第五百五十八話・停戦交渉
Side:太原雪斎
いよいよ、織田との停戦に関する話し合いが始まる。駿河では織田の条件に幾許かの重臣が不快・不承を露わにしたが、武田が信濃で敗れたことで強固な反対まではしなかった。
北条と織田が誼を深めておることは、明らかなのだ。西と東から攻められると今川家とて危うい。東の北条と西の織田を相手にしつつ、南からは久遠の南蛮船が来るかもしれぬからな。
その上、武田を信じる危うさは誰もが理解しておる。
「はてさて、何故このような形に田畑を整えるのだ?」
「織田のやることは理解に苦しむ」
前回寄らなかった本證寺の跡地では織田の賦役で整えた田畑が見られた。わざわざ銭を出してまで、何故田畑を整えたのかと疑問を供の者が口にした。
織田のやることは理解に苦しむ。まさにそれが今川家の本音だ。各地からの人質を返してしまったかと思えば、このようなことに銭を使う。
織田の力は今川家を遥かに凌ぐのはわかるが、今までのことを見ておれば無駄なことではないと思うのだが。
「なれば、停戦の期日は延ばせぬと?」
「我らは元々停戦など望んでおりませぬ」
交渉相手は大うつけと評判もあった織田信長と、信秀の下の弟である織田信康、それと久遠一馬と大智の方だ。ようやく信秀の懐刀を引っ張り出せた。
取り仕切るは長年信秀を支えてきた織田信康か。停戦ですらあまり望んではおらぬようだな。若輩の信長は後学のための同席というところであろう。
とはいえ真の交渉相手は久遠一馬と大智の方だ。わしの見立てでは近年の信秀の陰には久遠家がちらつく。このふたりを説得できねば、和睦どころか停戦すらできぬはずだ。
「そもそも今川家は、なぜ甲斐を攻めるのですか? 今川殿の先頃身罷られた奥方の実家でしょう?」
張り詰めたような場において、独特の佇まいで黙っておった久遠一馬が口を開いた。そのようなわかりきったことを。何故わざわざ……。いや、それが狙いか。
「甲斐の武田の振る舞いはあまりに非道で傍若無人。同盟も裏切り、和睦などないも同然。まさに天に弓引く所業を見過ごせませぬ」
名分はあるのだ。武田の同盟破りは織田とて知っておろう。だが久遠一馬は少し冷めた目で拙僧を見ておった。
「今川殿は武田との同盟が邪魔になったので奥方を殺めたと噂もありますが? それにその程度の理由で同盟相手を攻める、今川のどこを信じればよろしいので?」
「おのれ! 御屋形様を愚弄するのか!!」
なにを考えておるか読めぬ男だ。だが久遠一馬の挑発するような言葉に、同行した者たちが激高してしまった。
「止めよ。噂だと言っておろうが。そのようなことはあり得ませぬ。お疑いならば駿河に来られるとよろしかろう。疑念は瞬く間に消えること、請け合いなれば。御屋形様はさようなことは決して致しませぬ。それに武田晴信は実の父を追放したような男。いつこちらを攻めてきてもおかしくないのでございます。駿河を守るためには、致し方ないこと」
愚か者が。つまらぬ挑発に乗りおって。まだ今川家が織田の上だと考えておるのか。相手は信秀の猶子にして、今や日ノ本にその名を轟かせておる男ぞ。こちらを信じられるか値踏みしておるのがわからぬのか。
長い遺恨と対立を解ぐしていくには、根気強く話す必要があるのだ。織田は天下の形勢を左右しかねぬ存在になる。そんな織田との遺恨や対立は拙僧が生きておる間に減らしておかねばならぬからな。
織田とて話す気はあるのだ。それは大きな成果であり前進だ。この道に立ち塞がるは、家中が未だに、足利家ゆかりの今川家という権威と、斯波家を退けた昔に執着しておることか。
三好風情から逃げる程度の足利家など、最早風前の灯火であろうに。未だに存命なのは利用価値があるからだ。誰かが足利討伐に立てば足利の世など終わる。昔の武勲ごときで今を見る目を塞ぐ家中もいかがしたものか…。
この会談は今川家の行く末を左右するものぞ。なんとしても話を纏めねばならぬ。
Side:織田信康
なるほど。その辺の猪武者とは違うか。すでに今川の立場が弱いことを悟り、この場に己の命すら懸ける覚悟があると見える。さすがは今川家にこの人ありと言われる太原雪斎だな。
然れど、一馬殿もなかなかやる。太原雪斎ではなく、ほかの者を挑発して今川を試したか。これで一馬殿が今川との停戦に賛意しておるとは夢にも思うまい。
そもそも織田はまだ足利一門と言える今川と真っ向から対立するほど余裕はないのだ。それを悟られてはならぬからな。久遠家の負担が大きすぎる。もっとも家中ですらほとんど理解しておらぬことだが。
「今川家の言い分は承りました。織田としては、武田家の言い分も聞いてみたいですね」
「なっ……」
なんとか話の流れを掴もうとする今川方に対して、一馬殿は更に揺さぶりをかけた。言い分は間違ってはおらぬ。されど今川と武田を比べて値踏みするようなことを堂々と公言するとはな。
「織田家は同盟破りの武田を信じると?」
「話をするくらいしてから判断するべきでしょう。相手には相手の言い分がある」
上手い。ほかならぬ一馬殿が言えば、武田と組むこともあり得るのかもしれぬと、わしですら思うてしまうほどだ。雪斎の顔色も変わったな。
「そもそも、今川家は斯波家と織田と停戦することで家中が纏まるのですか? それに甲斐を奪えば今度はこちらを攻めてくるのでしょう?」
「そのようなことは致しませぬ」
「そうは言ってもね。今川家だと公方様を動かしてでも織田を潰そうとしても驚きませんよ」
答えたくないことははぐらかしておるな。家中を纏められるのかは答えぬわ。まあ太原雪斎が健在ならばよかろう。然れど、それなりに歳だ。家中に己の代わりになる者もおらぬ様子。
武田との戦が上手くいかぬ場合、雪斎が失脚することも考えねばならん。その後は武田と組んで西か東に討って出ることも十分あり得るのだ。
実の所、ここは少し無理をしても今川を潰すべきではという意見は、織田家中にもあるくらいだ。
「ずいぶんと言いたい放題だったな」
話し合いは隔たりの埋まらぬままで終った。決まったのは明日も話すということだけ。
終始無言だった三郎は、今川方が会談の場から去るとようやく口を開いた。本当に久遠家の者とはよく話す。他の家臣にもこのくらい話しかけてやるとよいのだが。
機会をみて言ってみるか。以前ならともかく今ならば話せば聞いてくれる。エル殿と土田御前に指摘されてばかりでは三郎も困るであろう。
「舐められては駄目だと学びましたからね。最初は強気にいくべきかと。それに今川方で織田との和睦を心から願っているのが、太原殿だということはわかりましたよ」
学んだか。確かに一馬殿は甘さが欠点だからな。兄上もそれを案じておった。一時の甘さでより多くの後悔をするかもしれぬとな。一馬殿の若さもある。付け入る隙があると見縊られては、苦労するのは目に見えておるが。
ということは、いつにも増して乱暴な物言いだったのは狙いか。策を授けたのはエル殿か? いや、メルティ殿もありうるか。人の心の隙を突くことは恐ろしいほど上手いからな。
「事前の内偵と合わせると、今川家中はまだ織田との停戦に納得していない勢力が多いのでしょう。それは重大な懸念材料になります。結局今川とは、いつかは戦わねばならないのかもしれません。問題は裏切りの武田をどうするかということと、今川といつどこで戦うかということでしょうか」
今回は発言こそなかったが、エル殿は自ら志願して同席した。直に見極めたかったのかもしれんな。今川家の現状を。
そう、いつかは戦わねばならぬはずだ。ただ今川と戦をすれば武田が横殴りしてくるかもしれぬ。最悪の場合は関東も再び騒がしくなる。
わしも昨年の本證寺との戦で学んだ。戦とは終わらせることを考えて始めねばならんということをな。現状では終わらせ時があやふやということが、久遠家が戦に反対する理由かもしれぬ。
今川は戦の終わりをいかに考えておるのであろうか?














