………あぁぁどうしよう!?お父さんとお母さんに何て言ったら…………」
青ざめた顔でわかりやすく頭を抱え込む先生。
その様子がなんだか面白くて…そして可愛くて、思わず俺は笑ってしまった。
これでもポーカーフェイスは得意なつもりだが、この人といるとどうにも笑えてしまう。
小さく吹き出した俺をキッと睨みつける先生。
その目の端には涙が浮かんでおり、怒っているのだろうがむしろ可愛く見えてしまう。
「ちょっと!笑い事じゃないでしょ!君だってこのままじゃ……!」
「落ち着いて下さいよ桜坂先生。確かにこの事実が知れ渡ると、お互い困った事になります。ようは知れ渡らなければ良いんですよ。」
「……バレなきゃ良いって事ね。」
「そういう事です。簡単でしょ?」
「そうね、お互いあの日の事は忘れて、普通に……普通に………」
先生が俯く。
その体は小さく震えていた。
「……桜坂先生?」
「………あの日ね、とっても楽しかった。慣れない東京で、知り合いもいなくて、ずっと不安だったけど……彼が、ツバメ君が色々教えてくれて……暖かく包んでくれて……とっても、とっても嬉しかったの。」
引っ込みかけた涙がじわじわと浮かび上がる。
「いや…だよっ……忘れたくなんて…ないよっ………こんなに…素敵な思い出……ぐすっ…これからも…またこんな思い出、いっぱい作れるんだって……ツバメ君にまた色々教えてもらおうって……っ…そう、思ってたのに…っ……なのにぃ……」
溢れ出した涙は止まらず。
その美しい雫が地を濡らす。
「なんでっ…なんでよぉ……っ…折角……良い人に会えたと思ったのに……とっても楽しかったのに…んっ……なんでっ………」
情緒不安定かよ、なんて軽口は叩けなかった。
胸を押さえて泣きじゃくる先生を前に、俺はどうすべきか迷った。
迷ってしまった。
迷ってはいけなかったのだろう。
優しい言葉などかけてはいけなかった。
ただ一言謝って、そして一人で去れば良かったのだ。
そうすれば先生の胸に残る傷を代償に、二人して何でもない学校生活を送れたかもしれないのだ。
だが、内面まで大人になりきれない俺は、彼女の悲痛な叫びを無視する事ができなかった。
「だったら、また会えば良いじゃないですか。」
「んっ…ぐすっ……えっ?」
「だから、また会えば良いじゃないですか。"ツバメ君"に。」
「だ、だって…高校生だし…生徒だし……私は先生だから……だから………」
「どうだって良いじゃないですか、そんなの。」
「ど、どうだってって………」
「先生はツバメが好きですか?」
「す、好き…ではない、かな。まだ会ったばかりだったし。」
「好きじゃないのにやっちまったんですか?」
「そ、それは!…そういう時もあるでしょ!君だってそうじゃない!」
「そうですね。俺も別にハルさんに惚れた訳じゃない。でもそういう時もあります。」
「……何が、言いたいの?」
「そういう時があれば、また会えば良いんじゃないですか?別に付き合う訳でもあるまいし。」
「それって……セフレ……なのかな?」
「それだけじゃないと思いますよ。また行きたい所があったら案内したり、ご飯食べたり、お喋りしたり。そういうことしたり。」
ちゃっかり付け加える。
男心を忘れてはいけない。
「でも、私達は先生と生徒で……君は未成年で……」
「さっき先生も言ってたじゃないですか。」
「言ってた……?」
「バレなきゃ良い……そういうことでしょう。」
「で、でも!そんなの絶対ダメだよ!隠しきれるものじゃない!」
「そうですか?」
「そうだよ!だって一緒に外歩いてるとことか見られたら!!」
「……あの状態の"僕"と"俺"が同一人物だって即座に見抜ける人がいますかね?」
「それはっ!…それは………」
「……無理をする必要はありません。全てを忘れて明日から赤の他人として接していただけるなら、俺はそれでも構いません。でも……先生は、嫌なんですよね?」
「だって…だって……折角できた…」
「好きな人?」
「違う!……好きとかじゃなくて…友達、でもなくて……知り合い、は遠すぎるし………」
うーん、と唸る先生。
やがてポツリと小さく漏らした。
「気になる人……かな。」
「気になる人……ですか。なるほど。」
「なんか上手く言えないけど……」
「いえ、何となくわかります。俺も…僕も、ハルさんのこと、気になってますから。」
偽らざる本音。
好きではない。
だが気になる。
近づきたいと思う。
だが、どうしてそう思うのかはわからなかった。
曖昧で、醜悪で、欲に塗れていて、なのに優しい感情。
それを知ってなお許容する距離感。
たった一度肌を重ねただけなのに、そんな不思議な距離感が、俺達の間には生まれていた。
「とにかく、先生はまたツバメに会いたいんですよね?」
「……うん。会いたい……よ。ツバメ君は違うのかな……?」
「……そうですね。…俺も、また会いたいと思ってます。ハルさんに。」
「…バレないように、できるかな?」
「できるんじゃないですか?少なくとも俺は、ハルさんより年上の人ともよくお会いしてます。社会的な立場もある方ですが、今のところ露見した事はありません。」
「最低。最低だよ。それ、この場で言って良いセリフじゃないよ。」
ジト目。
今のは確かに俺が悪かったかもしれない。
「申し訳なく存じます。」
「なにそれ……ふふっ……」
俺もわかりません。
「はぁーあ………私、教師失格だ。」
「挽回の余地はありますよ。まだ教師生活は始まったばかりですし。授業を成功させたり、生徒の悩みを解決する度にTPを獲得できるみたいです。」
「TP?」
「ティーチャーポイントです。」
「何その安直な名前……」
「分かりやすくて良いでしょう。全世界共通の教師ルールです。」
「そのルール誰が考えたのよ?」
「もちろん俺です。今考えました。」
「だと思ったぁ……君って真面目そうなのにやっぱり不真面目だよね。」
「不真面目な男は嫌いですか?」
「嫌いよ………でも、嫌じゃない…かな。」
「それは良かったです。俺も、不真面目な先生は嫌じゃないですよ。むしろ好きです。」
「ばーかっ……ばーかばーか!」
教師らしからぬ幼稚な暴言を吐きながら外を眺める桜坂先生。
その横顔は、いつも通り美しくて……そして羞恥に染まっていた。
先生……照れ隠しできてませんよ。
だって耳真っ赤なんだもん。
けど今は指摘しない。
溢れ出る悪戯心を抑えつける。
今はまだ、"気になる人"の横顔を眺めていたかった。
バイトは遅刻した。
自称勤勉は返上しなければならないようだ。
ゴローくんは意外にお茶目なところがあるようです。




