第五百六十二話・尾張への帰還と信光さんの冬
Side:久遠一馬
三河の慰霊祭も終わり、今川家との交渉役を残してオレたちは尾張に戻ってきたが、留守中に義龍さんの息子の喜太郎君が風邪で倒れたみたい。
「それで、何故倒れたのだ?」
「どうも天守と時計塔の普請が気に入ったようで、一日中ずっと眺めていたようなのでございます。それで風邪を引いたようでして……」
信秀さんは毒を盛られたかと警戒したのだろう。関係者をひとりずつ呼んで話を聞くことにした。
オレとエルも同席したんだけど、毒の可能性はないと病院を任せていたヒルザも報告したことで一気に緊張感が緩んだ。
肝心の風邪の原因は普請場を眺めていたことらしいね。この寒い冬に、ずっと外で普請場を眺めていればそりゃあ風邪も引くよ。
「これからは見ておる時は、寒くないようにしてやれ」
信秀さんも仕方ないなと笑っている。どうも珍しい建築物である天守と時計塔がお気に入りだと報告があると、今後は気を付けるようにと注意をして終わりだ。
今日はまだ風邪が完治してないので部屋で大人しくしているらしいが、早くも普請場が見たいと言っているとか。
もう少し大きくなれば違うんだろうが、まだ自分の身分とか立場をわかってないだろうしね。まあ信秀さんも悪い気はしないんだろう。
それと近江の方は、病院で手伝いを始めたらしい。いいのか?と思うが、留守を守っていた土田御前と、病院を任せていたヒルザが話し合って決めたみたい。
乳母さん共々、色々と責任を感じたということと、今後のために衛生指導とか教えているみたい。
尾張に残るなら、さっさと働いたほうが本人的にも楽だろうしね。織田家中も安心するだろう。それと下手な身分の者の下で働かせると問題になるが、ウチは信秀さんの猶子だから手頃だ。
斎藤家としても久遠家の医術から子供への対処を教わっていると言えば、悪い気はしないだろうしね。
「それにしても太原雪斎め。なかなかやるな」
喜太郎君の一件が終わると、三河の情勢について報告があった。松平宗家の岡崎城にて、太原雪斎から今川が西三河から退くと直接言及したらしいと、松平宗家側の一部の国人から密かに連絡があった。
西三河の親今川の国人衆は、軽いパニックに陥っているところもあるほどだ。
「巧い手ですね。ここで遺恨を残すよりは、明瞭に筋を通すほうが今後の影響がまったく違います。人質を解放したことがこれで大きく生きてきます」
「こちらの考えから学ばれたか」
エルが雪斎を褒めている。もともとエルの評価が高い人だけど、これで西三河に大きな遺恨を残さずに済むしね。誇りと体裁を重んじるこの時代で、ここまで巧く損切りできるのは珍しいのかもしれない。
信秀さんはそれを織田から学んだと考えるらしい。ということは雪斎は以前はこういうことをする人じゃなかったということか。
この時代に限らず、一旦広げた領地を上手く縮小させるなんて難しいことだ。たとえろくな利益がないような僻地でも、領地を守るために全力を尽くすのはいつの時代も変わらない。
まして今川はまだ負けてないんだ。本證寺との戦でも力を見せたし、誰もがまだまだやれると見ている。そんな中での自主的な領地の放棄。やはり並の男じゃない。
「恐ろしき相手だな」
信秀さんの表情も険しい。同席する重臣は少し緊張気味になるほどだ。本当に恐ろしいね。さすがに史実で三国同盟を成立させたと言われるだけはある。
「今川が本気になれば、六角や朝倉などを反織田でまとめられるのではありませぬか?」
「叶わぬことではないと思います。ですが、その先に今川の安泰が見えぬのでしょう」
ここでひとりの重臣が素朴な疑問というか、今川が本気になればという仮定の疑問を口にするが、それに答えたのはエルだった。
同席している皆さんが、その答えに息を呑むのがわかる。
確かに織田包囲網ができてもおかしくはない。畿内も混沌としているのでそう単純ではないが、あり得ないと断じるほどではないんだよね。
ただ、雪斎が考えているのは織田の打倒でも今川の天下でもない。今川が生き残る最善の道をみているだけなんだ。
仮に包囲網を敷いても十年は混沌としたまま戦が続くだろう。その先に今川が生き残る道を見出せなかったと考えてもおかしくないからなぁ。
あとは雪斎の寿命が尽きる前にどこまでやれるかということか。客観的に見ていると手を貸したくなるほどの人だね。
Side:織田信光
酒造りのための村の賦役が進んでおる。近頃は賦役に慣れた連中が増えて仕事が驚くほど早い。
「兄上、ここにおいででしたか」
「おう、四郎次郎か」
賦役の様子を眺めておると下の弟である四郎次郎がやってきた。名を信実という。因幡守家を継いだ信友の監視のために奴と共に三河に行っておったのだが、先日三河に行った兄者と一緒に戻ってきたのだったな。
「兄上も酒を造るとか?」
「ああ、これからはいかにして稼ぐかだ。それにわしは文官の真似ごとはできぬからな」
何用かと思えば、酒造りを見に来ただけか。兄者も与次郎兄も政で国を治めるために苦労しておるが、わしにはできん。
その代わり、わしにできることをするまでのことよ。
「変わりましたね。織田一族は皆、争う暇もないほど忙しい」
「いかがした? お前も酒を造りたいなら、一馬に頼んでやるぞ」
少し遠くを見つめるような四郎次郎は珍しい。なにかあったか? 兄者や与次郎兄は忙しくて気軽に相談もできんだろうしな。話くらいはわしが聞いてやるか。
「あいにくと忙しいので、今は無理ですね。明日から美濃の斎藤家との交渉に稲葉山城まで行かねばなりません」
「そうか。お前は戦よりもそっちが性に合っておるのだったな」
四郎次郎はあまり武芸が得意ではなく、亡き父がこの荒れた世で生きていけるかと案じておったな。その代わり四郎次郎は人あたりがよく、誰にでも好かれる男だった。
下の弟ということもあり、あまり目立つ存在ではないが、今の織田家では最も忙しい内のひとりであろう。
「三河では清洲の兄上と久遠殿の名を聞かぬ日はありませんでした。それ故、少し不安があります。いつか兄上と久遠殿が対立すれば……とね」
「それはないな。兄者と三郎が一度に討たれでもせぬ限りは、織田は安泰だ。お前は兄者と一馬を甘く見過ぎだ。あのふたりがそんな無駄なことをするはずがない」
「無駄ですか?」
「無駄だ。兄者も一馬もわしやお前より遥か先を見ておる。無論、意見の相違で対立はするかもしれん。だがそれで敵対することはあるまい。異なる意見をぶつけて、話すことこそ意味があるそうだ。一馬の受け売りだがな」
何事かと思えば、久遠家とのことで悩んでおったのか。確かに久遠家は別格だ。家臣としては大きすぎるし、異質だからな。
四郎次郎はあまり一馬たちを知らんから、そんな不安を感じるのかもしれん。
家中でさえ理解しておらんが、一馬は自らの天下どころか一国の国主すら嫌がるだろう。それに兄者は一馬が本気で自ら天下を狙うなら、下について支えるかもしれん。
それだけ一馬の見ておる新たな世を楽しみにしておるからな。
対立も必要だ。一馬自身がそう言うのだ。評定などそんな一馬の考えから皆が意見をぶつけておるのだ。それが上手くいけば、つまらぬ理由で謀叛を起こす者も減るであろう。
「一馬はな。希望なのだ。皆のな」
兄者と一馬は誰も止められぬ。わしはそう思っておる。
無論、止めようとする者はわしが排除してやるがな。
四郎次郎。織田信実。信秀や信光の弟。














