第八百五十四話・月を見ながら
Side:久遠一馬
「そなたは相も変わらず、恐ろしいことを考えるの」
西の空がオレンジ色に染まっている。町からは賦役終わりの領民だろう。楽しげな声が風に乗って聞こえてくる。
「何事も学び試すことが当家の信条なのでございますよ」
恐ろしいと言いつつ興味深げなのは守護の義統さんで、ここは清洲城になる。周囲には子供たちが大勢いて鉛筆にて城の庭を写生しているところだ。
実は今日は月食の日なんだ。せっかくだから子供たちと月食観察しようとアーシャに提案して、希望者を募ったんだけど、岩竜丸君から義統さんにも話が伝わり驚かれた。
そこで自分も参加したいと言いだしたのが義統さんの凄いところだろう。公家の近衛さんや二条さんは不吉だと懸念して帰ったというのに。
当初、月食観察は学校でやって、そのまま参加者は学校の寮とウチの屋敷に泊まることを想定していたが、義統さんに清洲城でやればどうだと言われたので場所が清洲城になった。
こっちのほうが万が一よくないことが起きても大丈夫だろうと、気を使ってくれたようだ。
子供たちはお昼前から清洲城に来ていて、夜に備えてお昼寝をして、夕方から庭の景色を写生している。学校の生徒と孤児院の子供たちだ。みんなお城に来ることを楽しみにして遠足のような感じになっていたね。
「月が欠けるか。なにが起きるか見物だな」
「坊主の騙る仏罰よりは面白きことが起きそうだな」
近くでは信長さんと信光さんが月食観察をするために待っていた。無論、強制はしていない。不吉だと言われることもあらかじめ子供たちに教えていて、一部の子は怖いからと参加していない。でもほとんどの子は参加している。
学校教育の偉大さを痛感するね。アーシャがみんなに信頼されているんだろう。
もっとも信長さんと信光さんのように、本当に不吉なことが起きるのか見極めてやろうという人もいる。
ああ、工業村の職人も何人か来ている。興味があるそうだ。
「守護様、孫三郎様、一杯どうだい?」
「ほう、よいの。酒でも飲んでゆるりと待っておるとしようかの」
姿が見えないなと思ったジュリアと信秀さんは、なんと酒を持ってきた。月食観察の宴会をする気らしい。
夜も更けて八時を過ぎた頃だろうか。幼い子なんかはウトウトと寝ていたが、そろそろ月食の時間なんで起こしてみんなで観察だ。
「大丈夫よ。なにが起きても守ってあげるわ」
「そうよ。任せて! みんな一緒だから」
夜も更けて暗いので怖いと怯える子たちに、リリーとアーシャがひとりずつ声を掛けて安心させてあげている。義統さんはそんな様子をじっと見ていた。
視察に行ったことは何度かあったはずだ。とはいえこういう生の教育する姿は初めてだったんだろう。
「案ずるな。内匠頭がおる。仏の弾正忠がおれば悪鬼羅刹と言えど、出ても一捻りよ」
もうひとり、子どもたちのサポートに回っているのは岩竜丸君だ。変われば変わるものだな。学校になじめずに登校拒否をしたのに。
そうそう、岩竜丸君が信秀さんのことを口にすると、子どもたちがみんな信秀さんを見てしまった。内心では困って苦笑いかもしれないが表面上にはそんな姿を見せない。
領民を優しく見守る義統さんと、強さで信頼される信秀さん。このふたりは本当にバランスがいい。
「この月が欠けるのはね。お天道様と月の間に、私たちの大地が影を作っていると私たちは考えているわ。それによって月が欠ける日がわかるの」
みんなで庭に出て月食観察だ。アーシャの月食に関する講義にお酒を飲んでいた大人たちも、眠そうだった子供たちも一様に興味津々な様子で聞いている。
「鬼はいつ出るの?」
「鬼は私たちも見たことないわねぇ。見てみたいわ。鬼がどんな姿でどんな暮らしをしているか知りたいもの」
子供たちは子供たちで鬼が出るとか噂があったんだろうな。ひとりの子が鬼について疑問を口にするとアーシャは好奇心旺盛な様子で見てみたいと告げて、この場のみんなを驚かせている。
おっと、そろそろ時間だね。家臣のみんなにとっておきのものを運んでもらう。
「一馬、あれは……」
「星を見るものですよ」
運ばせたのは史実のケプラー式望遠鏡だ。天体観測には最適であり、史実にはヨハネス・ケプラーが千六百十一年に凸レンズを用いた望遠鏡を発表したはずなので、六十年ほど先取りだけど。
三脚を付随することで観測を安定化する、結構大きいもので、義統さんや信秀さんも興味津々だ。こちらには五台を用意して、子供たちには二十台用意した。みんなで順番を決めて月食観察だ。
ああ、職人たちが分解したそうにしている。あとで現物をあげるから我慢してくれ。
地球からだと五十倍で視野全体を覆い尽くすように見える。月食観察には三十倍ほどあればいいだろう。
「おおっ!」
「これは凄い」
望遠鏡にて月を見ている義統さんと信秀さんから驚きの声が上がった。こんなに大きく鮮明な月を見たのは初めてなんだ。驚くのも無理はない。
現在、織田家には双眼鏡と、遠眼鏡或いは単眼鏡と、施療眼鏡、もしくは単に、眼鏡と呼ばれる視力矯正の眼鏡が超高級品としてある。双眼鏡は一部の忍び衆に貸し与えているのと南蛮船に常備していて、眼鏡は平手政秀さんとか、年配の重臣にプレゼントして使ってくれている。
硝子自体がまだ超高級品だからね。双眼鏡と遠眼鏡に眼鏡は非売品だ。
「うわぁ。本当に月が欠けてる!!」
子供たちが順番に望遠鏡を覗き、驚きの声をあげるのをオレは見守っている。お城に泊まって、義統さんや信秀さんと月食観察をしたなんて、きっと一生の思い出になるだろう。
あれ、姿が見えないと思ったら、お市ちゃんも子供たちの列に並んでいるよ。一応信秀さんたちのところで見られるようにと数を揃えたんだが。孤児院の女の子と一緒だ。同じ歳の頃で仲がいい友達と一緒みたいだ。
「一馬、わしらは二台もあればよい。あとは子らに見せてやれ」
「はい。畏まりました」
義統さんや織田家の一族の皆さんも驚きつつ見ていたが、義統さんが五台のうち三台を並んでいる子供たちに見せてあげるようにと言ってくれた。
まあ、信康さんとか勘十郎君とかの織田一族や、政秀さんたち重臣の皆さんも何人かいるが、贅沢を言わないと五台も要らないか。とはいえ当たり前に身分がある人生を送ってきた義統さんが、子供たちに譲るというのは、この時代としては信じられないほどだ。そう言えば、時計塔の時もそうだった。身分が当てにならないことも義統さんは痛感しているのだろう。ならば、子供たちの未来に託すのも一興と考えているんだろうか?
「あの子らが次の世を支えてくれれば、これほど頼もしいことはないの」
「はっ、まことにそうでございますな」
そのまま義統さんと信秀さんは酒を酌み交わし、自然体のままに、陰りの進む月食を見ながら一言だけ会話をした。
オレは次の世をという言葉に、ドキッとした。
まるで天下を取った天下人たちの会話にでも聞こえたからだろう。ふと思う。先日の大内義隆の法要に来た人たちは、このふたりが恐かったのではないかと。
きっかけを与えていろいろと教えたのはオレたちだが。それでもオレたちが思う以上に大きく変化して偉人と思える人になった。
やはり乱世を生きる人は凄い。今川義元の苦労が少しだけわかったね。
◆◆
天文二十一年、七月十四日。清洲城にて月食を観察したという記録がある。
月食に関しては、大内義隆の法要に参列するために尾張に来ていた公家の日程を変えたこととして記録にあるが、この月食観察は久遠一馬が子供たちに月食を見せて学ばせようとしたのだと『織田学校の学校史』にはある。
当時は不吉な前触れ、もしくは不吉そのものだと恐れられていたが、久遠家ではそこまで恐れられていなかったようで、遠洋航海をする際に必要な天測などの天文学が発達していた証でもあると思われる。
驚きなのは守護であった斯波義統や織田信秀などが、一緒に月食観察をしていたことだろう。
不吉な前触れであるとの認識は義統たちばかりか子供たちにもあったようだが、斯波岩竜丸が『案ずるな。内匠頭がおる。仏の弾正忠がおれば悪鬼羅刹が出ても一捻りよ』と言ったとの記録があり、久遠家への信頼や信秀の評価がわかる逸話となっている。
一馬が子供たちに伝えた天文学は、日本古来の領土である日本本土から、現在の日本圏全域までの発展の礎となったとの見方が現在ではされている。
現在でも旧暦七月十四日は天文学の日として、日本圏では星を見るイベントが各地で行われている。
なお、この時に使った望遠鏡はアーシャ式望遠鏡として現在では日本圏で広く知られているものとなっている。初代学校長であった天竺の方こと久遠アーシャが原理を考案して、久遠家の職人たちが作り上げたのだと『久遠家記』に記されている。














