第五百六十話・広忠と雪斎
Side:松平広忠
我が岡崎城の広間はなんとも言えぬ様子だ。
こちらからの文の返事すらろくに寄越さぬ今川家から、太原雪斎和尚が西三河にやってきたのだ。
主要な用件は織田が行なった慰霊祭、その場を用いての探りであろうが、その織田との交渉の合間を縫って岡崎城に来たのだ。
「和尚! いかがなっておる! これでは三河は織田に奪われるぞ!!」
「左様々々! 今川家は我らを見捨てるおつもりか!!」
家中の親今川の者たちは溜まりに溜まった鬱憤を晴らすかのように、さっそく和尚に詰め寄っておるわ。比するにすでに織田に降ることを覚悟した者は冷めた様子で見ておる。
さて、和尚はこの事態を如何するつもりであろうな。
「世の流れは日々刻々と変わっておる。むやみに争うばかりが道ではあるまい。現に織田は矢作川から東には自ら手を出しておらぬ」
この一言に静まり返った。すでに今川が織田に和睦を求めたことは三河でも知られておる。織田は和睦を拒否したが、停戦ならばと交渉をしておるらしいがな。
とはいえ和尚ならば織田を三河から追い出すことができると、本気で信じておる者たちが家中にはおったのだ。そんな者たちの信じられぬという表情が、わしを軽んじる名ばかりの家臣共に浮かべば、あの愚か者どもの末路を如何にしてやろうと、暗き想念に囚われるが面白くもある。
「その方らに大所高所は望まぬ。敵は織田ばかりではないのだ。甲斐の武田は同盟破りを致した。関東の北条は未だに当家との関係が良くない。今川家とてできることとできぬことがある」
あの太原雪斎和尚が、ここまで素直に話すとはな。こちらが今川を裏切ったことにしたいのかと思うておったが。わしの考え過ぎであったか?
「それではやはり、今川家は我らを見捨てると言うのか!!」
「さにあらず。もし今川家に最後まで尽くしたいという者は、駿河に来るがいい。己の所領と今川家への忠義。いずれを取るか選ぶがよかろう」
「なっ、従う者の所領を守らぬ者に誰が忠義を尽くすものか!!」
実の所、西三河を損切りか。織田との交渉がいかがなっておるのかは知らぬが、これ以上西三河だけに手を煩わされるのは困るということか。やはり今川の狙いは甲斐の武田か。
同盟破りのうえに信濃で負けたと聞く。弱いところを攻めるのは当然と言えば当然だ。
「そこまで言うならば答えるが、己の所領を守るために今川家に擦り寄り、利用しようとした己らに、言われる筋はなく、卑しきを知らぬ者の妄言など聞きとうはないわ。今川家への忠義だ? ならば所領を捨ててでも今川家に尽くせ。わしはこの身のすべてを御屋形様に捧げて尽くしておるわ」
愚か者どもが黙った。確かに忠義を尽くす者を守ることは必要であろう。とはいえ西三河にそこまで今川に尽くしておった者がいかほどに居ようか。
「松平殿、すまぬな」
結局、和尚の言葉に誰も抗弁反論叶わずと相なったところで、人払いをして和尚とふたりで話すことにした。和尚は開口一番で先ほどまでとは違い、穏やかな顔でわしに頭を下げてきた。
「和尚……」
さすがに度肝を抜かれたわ。まさかわしに頭を下げるとはな。
「そなたは理解しておろう。織田は強く賢いのだ。今川家が織田と本気で争えば、四方が敵だらけになることも考えねばならん」
最早、今川も織田に、ひいては三河に拘ってはおられんということか。世の流れとはいえ、なんとも言えぬな。
「今川家と御屋形様には感謝しておりまする。御屋形様のお力添えがあらねばわしは家を継ぐこともできなかったはず」
今川が礼儀を通すならば、こちらも通さねばなるまい。考え方次第では悪い話ではないのだ。父上のように三河の統一の夢は無理であろうがな。それにわしの今があるのは、今川のおかげということに変わりはないのだ。
「この先、織田にも苦しい時は必ずくるはずだ。だが、織田を敵に回すことはせぬほうがいい。恐ろしきは南蛮船でも明や南蛮の知恵でもない。それを扱う久遠家の人なのだ。それをよく覚えておかれるとよかろう」
和尚は最後にわしに助言を残して去った。
久遠家の人か。確かに皆が南蛮船とその知恵を、驚き恐れるが、真に恐れるべきは扱う人ということか。
敵対しても今川にはもう利は望めぬ。西三河を放棄して、領内・体勢を立て直して甲斐に活路を開くか。一時は主家として仰いだ今川の在り様には、なんとも悲しきものがあるな。
とはいえ、これでわしはすべて己の責で負い考えて動かねばならなくなったわけか。
Side:久遠一馬
この日、安祥城城下には近隣から多くの領民が集まっている。ケティとパメラが臨時で診療所を開いたことが原因だ。かわら版や紙芝居で事前に告知していたこともあり、驚くほど多くの領民が列を作っている。
「人の数と名を調べたことが、ここにも役立つのだな」
貧しい人からは銭を取らないので、本当に近隣のあちこちから集まっている。とはいえ問題もあって、織田領以外からの便乗目的の患者も多い。
診療所の前では人口調査で調べた情報を基に、どこの誰なのかを確認する作業が行われていた。信長さんはそんな様子を見て、人口調査の意義を改めて理解したみたい。
「薬代はこちらの銭ですからね。従っていない人たちは当然費用を頂きます」
病院の表向きの運営費は基本的に織田家から出ている。ウチでも表立った支援は公表しているけど、詳細は公表していない。病院はあくまでも織田家による領民のための施設なんだ。今回の臨時の診療所に関してもそうだ。藁にもすがる思いの人たちには申し訳ないけど、優先するのは織田に従う領民であり、そのほかは診ることは拒まないが無料とはいかない。
西三河も皆さんが頑張ってくれたおかげで、領民の名簿くらいはすでにできているんだ。
「それにしても、無料というのも考えものだな」
ただ信長さんは無料という診療の問題点にも気付いたようで、少し考え込んでいる。
今回も噂が噂を呼んでいるようで各地から患者が集まっているが、またもや問題も起きている。
真っ先に問題を起こしたのは、吉良家の領民だ。特に西条吉良家は矢作川の西側にあり、ずっと織田寄りの姿勢を示していた。
吉良家もその領民たちもそう考えていたんだろうが、厳密には独立領であり今回も無料とはならない。
吉良家も慰霊祭に招待したので参加しているが、吉良家の領民が無料で診療を受けられないことに納得がいかないと騒ぎ出して問題を起こしたと聞くと、申し訳なさそうに謝罪をしていた。
吉良家の家臣でさえも、松平などの今川家に臣従していたところと同じ扱いであることに不満だったらしい。とはいえ『織田の領民への施しを強請るなら、その地は織田の領地として認めるのか?』と言えば、黙って目を逸らす。中にはこちらを睨み付けて来たり、自領民に怒鳴り散らす人もいたけど。正式な臣従かどうかが今の織田では大きな基準なんだよね。
吉良義安もまさか無料で領民を診ろとは言えなかったのだろう。素直に謝罪していた。
それと西三河の一向衆で残った寺は、ほとんどが織田に従うと誓紙を出したので、今回は受け入れている。
検地も人口調査もやったからね。武装も最低限以外は保持を禁じたし、分国法を守るように命じた。その結果、彼らにも織田家による賦役と行政サービスを受ける権利がある。
まあ寺の中には未だに、織田に敵対しないので手を出すなというところもある。現状ではそんなところはとりあえず放置している。いちいち相手をするほどの勢力も残ってないしね。織田家による行政サービス等から除外されるが、それは自己責任となる。
しかしまあ領民からすると、吉良だろうが、松平だろうが、今川だろうが、そして寺だろうが関係ない。賦役もそうだが、今回のような診療も受けられないことで不満が溜まる。
織田に臣従しない者たちはそれが面白くないようだが、それをこちらのせいにされても困るんだよね。臣従したいというなら現状では受け入れているんだ。ただし、今までと同じように領地に口を出すなという人は臣従を受け入れてないだけで。
中にはまだ今川に期待している人もいるしね。少数だけどさ。一部の織田嫌いな人たちは最終的には家臣や一族に当主押込めや討たれそうな感じだ。
とはいえ、西三河の織田領は確実に安定している。それが救いといえば救いだね。














