第二千百四十七話・戻ったことで
Side:楠木正忠
お方がたが八戸に戻られた。
留守中のことを申し上げるものの、特に懸念するべきことはない。しいて言うならば、由利十二頭の未だに降っておらぬ者らから新年の挨拶にと使者が来たくらいか。
「さすがね。そろそろ私たちが離れても困らなくなったわねぇ」
季代子様が左様なことを申されると誇らしげにする者も僅かにおるが、森三左衛門殿が困った顔をした。本気ではあるまいが、本気にする愚か者が奥羽衆におる。ここはわしの役目か。
「お言葉でございますが、当面はお方様がたがおらねば奥羽領は上手くいきませぬ。すべて某らの不徳の致すところ。申し訳ございませぬ」
頭を下げ深々と謝罪すると、三戸殿や浪岡殿など僅かな者を除いて驚いておる。おそらく励んでおる皆に配慮したお言葉であろう。されど、それが良うないのだ。
口惜しいが、この地は久遠が治めねば、すぐにでも愚か者どもが騒ぎ出すであろう。大乱といえば奥州藤原氏を頼朝公が討伐したことまで遡るほど。
「牛頭馬頭殿が謝罪することじゃないわ。貴方がいないと私たちは動けなくなる。感謝しているもの。それにね、誰が治めても争わない国にする。それが私たちの役目よ。確かに今は難しいかもしれない。でも、古き世からあり続ける奥羽にとっては、その日はすぐそこまで来ているわ」
三左衛門殿の顔色とわしの言葉で、お方さまがたは我らの懸念を察した。いや、違うの。初めから承知で言われたのだ。三左衛門殿とわしが懸念を示すことを理解して、皆を褒めつつ引き締めるために。
この事実に気付いたのは、浪岡殿と高水寺殿くらいか。
「さて、今年の米の作付けはいかがかしら?」
「はっ、尾張と他の領国と比べて、米の採れ高が悪い地では稗に変えさせてございます」
奥羽衆が一番戸惑うのはこの件だ。稗など食えたものではないと不満も聞こえてくる。されど、確かな報告書でこの地での稲作が難しいことは明らか。
「稲はもともと冷害に弱いのよね」
米を引き続き植えたいという声もある故、優子様は悩まれておるな。久遠にあるという寒さに強い稲さえ持ち込めば、変わると聞き及ぶが……。
ただ、その件は奥羽衆の主立った者にすら、まだ明かしておらぬこと。森殿が持ち込むことに異を唱えておったはず。時期尚早であろうな。
Side:優子
抵抗も大きかったものの、米から稗への転換も進んだ。領国、地域単位での稲作の生育や米の収量調査を地道にしていたことが役に立ったわ。
奥羽では、現状の品種と農業技術による稲作は難しいとしか言いようがない。
無論、平均気温など条件が整えば稲は実る。ただし、冷夏とかちょっとした気候変動で一気に駄目になるのよね。
データを基になるべく効率的な農業をやる。これがなんとか東日本で飢饉となる今年に間に合った。蝦夷や大蝦夷からの食糧輸送を合わせると、領内はなんとか食べさせられる目途が立った。
「ご飯の支度をする時間だから、私は先に下がる」
あら、もうそんな時間なのね。由衣子の担当である医療関係はあまり進展がないのよね。寺社との信頼関係がないことで一部風土病の調査などをしつつ、月に数度、医師による領民向けの診療をしている。
とはいっても人口密度があってないような地域だから、ほんと八戸や大浦など主要な拠点と近隣の領民しか医療を受けることは出来ていないけど。
「今日は山菜おこわにする」
「それは楽しみね」
「うん、期待していて」
由衣子に声を掛けて見送る。相変わらずマイペースねぇ。ただ、そのくらいのほうが奥羽の地では向いている。
シルバーンと尾張のバックアップがあるとはいえ、この地の役目は大変だし、由衣子の場合、私たちの健康と命を預かっているしね。
ケティのように率先して人を救おうとすると、背負うものが増えすぎて私たちアンドロイドでも厳しいもの。
ここでは毒を盛られるなど、身辺への危険が尾張と比べ物にならないほどある。虫型偵察機などの監視もあるし、料理番は子飼いになる。他にいる周囲の者たちも細心の注意を払ってくれている。
この地で私たちは国人、土豪、寺社、村のまとめ役などには恨まれているのよね。
実のところ、この地に長期滞在していると思うところがある。恨まれてまで統一をする必要があるのかという疑問よ。尾張では同じ疑問から、畿内への介入には否定的な意見が大半なのよね。そのため統一の方針は今も秘匿されている。
司令とみんなも頑張っているし、あえて和を乱すこともないからと言わないけど、私は正直、そんな大半の意見に同意する部分が少なからずある。
配慮に配慮を重ねた結果が神宮のような結末になったことで、今後はそんな意見が増えるでしょうね。ほんと、どうなるんだろうね。
Side:久遠一馬
菊丸さんが戻ってきた。いろいろと土産話を聞いていると、将軍としての政務の大変さを痛感する。
足利政権は過渡期に差し掛かりつつある。旧来の秩序と権威、統治法を継承したままだが、問題の少ないところから変えている部分があるんだ。
将軍を支える体制も管領細川や政所伊勢を抜いた形で構築していることで、一部ノウハウが継承されておらず、そこは六角と織田で主に支えている。
上手くいけば足利将軍は義輝さんで最後にすることになるだろうが、足利政権の再建は本気で取り組んでいる。政権返上を明かすと混乱するのは目に見えているし、こういう経験もまた貴重だからね。
「人とは勝手なものだな。将軍を辞めるつもりのオレが言うていいことではなかろうが」
だいぶストレスが溜まっているみたいだなぁ。現政権の悩みの種は相も変わらず畿内になる。畿内を治めることが足利将軍の仕事でもあるので当然ではあるけど。
いつの時代もそうだが、義務は最小限に権利は最大限にってのが人だからなぁ。
鄙の地だと馬鹿にしていた東国との対立構造が深刻となりつつあり、東国への流通経済の主導権も失った。
最後の頼みの綱になるはずだった朝廷の権威が、譲位外しと義統さんが今以上の官位を要らないと言ったことで通じなくなりつつある焦りが畿内にはある。
矢面に立っているのは足利政権なんだよね。織田、六角、北畠が国内改革を優先していられるのは、奉行衆が間に立ってくれているからという事実は大きい。
この時代の感覚では、そこまでおかしなことをしている勢力はない。賄賂や脅し、血縁を用いた圧力などオレとしては酷いと感じることもあるが、挙兵するだの戦だの騒がない時点で褒めなくてはいけない程度だ。
ただ、義輝さんの権威が高まり足利政権が正常に機能し始めたことで陳情や嘆願、訴訟が山のようにくる。
まあ、奉行衆から不満はあまり聞かれない。彼らは本来の役目、立場を取り戻したことで喜んでいる。大変だと愚痴はあるみたいだけど。
足利政権、無責任に見ると義輝さんの権威が高まったことで上手くいっている。ただ、そんな状況になると、政権の方針や統治法など政権内で対立や軋轢が起こらないわけがない。
義輝さんは将軍親政や中央集権の路線だが、他は少数の側近以外はそこまで新しい形を望んでいないしね。義輝さんの権勢が強いので異を唱える人はまずいないが、水面下ではいろいろと動きがある。
さらに、父親の義晴さんや義輝さんを見捨てるように離れた者も多いが、かつて足利政権で立場や家職があった者の中には、当然のように昔の立場や家職を求めて動く者もいるし、そんな者たちは新しい形も勢力も好まない人が相応にいる。
義輝さんと朽木にいた頃に従っていた者たちは、そんな者たちを恨んでいるし信じてもいない。もっと言うと邪魔にすら思っている。
人手不足もあって謝罪があれば仕方なく使っている者もいるけど、性格的なものもあってか義輝さんは自分で管理と監視をしたがるんだ。ただ、正直なところ、そんな体制は整っていない。
五山の僧だっては今のところ大人しいが、どこを見て働いているのかも定かじゃないし。
これ、尾張で支えているから上手くいっているけど。手を引くと瓦解するんだろうなと思う。
ほんと政治って難しい。














