第二千二百二十話・夏の日のこと
Side:久遠一馬
関東でも米の収穫が減りそうだという情報が尾張に届いた。十中八九、史実並みの飢饉になるだろう。
ただ、現時点ではそこまで危機感は世の中にはない。今日も湊屋さんと商いに関して相談しているが、それが顕著として表れている。
「米の流入は続いているか」
「米以外に売るものがないところもございまする故に……」
東国も貨幣経済は浸透している。室町時代は貨幣で税を治めさせていたからね。常に領国の外から品物を買うには、銭が必要となり銭を得るために売る品物がいる。
一番多いのは、やっぱり米なんだよね。現状だと尾張産の品物やウチの商品を扱っている織田領と、関東では伊豆下田に米が集まる傾向にある。
お酒、砂糖や香辛料、絹や綿織物、鉄や鉄製品などなど、関東もいろいろと買っていくんだ。
結果として織田や北条に米が集まる。北条では領内で生産した米と集まる米を備蓄しているのでいいが、それ以外は……。
「関東は、ただでさえ米が足りなくなりそうなんだけどなぁ」
「……ようあることではございませぬか?」
飢饉の可能性は、すでに織田家中に伝えていて六角と北畠と北条にも知らせた。当然、湊屋さんも知っていることだ。そんな湊屋さんでもこの反応なんだよね。
実際、そこまで深刻な現状か分からないし、そう伝えているので湊屋さんの反応で問題ないんだけど。
織田家としては、飢饉の動向次第では米の領外への持ち出しに制限を掛ける方向で調整していて、駿河・甲斐・信濃などに流民が殺到した場合の対処を密かに検討している。
「まあ、そうなんだけどね」
湊屋さんはオレの懸念を察しているものの、はっきり言うとオレたちにはどうしようもないことだ。
元の世界でも行政区域が違うと仲が悪いとか細々とした問題があったしなぁ。この時代だと外国とみるのが当然なんだよね。
「殿、他家のことに口を挟むのはようございませぬ」
悩んでいると資清さんに苦言を呈された。確かに、オレの悪い癖なんだよなぁ。
「そうだね。とりあえず東からの商いは気を付けるようにしてほしい」
「はっ、畏まりましてございます」
今までだって大なり小なり天災は起きているが、オレたちにあまり影響はなかった。少し神経質になり過ぎていたのかもしれないな。気を付けよう。
Side:仁科盛康
役目から戻ると、書状が届いておった。思わず苛立ちそうになる己を律する。
「また三社からの書状か?」
「はっ、左様でございます」
中身を見るまでもない。家臣にそのまま捨てるように命じる。小笠原の殿の仲介ですでに三社とは和解しており、すべては終わったことだ。
「よろしいのでございますか?」
「最早、仁科の地はわしの所領ではない。戻ることもないのだ。縁もない寺社のために骨を折ることなどありえぬわ」
書状の内容は寺社奉行と信濃代官殿へのとりなしであろう。未だ相手にされておらぬと聞き及ぶからな。当家と三社の和解はしたが、それとこれとは別問題だ。
和解の折、わしは信濃を出た身故、三社に口を出さぬと誓ったのだ。その時は言わなんだが、今後、世話など致さぬし、己らの都合しか考えぬ嘆願も聞く必要がないということ。
三社と織田家のことはわしが関わることではない。それは前に返書として書いたのだがな。それでもまだ書状を送ってくるとは。寺社とはなんと傲慢な者の集まりなのか。
「仁科の名は変えたほうがいいのかもしれぬな」
あの地に戻る気はないのだが、ほとぼりが冷めた頃に戻ると思うておるのやもしれぬ。名を変えて二度と戻らぬと示すべきかもしれぬ。
尾張に来て小笠原の殿がいつまでも信濃に戻られぬわけを理解した。信濃を出て以来、一度も戻っておられぬのだ。信濃衆にはそれが不満であり、信濃を軽んじておると陰口もあるが、なんということはない。
信濃を捨てたのだ。殿は。
家臣とした元国人衆らでさえ、弟の民部大輔殿に任せたままだ。尾張に来てからも殿からは一度も信濃のことを問われたことなどないし、信濃の家臣のことを口にされたこともない。
いいのか悪いのか、わしには分からぬが、代官殿と民部大輔殿が上手くやっている以上、それでよいのだろう。
当然、三社からの嘆願は殿のところにもあるが、相手にしておられぬ。
かつては左様な殿に苛立ちも感じたが、それでもまだ許されただけ仁科は扱いが良かったのだと今更ながらに理解した。
おっと、三社のことなど相手にしておれぬ。わしはまだ尾張を学んでおる最中だからな。新しき政の本を借り受けてきたのだ。明日までに読んでおかねば。
Side:織田信康
酒を飲もうと孫三郎がやってきた故、孫三郎が造った自慢の酒で盃を酌み交わす。
「城を捨てて楽になったな。飲みたい時に飲みたい者のところにすぐに行ける」
楽しげに語る孫三郎に、思わず苦笑いを浮かべてしもうたわ。所領と城、己と一族にとってなにより大切なものだったはずなのだぞ?
「そなたの左様なところは幼い頃に戻ったようだな」
立身出世よりも海に出たいと言うていた弟だ。今では武官大将の役目に就いておるが、それでも内匠頭殿に船を借りて海に出ることがある。
織田家でも孫三郎くらいだ。役目でもないというのに、海に出たい故、船を貸してほしいと内匠頭殿に言えるのは。
「さてな、いかがであろうな? わしは今の世を生きておるだけだ」
「かもしれぬな。故にそなたは内匠頭殿の信が厚い」
内匠頭殿にあれこれと遠慮なく頼む孫三郎に家中の者らは驚くこともあるが、なんということはない。内匠頭殿は孫三郎のように今を楽しむ男を好むのだ。
「一時は所領を広げたいと考えたこともあるぞ。一馬を見ておったらその気がなくなったがな。己と一族が生きるのに要らんからな。城も所領も」
確かに、城を得て所領を広げたとて争いはなくならぬ。あのまま兄上が所領を広げて力で尾張を平らげたとしても、その先にあるのは我ら兄弟が争うことかもしれぬ。
孫三郎はあまり働いておると聞かぬが、それでもおらねば困る。いざとなった時に将として出て差配出来る男は多くないのだ。内匠頭殿は戦も新しくしてしもうたからな。
「二度とかつてのようには戻るまい。懐かしむ者はおるが、いざ戻るかと問うと否と言うはずだ」
一族、家臣、土豪、寺社。領内にはいつ刃を向けてくるか分からぬ者がおる。城を持ったとて、気の休まることなどない。少し遠乗りに行こうと思うたとて、他人の所領に行くには先触れを出さねばなにをされるか分からぬ。
孫三郎ではないが、今は楽なのだ。それは身分に問わずあろう。
本当に、このまま畿内も関東も捨ててしまいたくなるほどだ。余所の者のために労を買うなど望むはずもない。兄上や内匠頭殿は一廉の者ゆえ、先を考え動いておられるがな。
凡人にとっては、畿内も関東もいかになろうとも興味がないのだ。














