第七百六十九話・佐治さんの結婚・その三
Side:九鬼定隆(九鬼家現当主で九鬼嘉隆の父)
久方ぶりに大湊にくると黒い船が見えた。佐治水軍の久遠船だ。近頃では大湊でもあの船が珍しくなくなった。
家臣たちはあの船を見て羨ましげにしておる。かつての佐治水軍は伊勢の海の東側におったはずが、近頃は大湊にまでくる。そのことが面白くないのと同時にあの黒い船が羨ましいのだ。
「大層な賑わいですな」
大湊の町も様変わりした。かつてよりも諸国から訪れる船が増えて賑わいを見せておる。家臣のひとりはその賑わいになんとも言えぬ顔で呟いた。
我ら志摩の水軍の状況は悪うない。西から来る船からは税を取れる。同じ志摩水軍同士の争いはあるが、それでも訪れる船が増えると実入りは増える。
とはいえ佐治水軍に怯える日々には面白うない者もまた多い。大湊はすっかり連中の湊になったかのように、大湊の者らも歓迎しておるのだ。まるで我らが余所者のようではないか。
他国で他所の水軍が平気で湊に船を止めて町に出られるなど、少し前ならばあり得なかったことだ。今ではこちらが遠慮せねばならんほど。
「お前ら、騒ぎは起こすなよ」
「心得ておりまする」
喧嘩のひとつやふたつはよくあることだ。とはいえやり過ぎると織田に睨まれる。服部の愚か者の二の舞いは御免だ。負け知らずの久遠の南蛮船が大挙して押し寄せたら如何ともしようがない。
「これで佐治水軍も安泰だねぇ。これおまけしておくよ」
「ありがてえ。恩に着る」
町を歩いておると、やけに浮かれた佐治水軍の者らがおった。商人や露天市を開いておる者は、祝いの言葉を述べておる。なにがあった?
「すまぬ、佐治水軍になにかあったのか?」
「これは九鬼様。いえね、佐治様が織田のお殿様の姫君を迎えるのだそうで。今日は婚礼の日らしく、水軍の皆様も祝いの褒美を頂いたと喜んでおるのでございますよ」
古い馴染みの商人に声をかけると、嬉しそうに語るその話にわしは笑みを浮かべつつ、ため息をこぼしそうになるのを隠した。
相手は着々と地固めをしておるな。志摩の水軍衆は未だにまとまりもなく、足の引っ張り合いをしておるというのに。
とはいえここで不快な顔でもみせれば、わしの器量を疑われるだけだ。もっとも、連れの家臣たちの顔で見透かされておろうがな。
「九鬼様にも祝いにおまけ致しますよ」
「そうか、かたじけない」
大湊は織田と誼を結ぶことで大きゅうなっておるからな。織田と佐治が当面安泰と知って機嫌がいいようだ。
肝心の北畠家も織田と争う気はないらしい。当然と言えば当然だな。勝てぬのだ。しかも北畠家の嫡男は織田と親しいとも聞く。桑名にしても服部にしても迂闊に敵対した結果だ。仕方ないのであろうがな。
「これも世の常か」
弱き者が強き者に従う。仕方なきことなのであろうな。堺では南蛮船を造っておると聞いたが、その後の話が聞こえてこぬ。あまり上手くいっておらぬのであろう。
せめて一戦交えて勝敗を決めるくらいはしたかったと思うのは、過ぎたるものなのであろうか。
Side:佐治為景
久遠殿は知っておるのであろうか? 殿がかつては虎と恐れられておったことを。わしもそれほどよく知るとは言えぬが。
婚礼の儀のあと、披露目の宴にて笑みを絶やさぬ殿を見ておると、ふとそんなことが気になった。
尾張は言うに及ばず、他国の者も恐れておったほどのお方。古参の家臣の者に聞いても昔は恐ろしかったという者もおる。
「まさか清洲の大殿様がこうしてお見えになるとは。ありがたや、ありがたや」
それが今や仏と呼ばれており、僅かな供の者と共にお見えになったことに年寄りどもが喜んで拝む者までおるほどだ。
「これこれ、止めぬか。わしはまことの仏ではないぞ。拝まれても困るわ。それにまだ仏になる気はないぞ」
「確かに、生きている間に拝まれるのは困りますよね。私たちも時々拝まれて困っています。ケティが一番拝まれますけど」
殿は拝む者に困ると楽しげに笑うと、久遠殿も同意して笑っておる。今や天下にその名が轟いておるおふたりなのだがな。
久遠殿のことは今も恐ろしいと言う者もおるし、よくわからぬと言う者もおる。とはいえ自ら腹を割って話すと悪く言う者はおらぬ。
生まれ育った土地が違うのだ。久遠殿とて仕来たりの違いが分からず困っておるのだからな。お互いさまであろう。
「ああ、これも美味い。久遠様の御本領を思い出しますなぁ」
「当家の祝いの料理のひとつになります」
そうそう、今宵は料理とケイキを作ってくれた大智の方殿たちも宴に加わっておる。わざわざやってきてケイキを作ってくれたのだ。まさか他所で待っておれとも言えぬからな。
共に久遠諸島まで行った者たちは、大智の方殿とあの頃が懐かしいと宴の料理を楽しんでおる。
久遠家では同じ船に乗る者は家族のようなものなのだという。いつの間にか当家でもそのような思いを感じる者も多くなった。
陸地が見えるところを走る船と、周囲を海に囲まれたところを走る船とでは訳が違う。家中には久遠家の苦労を理解して親しみを感じる者も多いのであろう。
あとは子だな。子が出来れば、我が佐治家は安泰であろう。
Side:久遠一馬
今回のケーキはフルーツケーキだった。見た目は真っ白い生クリームだったけど、中にはシロップ漬けのフルーツを入れたものだ。
果物自体が高級品なこの時代なだけに、佐治さんと佐治家の皆さんも喜んでくれた。
宴は朝まで続き、翌日は大野城で一日休んで、この日は信秀さんと知多半島の視察に出ている。
季節柄、青々とした自然があるわけでもないので、景色としては殺風景になる。
「あれが木を植えておるところか」
信秀さんが最初に目を付けたのは植林中の山だった。山に木がない問題は度々警告しているので、織田家でも認識は高まっている。植林が一番進んでいるのは知多半島の佐治家の領地だ。
まだ大きくなっていないが、最初に植えたところは順調に育っていて、時が過ぎるのが早いなと感じさせる。
植林自体が大きな利益になるものではない。木々も同じものをまとめて植えるのではなく、複数の種類を植えている。
桑の木やみかんなどのいずれは利益になる木もあれば、広葉樹や針葉樹もある。あとは竹林がやはり成長が早いね。
竹炭の生産を主に見据えて植えている。あまり手を掛けなくても、植生侵略的に増えないようにと、ため池の代わりに堀で囲んで対策をしているが、今のところ上手くいっているらしい。
「思っておった以上に酷いな」
「これでも良くなったんですよ」
禿げ山と荒れ地というか、手付かずのままや、土砂崩れなども放置された、そんな自然が多い知多半島。開拓しようにも水がないので人の数が一定以上増やせないんだろう。
そんな景色に信秀さんは、なんとも言えない顔で考え込んでいる。
とはいえ佐治さんの領地はまだマシだ。水軍の収入もあるし、漁業や海苔の養殖の収入もある。ウチで頼んでいる芋類の生産も米と比較して悪くない程度の値段で買っている。
佐治さん以外の水野さんの領地は、漁業と海苔の養殖くらいしかてこ入れをしていないので、多少暮らしが落ちるだろうが。それでも領民には感謝されているくらいだ。
「やはり塩の味がするな」
その後、近くの村に立ち寄り視察をする。この地域などでは大きな甕に水を溜めるなど工夫しているが、雨が少なくなると水に苦労する。
信秀さんは井戸の水を飲むと少し微妙な顔をした。
「一馬、エル。知多に水路を優先して引くための策を考えろ。水害も困るが、ここを放置してもおけまい」
「わかりました」
信秀さんの決断は早かった。やはり水の問題はこの時代の武士には最重要な項目のひとつらしい。
「多くは望まぬ。田んぼは無理でも、もう少し水がなくては如何ともしようがあるまい」
そう。信秀さんもわかっている。この地域に水路を引く難しさを。田んぼを作るほどの水路を引くのか。それとも飲み水や生活用水だけでも優先させるのか。
史実の知多用水を参考によく考える必要があるね。
九鬼定隆
海賊大名の九鬼嘉隆の父親。














