第二千二百三十一話・大人か子供か
Side:久遠一馬
近江に戻る義輝さんたちとの別れの宴。
いろいろあったが、和やかな雰囲気だ。今日は本膳料理がメインとなる本来の形での宴なんだけどね。これもたまにやると悪くないなと思う。
史実では戦国時代と言われた頃だ。とはいえ、冷静に今の時代を見ると、なんとか踏みとどまっていると思う。
オレたちの影響で斯波家と織田家が大きくなり過ぎたことを除けば。それもまた争いを呼ぶ一因になりつつあるが、力がないとなにも出来ないのが世の中だ。
流れる血と積み重なる因縁は多少なりとも減らせている……と思う。
今回の目的、義輝さんや足利政権と相互理解を深める。これは上手くいったと思う。疑心暗鬼が一番危ない。無論、不満や問題がまだ相応に残っているが、少なくとも争わずに解決出来る信頼関係を構築しつつある。
なので、今後も定期的にこういう機会は作らないと駄目とは思う。
それと、六角義弼君。聞いていた話よりも悪くない。オレ自身を格上だと認識させたことで、相応に対応したことも含めて。
所詮、社会に出たばかりの子供だし。
一応、形式に合わせた形は出来ているんだ。ただ、蒲生さんや目下の者への対応を見聞きすると、正直、関わりたいタイプではないが。
六角家、史実もこの世界も難しい立ち位置なんだけどね。どういうわけか、彼の教育はそこまで上手くいっていなかった。限られた人としか関わらない閉鎖的な社会は他も同じだけど、それでも相応に上手くやっている人はいるんだよね。
「慶次を近江に遣わしまするか?」
義弼君を見ながらのんびりと料理を楽しんでいると、隣にいる資清さんがそう耳打ちしてきた。ほんと、年々凄くなるなぁ。オレの考えを察しているんだから。
確かにあのタイプには慶次のような人を近くに置くと効果はあるだろう。ただね……。
「そこまでしなくていいよ。春たちがなんとかする。慶次ならやれそうだけど、それでも滝川家は近江を捨てた身だからね」
ほんと、それも考えたんだけどねぇ。慶次は一種の劇薬だからな。それに外に出た滝川家が六角家の嫡男の周りにいる。六角家中と近江への影響が怖い。
「八郎殿はどう思う?」
「……難しゅうございますな。迂闊なことは言えませぬが、近習は増やすか変えるべきかと心得まする。諫める者がおりませぬ故」
やはり、そこが気になるか。近習は特に問題を起こしていないものの、義弼君を恐れて怒らせないようにとしかしていない。
それなりの家だと、どこもそんなものなんだろうし悪くはないんだけどね。困ったことに六角家の現状だと、城に籠ってお殿様として威張っていればいいわけじゃない。
資清さんが言うように諫める者がいないのは致命的だ。まあ、そうでもないと、史実で長年仕えていた宿老を殺したりしないだろうが。
「少し様子を見よう。あまり急激に変えてもどうかと思うし」
とりあえず一度戻って、尾張での日々をどう受け止めどうするのか。それを見極めてからでも遅くないだろう。
Side:六角義弼
長いようで短い尾張での日々を終えて、近江に戻ることになった。
未だによう分からぬところばかりなれど、分かったこともある。この国は京の都も畿内も興味がないということだ。己らだけで己らのために国を豊かにして生きてゆく。
畏れ多い故と前置きしつつ外を捨て置くのだ。鄙の地という実情からすると口を出すなどおこがましいというのもまた正しいが、本音は畿内も関東も要らぬというのが透けて見える。
愚か者など勝手にしろ。そう考えると得心がいく。わしとて愚か者の始末など関わりとうもない。
祖父上と父上はそれを察して、尾張と誼を深めておるというところか。高貴なれど貧しい国になるなど御免じゃからの。
武衛殿、弾正殿、内匠頭殿。あの方々を前にすると、近江では己ら以上の者などおらぬと言いたげな顔をしておった五山の僧ですらへりくだり、わしの近習のように顔色を窺うようになる。
神仏の権威も、仏の弾正忠の国には通じぬらしい。いささか興ざめしたわ。寺社を信じることがいかに危ういか、それを学んだだけでも来てよかったと思う。
もっとも、ひとつ懸念があるが。
「達者での。かような世だ、難儀するであろうが……」
滞在中、世話になった若武衛殿との別れの挨拶にいかに返すべきか悩む。
「数々の配慮、痛み入る。武衛殿以下、皆々に伝えてくれ。過分な配慮を受けたことは忘れぬとな。もっとも、次に会う時には、わしは仏門にでも入っておるかもしれぬがな」
戻れば廃嫡にされるかもしれぬ。いや、わしが父上なら間違いなく廃嫡にする。父上は内匠頭殿のように甘くはない。
「さて、そう容易く終わるかな。そなたの天命はこれからであろう。のう、慶次郎よ。そなたもそう思うであろう?」
「左様でございますな。仏門より厳しき日々が待っておられるかと。春様は厳しゅうございます故。仏門などという楽な逃げ道など許されぬかと」
この男は最後まで変わらなんだな。誠なきように振る舞い続けたうえで、この言葉か。仏門を逃げ道とは、なんと不敬な。わしの近習らの顔が青ざめるのを楽しんでおるわ。
「いつか、そなたを本気にさせてみたいものだ」
「ハハハ、いつでもお待ち致しておりまする」
逃げるな。そういうことであろうか。愚か者は愚か者なりに懸命に生きろということと受け取って相違あるまい。
面白うないところもあるが、この男を本気にさせたい。そのためにも、廃嫡にされるその日まで……わしは懸命に生きてみるか。
それも、悪うない。
◆◆
永禄五年、六月。足利義輝が花火見物のために尾張を訪れた。
この頃、すでに義輝の権威は歴代将軍と比べても高いものとなっており、尊氏や義満と並び立つとさえ言われたという逸話が同時代の資料に散見している。
すでに政治の実権は義輝本人が握っており、若狭に滞在中の管領細川晴元や京の都に残っていた政所伊勢貞孝など、義輝の政敵となりうる人物でさえも敵わないほどになっていた。
ただ、義輝はすでに若かりし頃に目指したとされる将軍親政から方針転換し、久遠家の助言のもとで文官を主体とした文治政権へと移行していた。
政権運営自体も、近江と尾張の二元政治となっており、義輝と政権配下の奉行衆は、織田家との意思疎通が必要になっていたことで、この公式訪問が行なわれたことが『足利将軍録・義輝記』に記されている。
これには当時、久遠家の影響により『尾張だけ近代』と言われるほど進み過ぎていた尾張と足利政権の難しい関係が背景にあったと考えられている。
滞在中、津島天王祭の奉納花火の折には、義輝は自ら花火見物に集まった織田家中の者たちに声を掛けて歩いたとされ、多くの者が感極まって喜んだという逸話が残っている。
のちにそれが京の都に伝わると、京の都に戻らぬばかりか将軍の権威を軽んじるような振る舞いだと思われたらしく、『婆娑羅将軍』などと公家衆が陰口を叩いたという記録がある。
なお、義輝は武芸者菊丸として尾張では顔が知られていたことで、素性が露見するのではと案じる声もあったという。ただ、『足利将軍録・義輝記』によると、義輝はそんな者たちの様子を楽しむくらいには余裕があったとされ、義輝にとって尾張が心許せる地となっていたことが窺える。
もともと、尾張における義輝の世評は悪くなく、武芸好きなど高じて尾張との交流は深まっており、これ以降も義輝の尾張訪問は幾度もある。
永禄五年、六月。六角義弼が足利義輝の供として尾張を訪れている。
義弼の尾張訪問は元服前に一度あり二度目であったが、この時は六角義賢の名代としての来訪だった。
滞在中、彼は義賢の要請により尾張で学ぶことになっていたが、滝川秀益を侮辱するという失態を演じている。
ただ、その後は終始大人しくなり、謙虚になったことが関連する資料から窺える。
この前後の義弼の資料は多くないが、ひとつ明らかなのは、察しろと言いつつ臣下や傅役を思うままに動かそうとすることを、尾張訪問後は止めたということだ。
いきさつは不明だが、近江に戻ったあと、腹の中まで見抜かれるのは恐ろしいと語ったという逸話があり、誰かに見抜かれたのだと思われる。
ほか、義弼自身、武芸で秀益に勝ちたいと公言し励むようにもなり、この後、何度も手合わせをしたという記録が残っている。














