第二千百九十七話・訓練が終わって
Side:仁科盛康
避難訓練か。まさか火事が起きた時を考えておるとは……。
密かに落城に備えておる者はおる。されど、それを明らかとして、火事や地揺れなどを考慮して皆で逃げるのを試すか。あり得ぬ。間違いなく織田以外ではやるまい。
「仁科殿、此度の避難訓練にていかに動いたか。また、気付いたことを書面にて書いてくれ」
役目に戻ると、小笠原家中の皆が報告の書状を書き始めた。なるほど、ひとりひとりに確となにをしたか書かせるのか。やることが細かいな。
「ひとつ聞きたいのだが、刀も持たずによいとはいかなるわけだ?」
「ああ、それか。なにを持って逃げるか。そこで揉めるのを防ぐためだそうだ。あれも持てこれも持てと命じられると逃げ遅れる故にな。清洲城では火元に近い者らに対し、家宝もなにも持つなと命じられておる」
信じられぬ。斯波家か織田家の習わしか? それとも久遠家か?
「内匠頭殿は命を粗末にする者に厳しいと聞いた。前に殿がお教え下されたが、今後、代を重ねて家宝やらなにやらと増えた際に、持ちだす品が増えて我らの子孫が死ぬことを嫌ったとか」
言わんとすることは理解する。されど、それを命じることが出来る男がいるとはな。寺社の者ですら体裁を気にするというのに、あの御仁は命を第一とするのか。まことに仏の化身ではあるまいな?
「なんと言うていいのやら……」
信濃を離れる前、代官名代であるイザベラ殿に言われたことを思い出した。仁科三社など捨ててしまえとな。
命ある限りやり直せる。そういうことか。織田の強さの神髄を見せつけられたようだわ。
「戸惑うのは分かる。されどな、慣れると楽だぞ」
信濃と違い、尾張では因縁があろうとあまり気にする者はおらぬ。何故、左様に考えられる? 所詮、人など信じるに値するまい。坊主ですら軽々に見捨てるのだからな。
まあ、わしが知らずともよいことか。家を残して面目も立てていただいた。それ以上は望むまい。愚か者扱いされるなど御免だ。
Side:ジャクリーヌ
年に数回、避難訓練をしているけど、それなりに成果と課題が出てくるね。ただ、何度も訓練していることで、避難する手順や経路を迷ったりすることがなくなったのは大きい。
アタシは火消し奉行であるセレスと共に、上がってくる報告書をまとめている。
「連携は悪くないね」
「形を確と決めましたからね」
火消し隊、警備兵、武官、文官など所属や立場も違うが、人命優先で避難することには慣れつつある。ただ、判断が難しいこともまた多い。
女子供と身分のある者はすぐに逃げるようにと定めているけど、火の勢いや風向きを見つつ、火元から遠い場所の避難。具体的に貴重品や重要書類の扱いなどに関しては、毎度意見が上がってくる。
地震のようにすぐに逃げるべき災害のほうが判断は楽なんだ。
火事が起きた際の差配、指揮は火消し奉行になる。今回はセレスだね。火の勢いを見て、即逃げる場所を定め、猶予があるところには対策を命じる。
判断が難しいんだよね。未だにセレスが奉行を兼任している理由になる。
「そろそろ尾張全域を想定して訓練したいところだね」
「そうですね。戦時の動きも含めて必要な頃です。検討してみましょう」
今のところ避難訓練は、城を基本として学校や工業村、病院など一部の施設でしかやっていない。大々的にやって戦支度だと騒がれても面倒だという意見があってね。
商家などには蔵の防火対策をすることなど、いくつかのマニュアルを示してやらせているけどね。
ただ、今の尾張だと全体での訓練がないと、災害時に混乱が起きかねない。火消し隊や雷鳥隊だって、そこまで各地にいるわけじゃないしね。平時の防災と災害時の想定をもう一度、一から検証したほうがいいかもしれない。
Side:久遠一馬
熱田祭りを前に、尾張にある品物の量や売値について確認している。物価の安定は経済政策の要になるんだ。
「殿、これはいかが致しましょう?」
ひとつの書状を確認していたのは水口盛里さんだった。甲賀出身で史実では長束正家の父親となった人。ウチに仕官してしばらくは忍び衆として働いていたが、割と早いうちに文官になっており、今は商務の仕事を主にしている。
「まったく坊主は欲深いね」
商務という役目上、ここにはあれが欲しいこれが欲しいという要望ばっかりが来る。昔みたいに脅しの書状はさすがに来なくなったけどね。
商務や外務の仕事をしていると、坊主のえげつなさを知るので信心深い人がいなくなるなんて冗談が清洲城では聞かれるくらいだ。
水口さんが見せた書状は畿内の寺からで、一方的に欲しい品があるので譲ってほしいというものだ。
「断わりの書状を書いておいて」
「はっ、畏まりましてございます」
こういう自分のことしか考えない要望はほとんど受けていない。畿内にだってそれなりに流通させている。値段が高いけど。欲しければ買え。
尾張の物価や売値なんかを知ると、こちらと交渉して手に入れたほうが安いと考える寺社が最近増えているんだ。仮に売るとしても、当然、畿内に売る時は畿内の相場で売る。さらに領内優先なので、ろくに縁もないところにほいほいと物資を融通することはまずない。
「そこは商い禁止のところよ」
「ああ、そうか。それなら商いを禁止にした理由を書いて、今後書状を寄越さないように返書しよう」
メルティに言われるまで気付かなかった。織田家の商い禁止リスト、今でもかなりの寺社や武士の名前が残っているんだ。オレもすべて覚えてない。寺社なんて似たような名前のところもあるし。
「あれか、脅しの使者をウチに寄越したところか」
記憶を辿ると思い出した。ろくでなしの寺だなぁ。嫌なことは忘れることにしているから名前だけだと気付かなかった。
よく知らない寺社に配慮する義理はないし、使うお金もない。
実は近江あたりにもそんな寺社が結構あったんだよね。六角家と同盟関係になって以降、そんな寺社は責任者が謎の急死となったり、寺社を追放されるなどしたところが多い。
そのうえで、しかるべき仲介者を経て謝罪を受けたことで許している。あまりに酷かったところは、ウチが単独で絶縁したままのところもあるけど。
今のところ双方共に困ってはいない。
「そういや、神宮の報告も減ったね」
「北畠家が田丸に御所を移したことで、それどころじゃないそうよ。北畠家との和解を優先していると聞いているわ」
なんだ。大人しくしているんじゃないのか。少しがっかりだ。
なら具教さんに任せていいか。こっちは夏祭りの支度で忙しいし。














