手
『この話は本当にあったんだ』と言ったら君は信じるだろうか?
信じる権利も信じない権利も聞き手の君には与えられている。途中で聞くのをやめてもいい、君の自由だ。
それでもこの少しだけ奇妙な話を最後まで聞いてくれるのなら僕は嬉しい。
ある日の夜、僕は終電を逃してしまい僕の最寄り駅まで行けなかった。
仕方ないから最寄りの3駅前まで行く電車に乗り、電車の中で座って揺らていた。
イヤホンを耳にして、好みの音楽を聴いていたよ。
目的地の駅が近づく度にね、だんだん周りの人が降りて少なくっていくんだ。
僕はふとこの電車を終点まで乗っていると誰かに殺されてしまうように思えてね。
終点に着いたところで大男が現れて、僕に巨大な斧を振り下ろして僕を殺すんだ。そんなように思えて、ちょっと前で降りてしまった。
降りると駅のアナウンスで『本日は人身事故の影響で』と駅員が忙しそうに喋ってるのを聞きながら改札の方へ向かった。人は僕の他に3人いたが、全員僕とは違う改札の方から出ていった。
僕から逃げるというか、僕がこれから歩くであろう道を避けてるようにも見えて今思えば奇妙だった。
そこからは線路をたどってまっすぐ歩けば目的地まで着くだろうと思ってね。線路をたどって歩いていた。
そうしたら目の前に家があって線路の横を歩けないし、しかも行き止まりなんだ。
迂回すらできないからこれはまずいと思ってね。
踏切まで戻って次の踏切まで走った。
さっき僕が乗っていたものが終電なんだからさ、電車なんて来るはずがないのに、焦って無駄に走った。
変な汗をかいたよ。電車の会社から莫大な損害賠償を求められるなんて話いくらでも聞くからね。
線路の石は走りづらくて、靴が傷んでしまったけども、まあ靴は買い替えればいいかなと思ったよ。
そうしてまた線路の横の道を歩いていたら、また家があって、しかも次の踏切まで遠いときたもんだ。
線路内は立ち入り禁止だよ。長い時間走ったら見つかってしまうよ。今の時刻が3時だとしてもね。
15じゃないよ。3時だ。27時と言ってもいい。
流石に僕はしびれを切らしてね、持っていたスマートフォンで道を検索した。
そうしたら、どうやら一本道らしくてね。
自分がいる場所から少し歩いて大きな道に出ればあとはまっすぐ進むだけだった。
しめた、と思ってすぐに大きな道に出てまっすぐ歩いた。
この話はここからが奇妙なのさ。何も起きないけどね。
歩いてるとね、左手の方に錆びたフェンスが見えるのだけど、そのフェンスのあいだから突き出してる植物が僕はどうしても人間の手にしか見えなくて、まじまじと見ていたんだ。
そうしたら無数の手の下に赤い薔薇が咲いてたんだ。
病的なまでに真っ赤な薔薇。
見てたら『罪』という漢字が浮かんでくるような薔薇。
僕は怖くて仕方がなかったから目線を薔薇から外したんだ。
そうしたら再び僕の視界に薔薇が入ってきたんだよ。左手の、フェンスの方から。
さっきの手が薔薇を持って僕の目の前で止まったせいで。
これも何かの縁かなと思って、薔薇を受け取ろうとすると薔薇は一瞬にして白い煙となって僕の体に吸い込まれてしまった。
何も無いのに体が冷たくなる違和感を感じた。
体が内側から冷たくなる感じっていうのかな。
時間が時間だし寝ぼけていたのかもしれないね。
少々奇妙ではあるが別に体に何の影響が出た訳でもない。僕は気にしないことにした。
次にまた歩いてると大きな木があった。
道はその木が明かりを遮るから真っ暗で、何も見えない。
話は変わるけど宇宙が生まれたビックバン以前の世界はどうだったんだろうね。
色や物質はもちろん、空間や時間すらない何も無い訳だ。
それってなんだろう?
空間や時間に支配されて生きてる僕達にとってはいくら考えてもきっと想像すらできない物なんだと思う。
話を戻そう。
僕はそう言った空間や時間すらない無秩序さをこの木が作る暗闇に感じたんだ。
でもそこには正確に『黒』が塗られてる訳だ。
色はあるけどもどこか宇宙が生まれる前のそれと似たような物を感じたんだ。
ここから先、何があってもおかしくない、みたいな。
現代人の考えなんて到底及ばない物事が起こるみたいな。変な予測が胸の中を渦巻いた。
そうして暗闇の前で足踏みをしていたんだけど、僕はとうとう決意して一歩目を踏み込んだ。
やっぱりというか予想通りというか、片足がその空間に入っただけで僕が感じる緊張感というものは、二倍にも、いやそれ以上にも膨れ上がるように感じた。
体から変な汗が吹き出しているのに気づいた。
服が体に張り付くのがいつもよりも不快で、僕はこの空間から一刻も早く抜け出そうと走った。
その瞬間だった。走ってる僕の肩を誰かが掴んだ。
痛いぐらいに中指が皮膚に食い込んでいた。
足にも大きさの違う二つの手が僕の両足を片足ずつ掴んでいた。
不思議なことにこの手に感情というものを感じなかった。
これほど強く掴んでるのに、この手を動かしているのは虚無なんだと思った。
そして僕はこの三つの手に今からどうにかされてしまうだろう。
僕は抵抗する気は無かった。それはこの空間がそういうものだと知っていたからだ。
カマキリがいる虫かごに入れられたバッタのように、僕は得体の知れないカマキリにとって食われるだろうことを僕は知っていた。
死んだらどうなるかな。
これもまた実体を持ったことしかない僕たちには到底分からない話だ。
僕はこれからそれを知ることになると思うと少し楽しみでさえあった。
人生はたった一回しか死ねないんだ、どうして楽しみじゃないだろうか。
そんな事を考えていたら後ろから大きなトラックが僕らを照らした。
その瞬間に手たちは力が弱まって、僕はするりとそれらから逃れることが出来た。
なんだ、今はそういう時なのかと思って僕はあっさりとその空間を抜けた。
コンビニが見えたから行って飲み物を買ってコンビニを出たら時刻は4時で日が登ってきた。
明るいとさっきまで出てきていた手たちは出なくなって、無事に家に帰れたんだ。
家に帰ってシャワーを浴びてベットに横になった。
電池が切れて死んでしまったように寝ていたように他人からは見えただろう。
そうしたらドアがガチャガチャいう音で目が覚めた。
時刻は19時、窓を見るとすっかり日が落ちていた。
僕は嫌な予感がしたけどドアの鍵を開けたんだ。
そうしたらドアは開いた。
ドアノブに群がる無数の手で開けられた。
視界が全部無数の白い手で埋まった。
必死に何かを探しているようだった。
そのうちの一つが僕の口の中に入ってきた。
僕は何回も咳をした。苦しかった。
そうしたらそのうちその手が赤い薔薇をもって僕の口から出ていった。
そうしたら他の手たちはその薔薇に群がった。
僕から離れたという事だね。
薔薇を持った手は薔薇をつまんだ指以外の指でドアを開けて出ていった。無数の手たちはいなくなった。
僕はドアの前に立ってそれらを見送った。
よく分からないけど助けられたのかもしれない。
ここから先は普通のいつもの日々が続く。
今日は洗濯をする日だったかな。
そう思って振り返る。
三つの手がフワフワと浮かんで僕に手招きをしているのが見えた。