旅の遊楽と鼻唄注意
ちょっと短め
朝、目が覚めると隣には眼鏡を外した美冬さんの素顔があった。
スッピンのアラサーとはとても思えない綺麗な肌。
クールな印象の切れ長の眼は閉じられ、いつもより幼く見える。
それでもやはり可愛いより綺麗が勝る寝顔であった。
美冬さんを起こさないように静かに布団から出て、脱ぎっぱなしの下着と浴衣を身につけた。
障子を開けるとゆったりした椅子と机が置いてあり、その奥の窓からは爽やかな朝日が差し込んでいた。
時刻は9時半。
予想より早く起きてしまったようだ。
昨夜は遅くまで起きていた為、昼前くらいまでは寝ていると思ったのだが。
美冬さんはまだ寝ているし二度寝しても良いのだが、朝日を浴びてすっかり目が覚めてしまったようだ。
温泉街を散歩でもしよう、と思い立った俺は財布とスマホだけ持って部屋を出た。
受付で羽織りと外出用の草履を借り、外へ出る。
山の近くだからか、都会では味わえない澄んだ空気が漂っている。
この肌寒さがまた心地良いな。
昨夜は飯の後に美冬さんの飲み歩きに付き合ったのだが、夜歩くのとはまた違った趣がある。
朝とはいえそう早くもない時間。
雑貨屋やお土産屋は開いている店も多く、散歩ついでに覗いて回ることにした。
「どうして起こしてくれなかったのよぉ。」
「いや、気持ち良さそうに寝てましたから……それにこんなに時間かけるつもりもありませんでしたし。」
「そんなこと言って、どーせ人妻をナンパでもしてたんでしょ……一人旅行の人妻を探してたんでしょぉ……」
「そんな訳ないじゃないですか……てかなんで人妻限定?」
「起きたら一人だし、吾郎は帰ってこないし……不安だったんだからぁ……」
「はいはい、すみませんでした。」
「はいはいって言ったぁ…めんどくさがってるぅ……」
涙目で拗ねているのは紛れもなく美冬さん。
散歩に出て約1時間、戻ってきた時にはこの状態であった。
美冬さんは元々朝が弱く、特に寝起きの悪い時はこうしてちょっとした幼児退行とネガティブ思考に入るのだ。
俺はこの状態を『みふゆちゃんモード』と呼んでいる。
「みふゆちゃん、お顔洗いましょうか。」
「みふゆちゃんって言うなぁ……」
「今ならお顔ジャバジャバするの手伝いますよ?」
「………歯磨きはぁ?」
「手伝います。」
「………なら行くぅ。」
「はい、行きましょう。みふゆちゃんは偉いですね。」
「えへへ……はっ!みふゆちゃんって言うなぁ!」
「はいはい。」
洗面所まで引っ張っていって顔を洗わせる。
ちなみに歯磨きは手伝う必要はない。
顔を濯ぐ度に正気を取り戻していき、やがて羞恥に顔を赤く染めた美冬さんが俺の退室を促すからである。
「…………吾郎、もう大丈夫だから、向こうで待っていてちょうだい。」
「戻りましたね。了解です。」
「ごめんなさい、迷惑をかけたわね……」
「気にしないで下さい。ああいう可愛い貴女も好きですよ、みふゆちゃん?」
「ちょっ!ご、吾郎!」
怒られる前に戻ろう。
俺は踵を返して洗面所を後にした。
いつものクールビューティーに戻った美冬さんと共に朝風呂へ向かった。
今回は家族温泉ではなく普通の露天風呂に入った。
昨日入った温泉よりも粘りが強くヌルヌルとした感触の湯だ。
サラサラな湯も良いが、これはこれで体に良さそうな感じがするな。
「うぅ……はぁぁ……あー……ふぅ………」
あまりの気持ち良さに意味のない声が漏れ出る。
運の良いことにこの時間は俺一人しかいなかった。
それなりに大きな露天風呂を独り占めである。
自然と気分が高揚し、鼻唄の一つでも歌いたくなる。
だがここで調子に乗って歌えば、気付かぬうちに他の客が現れやっと気づいたと思えば互いに気不味い思いをするという罠にかかる恐れがある。
そんな羞恥には耐えられない、ここは我慢だ。
風呂上がりに美冬さんと合流した。
美冬さんの方が先に出ていたようだ。
「すみませんお待たせしました。」
「いえ、良いのよ。大丈夫だから。」
「珍しく早いですね、何かありました?」
風呂好きの美冬さんが俺より先に風呂を上がるというのは初めてであった。
「何もないわ。」
極めて平静、しかし俺にはわかる。
「嘘ですね。微妙に動揺してるのがわかります。」
「何のことかしら?」
「言いたくないなら聞きませんけど……悪いことじゃないんですよね?」
「………はぁ、吾郎には隠し事はできないわね。」
無駄な抵抗を諦めた美冬さんが溜息をこぼした。
「やっぱり何かあったんですね?」
「ええ…といっても、大した事じゃないのだけれど。……ちょっと、居辛かったものだから…。」
「居辛かった?」
「その……は、鼻唄を歌ってる時に……他の人が来たのに気付かないで……」
お、おぉ…まじか。
まさか俺が危惧した罠に引っ掛かっていたとは。
ちなみに男湯は結局誰も来なかった。
俺は歌っても問題なかったのであるが、それも結果が出たから言える事。
こうして気不味い思いをして早く出てきた美冬さんを見ると、予想通りだったぜドンマイと気軽には言えなかった。
「えっと………折角の温泉街ですから、もう一つくらい行っときます?」
「………良いの?」
「滅多に来れる所でもないですから……行きましょうよ。」
「……そう、そうね。行きましょうか。」
良かった、何とか落ち込んだ雰囲気を払拭できた。
「旅館の人に聞いたのだけれど、炭酸泉もあるみたいなのよね。」
「お、良いじゃないですか。どこらへんか聞いてます?」
「15分ほど歩かないといけないみたいだけれど、大丈夫かしら?」
「いま上がったばかりですし、むしろちょうど良いんじゃないですか。」
「それもそうね。なら行きましょう。」
「はい。」
腕を組んで歩き出す。
まぁ、温泉は色々と試すのが楽しいよな。
本日二つ目の温泉を出た俺達は旅館に戻る途中で昼飯代わりに食べ歩きをした。
魚のすり身を揚げたさつま揚げ、馬肉を使ったメンチカツ、串に刺さったぬれおかき、熊本名物のいきなり団子などを食べ、最後に甘味処で黒蜜のかかった和風パフェを二人で食べた。
旅館に戻ればチェックアウトの制限まであと僅か。
といってもあれこれ荷物を広げたりもしていない為、すぐに纏め終わって熱いお茶を飲む余裕まであった。
ほのぼのしていると時間になり、荷物を持って受付へ。
手の空いているスタッフ全員での丁寧な礼を背に、俺達は旅館を後にした。
今日は熊本市内へ向かう。
着く頃には夕方になっているだろう。
明日の予定は既に決まっており、熊本で食事や酒を堪能できるのは今日の夜が最後だ。
美冬さんとの旅行も終盤に差し掛かっていると考えると寂しい気もするな。
今日もまたそれなりの時間運転してもらう美冬さんの為に、できる事はないかと考えつつ、車へ乗り込んだ。
温泉での鼻唄には十分注意しましょう。
電車で動画見ながらニヤついているのを正面の若い女性に見られた時くらい気不味い思いをします。




