第千三百二十九話・三国の思い
side:今川氏真
『彦五郎、すまぬ。父はそなたに厄介なものしか残せぬ』
尾張の魚は金色酒とよく合う。何故か、魚の臭みがなく味がより引き立てられておる。左様なことを思うておると、駿河を出る前に生まれて初めて父上に頭を下げられた日を思い出してしまった。
父上は決して子に頭を下げるような男ではなかった。公家よりも雅で武士よりも勇ましい。そんな父上のはずであった。
雪斎和尚は『未だ世の広さを知らず、すべては拙僧の愚かさ故のこと』と申されて、努々尾張を甘く見るなと念を押しておられた。
もっとも父上と雪斎和尚は、今でも斯波と織田を打倒すべき敵手と家中に示しておる。甲斐信濃の次は三河と尾張だとな。そうせねば家中がまとまらぬことも分かる。されど……。
織田に戦わずして負けたのは父上なのだ。正直、隠居をして臣従といわず、己で最後まで責めを負ってほしいと思うところもある。
潔くはあるのだろう。それが誰にとってもよい始末なのも理解する。名門である今川家が斯波の家臣ごときに臣従するなど、斯波の先代を打ち負かしたことを自慢する家臣らは決して許すまい。さらに斯波と織田も命まで奪っては恨みが残る。大人しく隠居して出家すると言えば喜ぶだろう。
とはいえ父上は出家して雪斎和尚と穏やかに祈りの日々を送り、オレが下げたくもない頭を下げねばならぬとは、いささか理不尽にも思える。
決して口には出さぬがな。
「のう彦五郎。そなたこの祭りをいかが思う」
我に返ったのは無人斎殿の問いかけであった。
「賑やかな祭りでございますな」
祖父でもあるこの御仁からも教わることが多い。今川と武田が手切れとなり争うておるというのに涼しい顔をして駿河におる。オレの祖父という事実もあろうが、裏切りも戦もようあることと少し冷めたことを以前教えてくれたのだ。
「同じことが駿河で出来るかの?」
それは難しかろう。父上が命じれば家中の主立った者は否とは言うまいが、民をかように集め、商人や僧侶もとなると出来るとは思えぬ。
「豊か故に出来たというわけではあるまい。畿内とてやっておらぬこと。伝え聞く久遠の知恵とやらのおかげか。同じことが出来ぬというのは恐ろしいの」
それはそうであろう。尾張と駿河。なにが違うと問われたところで違うことばかりだ。
『織田の功は商いやものづくりを寺社から奪ったことであろう』と駿河におる公家衆のひとりが、かようなことを酒の席でこぼしておったことの意味が分かる。
寺社は商人も職人も抱えておるからな。故に武家も軽々しく敵に回せぬ。織田と対峙するときは寺社のごとく扱うべきなのかもしれぬ。
さて、いかにするべきか。父上はもう気力が尽きておる。これからはオレは己の意思で動かねばならぬのやもしれぬな。
今川を残すために。
Side:武田義信
甲斐から連れてきた家臣と尾張におる家臣。まるで敵である今川や小笠原のように互いに口も利かぬ。
甲斐では疫病・旱魃・大風と今年だけでも立て続けに起きておる。人馬が次々と死して、人家は倒壊し田畑の作物も駄目になった。かような中で尾張の家臣らが贅沢な暮らしをしておることに許せぬと怒ることは当然であろう。
聞けば家臣は織田の下で働いておるというではないか。武田を裏切り織田に寝返ったらいかがするのか。父上は何故、かような勝手を許すのか。
しかし武芸大会とやらはなんと不謹慎な。武門の誇りも忘れ、武芸を見世物とするとは。
武士の本分は日々武芸を磨き、己の領地を治めること。少なくともわしはそう教わった。にもかかわらず、ここ尾張はいかになっておるのだ?
西保三郎などすっかり織田に毒されておるではないか。導いてやるべき傅役も尾張にはおらず家臣らが勝手なことをしておる。これでは西保三郎が哀れでならぬ。
敵を卑怯などと謗る者は愚か者だ。わしは家臣にそうも教わった。いかなる相手でも隙を見せたほうが愚かなのだと。なのに何故、ここではこれほど皆が集まり笑うておれるのだ。
主君と家臣といえど隙を見せるのは出来ぬこと。父上でさえそうだというのに。ここでは守護である斯波武衛殿からして、家臣である織田内匠頭らと談笑しておる。
いかになっておるのだ? わしは甲斐源氏の嫡流武田家を継ぐものぞ。武士たる誇りと生き様を世に示さねばならぬのだ。公家かぶれの今川とは違う。
領国に戻れば、皆、敵となるのだ。へらへらと笑みを見せてなれ合うなど致さぬ。
堕落した世を現したような者らとはわしは違うのだ。
Side:北条氏康
最早、同じ日ノ本の国と見るのは誤りかもしれぬ。斯波と織田は天下に名乗りを挙げぬだけで、実情はすでに天下を押さえつつあるのやもしれぬ。
民も僧も武士もひとつとなる。それがかような光景か。恐ろしいとしか思えぬわ。
気になることはまだある。今川と武田の嫡男だ。いずれも武士としては相応の育てられ方をしたらしいが、今川の嫡男は織田の力を理解しておるようで自ら進んで懐に飛び込んでおるわ。
武田の嫡男は対極よな。織田の力を理解しておるかは分からぬが、己の武士としての威を示して甲斐源氏ここにありと見せつけたいらしい。戦場で会うた時に恐ろしいのは武田の嫡男かもしれぬ。
されど、ここは戦場ではない。恐ろしいのはむしろ着々と友誼を築いておる今川の嫡男か。
「左京大夫殿、いかがでございますか?」
「良い祭りだ。皆がこうして共に励めば、争いも減ろう」
相模でも驚くほどの槍の手合わせを眺めつつ考えごとをしておると、尾張介殿が酒を注ぎにきた。かつて小田原で会うた時より大人になったのだなと分かる。
偉大な父と己を超える家臣とも同盟者ともいえる男を友としても、腐らず己の役目を全うしておる。ついわしは己を尾張介殿と照らし合わせて考えてしまう。この男も並みの男ではないとな。
「小田原では今でも花火は良き酒の肴。祝宴あれば誰彼となしに口にしておる。織田は闇夜を照らす花を咲かせるのだとな」
「それはようございました。和を以て貴しとなすという思いが、僅かでも伝われば幸いでございます」
叔父上がかつて語っておったことを思い出す。尾張介殿や内匠助殿は領国のみならず日ノ本の明日のことを考えておると。
わしは考えたこともなかった。日ノ本の行く末などな。
足元を見ずに夢を語るだけなら愚か者でも出来る。されど尾張者は足元を確と固めて明日を見ておるのだ。
「伝わっておろう。故に、これほど多くの国から主立った者が集まったのだと思うぞ。これは日ノ本にとって大きな一歩だ」
叔父上と新九郎に助けられたな。おかげでここでは事実上の同盟相手として遇されておる。織田の者らも叔父上や新九郎を懐かしみ、特に叔父上の教えを受けたと語る者が多いことに驚かされた。
帝や公方様の信も厚い。このまま織田と共に生きるべく考えねばならぬ。
今巴殿が言った言葉の意味がよくわかるわ。














