S.T.I.N.G.
日本で登録されている眼鏡型デバイスの数が総人口を上回るようになって既に久しい。そしてそれに先んじて普及したブルートゥース接続は人間の手を受話器の支配から完全に、かつ永久に解放していた。もしもあなたがこの二つの技術の発展が何をもたらしたかを知りたいと思うのなら、昼飯時にオフィス街のカフェやレストランを覗いてみるといいだろう。
スーツを着た人がヘッドセットを耳に着けないで食事をすることは今や昼間からビールを注文することより珍しくなった。短い休憩と安い食事をそこには居ない家族や親しい友人――気の合わない同僚や苦手な上司ではなく――との会話でささやかにでも彩ろうというアイディアは、変わらない労働時間と変わってしまった労働観の板挟みにあった人々の間で静かに、しかし確実に歓迎されていた。眼鏡型デバイスの立体映像伝達と組み合わせられたハンズフリー通話がもたらしたもの。それは同じ場所に居ない者たちが一緒に囲む、異なる食事の並ぶ一つの食卓だった。
だから三十路も半分を過ぎた男が不機嫌そうに頬杖を突きながら一人で何かを呟いていても、彼が眼鏡をかけてヘッドセットを身に着けている以上、それは今日ではもはや決して不自然な光景ではなかった。店の壁に時計がないことに気付いて彼は口を開く。
「アンダーリム、今何時だ?」
チェスターコートを羽織る長身の男がそう尋ねると、アンダーリムと呼ばれた話し相手はすぐに返事をした。落ち着いたメゾソプラノの声が、その左の耳を覆うヘッドセットを介して男の耳に入っていく。
「十二時、三十二分ですね」
「何だ、まだそんな時間なのか」
「鏡次は食べるのが早すぎるんですよ。ええと、なんでしたっけ? その新商品」
「デラックスチーズinサバサンド?」
「そうです、それ。そんな千キロカロリー以上もあるのを四分で食べるなんて私には信じられません。私、何度も言ってますよね? 早食いは体によくないって」
「ああ、何度も聞いてる。けどこっちが食べたいものをどう食べるかくらいは好きにさせてくれ」
奥まったカウンター席に座る長身の男――丸目鏡次はその他人を寄せ付けない、気難しげな表情を崩さずにそう答えた。テーブルの上では既に半分減ったコーヒーと、綺麗に四つ折りにされたサバサンドの包み紙が居心地悪そうにお互いの距離を測りかねている。
「そうだ、食べたいものと言えばですね」
「何だ?」
「ボンゴレロッソって知ってますか?」
「知ってるけど」そこまで馬鹿にするな、と鏡次。
「駅地下のお店ですごくおいしいところがあるらしいんですよ。一回食べてみたいなー、なんて?」
あからさまに媚びた声音をアンダーリムは出してみせた。だが長い付き合いもある手前、鏡次はそれくらいではもはや動じない。
「まあ、食べられるもんならな」
「つれないですねえ。でもきっと本当においしいんですよ。ネットの評判がすごくいいんですから。それと」
「ボンゴレロッソはお前の好物だったな」
「その通りです」とアンダーリムの嬉しそうな声。
鏡次はズボンのポケットからハンカチを取り出し、たいして汚れてもいない口元を二、三度拭った。コートの袖が重力に従って少しだけめくれ、その下に隠れていたスーツとワイシャツが姿を見せる。ハンカチをポケットに戻した鏡次はネクタイに手を掛けて今一度しっかりと締め直す。そんなどこかくたびれた、しかしありふれた仕草を見ている限りは彼もまたこの店に居る大多数の人々と同じどこかの会社の務め人(フレームで隠した目の隈の酷さからすれば残業の多い部門の管理職といったところか?)にしか見えないだろう。
だから誰も彼の正体に気付くことはない。丸目鏡次の百八十センチを超える体が一切の無駄なく鍛え上げられていることも、白の一本筋が特徴的な黒地のスーツの下にガンホルダーが隠されていることも、肌に密着するインナーの材質が防寒性だけではなく防弾・防刃性にも優れた特殊なカーボンナノチューブであることも、今この店に居る者の誰一人として知らない。
鏡次は足下に置いた鞄からタバコとライターを探し出した。思っていたよりも時間があったから食後の一服と行こうというわけだ。いつもと同じキャスター・シルクを一本引き抜くと口にくわえ、そしてライターに火を点けようと指先に力を込める。
「あ、ちょっと、鏡次。ダメですよ」
しかしその時、アンダーリムが彼の名を咎めるように呼ぶ。
「何が?」
「ここ、禁煙席」
指摘されて鏡次は思い出す。今日は店が混んでいたから喫煙ゾーンに座れなかったのだ。
「吸ったら罰金ですよ」
「ああ……そういえばそうだったな」
タバコを箱の中に戻しながら鏡次はそう応じた。別に吸えないならば吸えないで構わないのだ。彼が生まれた頃にはもうタバコはどんなに安くても一箱で五百円する時代。五年前までは鏡次もタバコというものはコンビニのレジの上か奥に置いてある飾りという認識しか持っていなかった。そういうわけで彼は食事と一緒にタバコを吸える場を求めて方々の店を回るという習慣を持つ方の人間ではなかった。
とはいえ、それは決して丸目鏡次が禁煙席と喫煙席の違いに無頓着であることを意味していない。むしろ問題があるのは店側の方だ。社会(いわゆる「世間」というわけだが)が分煙なるものをあたかも社会契約以前より存在する自然権のごとく扱った結果、一時期には確かに見られた分かりやすい案内表示はすっかり姿を消していた。ただ店内にはガラスと壁で区切られた一区画が存在しており、タバコを吸えるのはそこだけだという事実を知る為には実際にその店に入り、そして周りの客がどう振る舞っているかを観察しなければならない。さもなければストレスの導火線に笑顔でシールをした店員に敢えて問い掛けてみる必要がある。
だからもし誰が鏡次とアンダーリムとの会話に耳を傾けていたならば、きっとその人は違和感を覚えたに違いないだろう。眼鏡型デバイスはセンサーで捉えた装着者の体の動きをあらかじめ入力しておいた3Dモデルと同期させ、そして更にそれを装着者の視線を追うカメラの映像と補整・合成することで相手側に自然な立体映像を送信している。その映像からでは店の様子はおろか、喋っている相手の背後に何があるのかも分からないのだ。入力用のカメラを他に用意してたとえばテーブルの上に設置でもすれば話は別だが、そんなことをする人はまず居ない。持ち歩くものを極力減らす為に開発されたウェアラブルデバイスを使いこなす為に却って持ち歩くものが増えるのでは本末転倒もいいところだ。事実、鏡次の前にあるテーブルの上にはそのような類のものはどこにも見当たらない。
ならばいったいどうして、アンダーリムは鏡次にここが禁煙であることを教えられたのだろう? 少し表現を変えれば、どうやってアンダーリムは鏡次が今座っている場所が禁煙席であることを知ったのだろう?
「少し早いが、戻るか」溜め息混じりに鏡次は言う。
「いいんじゃないですか? 署の喫煙所に寄って行く時間もあると思いますし」
「昼休みだ。混んでるだろ?」
「賑やかって言い方もできますよ」
「それが嫌なんだ」
そう言うと鏡次は残っていたコーヒーを飲み干した。熱い感触が胸の奥を一気に駆け下って行き、昼食の消化が始まって眠くなりかけた彼の意識を覚醒させる。そうして彼が立ち上がった、その時だった。
一瞬、鏡次の視界を激しい光が覆った。太陽光線を鏡で反射したような鋭い煌めき。だが彼の目に飛び込んできた光の正体は、そんな子供の悪戯とはまるで異なっていた。
遠雷にも似た耳障りな轟音が光に続き、店中の窓ガラスを重たく震わせる。その振動を前にして、お喋りに興じていた周囲の客も次第にこの異常に気付き始めた。彼らの顔には来て欲しくないものが来てしまった時の諦観と、そしてそれだけでは覆い隠すことのできない恐怖が滲み出している。
そんな中で鏡次は一人、役目を終えた包み紙と紙コップを乗せたトレイを持って歩いていた。と、店中の眼鏡型デバイスがけたたましい警告音を発し、それに続いて心をかき乱す合成音声が一斉に流れ出す。
「こちら首都警察鯖江、こちら首都警察鯖江。テロ事件が発生しました。みなさん、外出は極力避け、速やかに命を守る行動を取ってください。繰り返します、こちら首都警察鯖江……」
そのメッセージを聞いた人々は一様に検索エンジンを起動させ、最新の情報を得ようと必死になった。テロはどこで起きたのか、どういう種類のテロだったのか、今居るこの場所に留まっていて安全なのか、警察の対応はどうなっているのか――。
だが丸目鏡次は彼らが躍起になって知ろうとした情報の全てを既に知っていた。いや、正確にはアンダーリムが彼に教えていた。ゴミを捨て終え、トレイも返却場所に戻した鏡次は情報の取捨選択に(或いは発信に)追われる人々を背にし、静かに店を出た。そして駐車場に停めておいたバイクに跨ると、今一度耳に着けたヘッドセットをしっかりと着け直す。
「現場は?」
「はい。現場は伊達眼鏡店本社ビル。ここからなら五分の距離です。渋滞がなければ、ですがね」
「急ぐか。交通規制をやられる前に」
「それがいいでしょう。今からなら予定現着時刻は……十二時四十三分です」
「分かった。行くぞ、リム」
伊達眼鏡本社ビルは六十二階立ての高層ビルだ。核のテロで崩壊した東京に代わり今や日本国の首都となった鯖江特別市の中でもその威容は群を抜いている。世界の眼鏡生産の八割と、眼鏡型デバイスの生産の九割を担う大企業に成長した伊達眼鏡店は鯖江市を首都候補になるまで成長させた立役者であり、もはや鯖江市そのものであるとすら言えた。
その象徴的なビルは今、低層エリアの砕けた窓から黒い煙を噴き上げ、爆発でめちゃくちゃにされたロビーをなすすべもなく晒すという無惨な姿に変わっていた。その周囲に続々と警官が集まりつつあるが、彼らはただ遠巻きにビルを囲んでただ煙を見上げるだけだった。
「お、おい! ちょっと、そこのバイク!」
そこに一台のバイクが猛スピードで飛び込んで来る。ヘルメットも被らず、ただチェスターコートの裾をはためかせて丸目鏡次はその警官隊の包囲網を一気に抜けて行った。そして伊達眼鏡本社ビルの正面ロータリーまで辿り着いたところでようやく彼はバイクを停める。
「何だ、お前。こんなところに来るんじゃない! メッセージは届いてるだろ? テロが起きたんだ! ここは危険なんだ、早く行きなさい!」
と、鏡次に向かって真新しい制服と制帽を着けた警官が食って掛かる。暴走運転やヘルメット非着用を責めるよりも先に安全の確保を優先した辺り、おそらく警官としてはわりと優秀な部類に入るだろう。
だがそんなことは鏡次の関心事ではまったくなかった。鏡次はバイクから降りるとコートとスーツの前をばっとはだけさせ、スーツの下に隠れていたガンホルダーを彼に見せた。そのホルダーには楯状の模様の中に三つの扇をかたどったエンブレムが描かれており、その下には鯖江市の象徴である眼鏡の図案が縫い取られている。初めて見るそのエンブレムに警官が驚くのもまるで意に介さず、鏡次はこう言った。
「タテセンだ。ここの責任者は誰だ?」
それを聞いて警官は更に驚いた。タテセン――対テロ専従特別捜査官――の存在こそ彼も知っていたが、それはどちらかといえば事実としてではなく、ネットに書き込まれる与太話のひとつとしてであった。だから本物のタテセンが存在することなど、つい一週間前に警察学校を卒業したこの警官にとってはにわかには信じがたいことであった。ましてや鏡次がどうしてわざわざボタンを外してガンホルダーを見せたのかなどは、彼にはまるで理解できないことであった。
「今んとこ責任者は俺だ。丸目」
硬直するばかりの新米警官の肩を軽く叩きながら、四十代といったところだろうか、白髪交じりの警官が姿を現した。
「黒渕さんか。良かった、話が早く済みそうで」
「どうせお前はこっちが何言っても行くだろうに」
黒渕近太は皮肉交じりにそう言ったと思うと、すぐに威儀を正して鏡次に向き合い、敬礼した。すると鏡次も背筋をすっと伸ばして黒渕に答礼する。
「首都警察鯖江・黒渕近太警部補からタテセン・丸目鏡次警視へ。事件の鎮圧を要請します」
「要請を受領。これより鎮圧を行う」
新人の巡査は目の前で何が起きているかよく分からないまま、ただ交互に鏡次と黒渕の顔を見やるばかりだった。だが鏡次が先に手を降ろし、それから黒渕が敬礼を止めたのを見て、彼はタテセンというものの存在が真実であったことを理解せざるを得なくなり始めていた。
「アンダーリム、記録したな?」
「当たり前ですよ、心配しないで下さい」
鏡次はここでもなおアンダーリムの名を呼んだ。その返事を得た鏡次はコートを脱ぎ、それをバイクの上に適当に放り投げる。そしてガンホルダーからリボルバー式の銃を抜くと回転弾倉を開いて弾を込め始めた。
その様子は、しかし、あの警官を驚かせるばかりではなく恐怖させた。鏡次が一発目に空砲を用意せず、当然のように全ヵ所に実包を装填したこともその理由だが、しかしそれ以上に、鏡次が持っていた銃は彼の知っている銃とはあまりにも異なりすぎていたのだ。
身長百八十センチを超える丸目鏡次の手でようやく支えきれる銃把は、それでも銃身の大きさを思えば不十分に思える。トリガーの上に僅かに姿を見せる弾倉部分は十連装であり、これの運用思想がどのようなものであるかを無言の内に語っていた。銃身の上には長いテレスコピックサイトが乗せられている。拳銃で長距離の狙撃など正気の沙汰ではない。だがこの銃はそんなことはお構いなしと言わんばかりにそのスコープを光らせていた。そして普通なら何も付ける必要のない銃口の下部には何らかの部品が取り付けられており、そこの表面に空けられた穴からは、まるで呼吸をするように一定のリズムで排熱が放出されていた。
「丸目。もう知ってるだるが、犯行声明が出た。今回の連中もバックに居るのは『赤い翼』だ。またどうせ何の頭もない奴らが借り物の力でイキがってるだけだろうが……連中は金だけは幾らでもある。気を付けろ」
「分かってますよ、黒渕さん」
「それから……」
続けて何かを言おうとした黒渕だったが、鏡次が銃の動作確認を終えたのを見て口を閉ざした。
「それじゃ、行ってきます。また後で」
そしてスーツにネクタイ、左の耳にはヘッドセット、右の手にあの銃という出で立ちの丸目鏡次は、すっと息を吸うと走り出し、十秒もしないうちにロータリーを駆け抜け、ビルのロビーの中へと突っ込んでいった。
「え、ちょ、ちょっと、黒渕さん?」
先程の警官はためらいがちに黒渕の名を呼ぶ。
「何だ、どうした」
「いいんですか、あの人、その、一人で……」
「ああ、いいんだ。それがタテセンだ」
対テロ専従特別捜査官。その頭文字を取ってタテセンと呼ばれる者たちは、テロリズムの横行する時代を生き延びようとした文明社会が捧げた生贄だった。
二十一世紀も後半に入った頃にはテロの脅威は高まる一方であり、これに対して政府は従来の方法ではもはや有効な対策を打てなくなっていた。警官を多数配置してもテロリストはその網の目を潜り抜けてくる。そもそも警官の数を増やすのも少子化や財政難、職業選択の多様化の中一層困難になっていた。その上、同胞の人命の損失に対するアレルギーを発症した人々は、危険な最前線の現場に配置する人員は削減するべきだと代案もないまま主張し続けた。
何があってもテロには屈しない。警官は絶対に死なせない。この二つの要求を同時に満たすべく政府は遂に方針を転換する。すなわち、警官の大量投入でテロを未然に防ぐことよりも、むしろテロを起こした者たちを断固として処罰することにより、その態度で以てテロリストにこの国を標的とすることを諦めさせようとしたのだ。しかしテロを鎮圧する為に人海戦術を採用していたのでは犠牲は抑えられず、意味がない。
こうした背景のもとに創設されたのがタテセンだった。優秀な警官の中から厳しい試験を以て選抜され、過酷な訓練を経てようやくなることのできるタテセンに与えられた任務は、非常にシンプルなものだった。
「単独でテロ事件を鎮圧すること、だ」
黒渕近太はビルを見上げながらそう結んだ。
「いいか。数を揃えれば確かに強い。だが突発的に発生するテロ事件はその状況も、それに対するベストな対策も、何もかもが毎回違うんだ。だから数を揃えるのに時間がかかり、作戦を考えるのに時間がかかり、実行するのに時間がかかり……となってしまう。
だが単独なら全てに於いて臨機応変に行動が取れる。会議も要らないし部署間の打ち合わせだってない。早いに決まってるさ。テロリストどもが防御を固める前に殴りかかれるんだからより効果的だ。しかもテロリストに俺たちと同じ思いをさせてやれる」
「と、言いますと?」
「俺たちが、警察が居るにも関わらずテロ事件が起きてしまうのは、テロリストが少人数で犯行に及ぶからだ。大規模になればなるほどかえって見つかりやすくなる。一方で少ない人数であればあるほど秘密は保たれるし、その攻撃を防ぐのは難しい……。今だってそうだろう。俺たちが百人ぐらいで一斉にロビーに向かってみろ。ロータリーに着く前にたぶん上から撃たれる。だが丸目のやつは……簡単に辿りつけただろう?」
先程の様子を思い出しながら、新米の警官は思わず頷いている自分に気付いた。だが彼はどうしてもひとつだけ納得できないことがあった。
「しかし、どうしてわざわざ一人だけなのでしょうか。危険すぎますし、せめてサポートユニットぐらいは配置するべきなのでは……」
「勘違いするなよ。タテセンは単独行動が基本だがな、決して一人ではない」
「はい?」
「スティングを見ただろ」
「スティング?」
「丸目が持ってたあの銃だ。あれはな――」
黒渕がそこまで言いかけた時、二人の耳を大きな爆発音が聾した。同時に音がした方を見上げる。ぱらぱらと舞い散る瓦礫や断熱材の破片の向こう側で、ビルの中層エリアから煙が昇り始めていた。
「気付かれたか?」
爆風から身を守ろうと、階段の踊り場に身を投げ出した鏡次はそう呟いた。
「はい、おそらく。監視カメラの映像はまだ生きていますからね。やはり、ジャミングしておくべきではなかったんですか?」
「構わない。わざわざ外に出て来るやつを増やすこともないだろう」
「分かりました」
ゆっくりと、周囲を警戒しながら鏡次は体を起こす。爆発の衝撃になぎ倒された壁や机などの瓦礫が散乱している様が目に入る。
「しかし、雑なやり方だ」
「警官隊に突入された時の為の爆薬を使ったんでしょう。この分だと壁の中に仕込んでいたように見えます。半年前にリフォーム業者が入ったみたいですから、その時にやったんでしょうか。まったく用意周到なことですね。五十人くらいですし詰め状態だったらこれだけでほとんど壊滅ですよ」
「テロリストに感心してどうする?」
「いけませんか? 中々に手の込んだ手法です。報告書一本くらいの価値はあると思いますが。そうだ、対策を提案してみても面白いかもしれません」
「知るか。好きにしろ」
「しかしこれだけの爆薬を秘密裏に用意するとは、やはり『赤い翼』の寄付金ネットワークは全国に――八時、上、十度!」
突如叫んだアンダーリムの声に、鏡次の体はほとんど自動的に反応した。階段の続く八時の方向、上方向――つまり仰角十度の位置。そこから銃を構え、狙いを定めつつある一人の男が鏡次の目に映った。
銃声が聞こえる前に鏡次は横に跳んだ。そこで横倒しになっていた机の陰に体を滑り込ませる。跳んだ直後、彼の足が蹴った床に三発の銃弾がめり込んだ。
「リム、走査開始」
「了解。危険度走査、開始します」
アンダーリムの返事が聞こえるや否や、鏡次の銃が突然激しく咆哮し始めた。いや、正確には、銃口の下に取り付けられたコンピューターが高速で演算を開始し、それによって生じた熱を逃がす為に排熱機構が全力稼働を始めたのだ。
「頼むぞ、リム」
「任せて下さい」
丸目鏡次がアンダーリムと呼ぶ存在。その正体は、彼が持つこの銃そのものであった。
タテセンの任務は単独でのテロ鎮圧だ。しかしどれだけ素質があり訓練を重ねた警官といえども、操作の面倒な電子機器がこれだけ発達した現代、サポートを得られなければ任務の成功は期待できない。タテセンにサポートユニットは絶対に必要だった。だがそもそも死傷者を減らすことを目指した手前、現場に他の警官を帯同することは認められなかった。しかし遠隔地から立体映像通話を駆使して支援するのも確実とは言えない。衛生通話すら届かない現場も想定されうるし、通信機器がハッキングされればそれでもう手も足も出なくなってしまう。タテセン創設時に、上層部をその選抜基準よりも大いに悩ませたのがこの問題であった。
そして数十回の会議の末、ようやく彼らは一つの結論に到達した。優秀な人工知能をサポートユニットとして運用すればいいのだ、と。伊達眼鏡店の全面協力を得て当初は眼鏡型デバイスに搭載する予定であったが、容量と強度の問題から眼鏡型デバイスでは大きさが不十分だとされて一度は断念された。だが既に眼鏡の各部位に準じたパーソナルネームを与えた人工知能の育成が進んでいた以上、この計画は放棄するにはあまりにも惜しかった。そこで目を着けられたのが、テロ事件の鎮圧には絶対必須な装備、銃だった。
こうして誕生したのが、タテセンのサポートとして求められる全ての性能を持ち、あらゆる状況に対応する為の機能を随所に搭載し、そして命を預け合う相棒として信頼し合う為に人格までをも付与された支援戦術知性銃(Support Tactics Intelligence Gun)――その頭文字を取ってS.T.I.N.G.すなわち『悪を貫くもの』と呼ばれる――だった。
そしてスティングの最も重要な役割こそ、今アンダーリムが行っている危険度の測定であった。客観的な脅威度を測定・記録が何を可能にするか。その答えは、持ち主であるタテセンに(多分に拡大解釈的ではあれ)正当防衛の成立を告げること、すなわち、射殺許可を出すことである。
鏡次の眼鏡型デバイスの画面上に、アンダーリムが解析した情報が次々と表示されてゆく。
……Weapon / QBZ-32 (Copy)
……Breathing / Fast
……Heartbeat / Very Fast
……Did He Shoot? / Yes
……What is He Doing? / Searching for Kyoji
……Is He Approaching? / Yes, Steady
……What Has He Said? / Nothing, Never
……Intent to Kill / Obvious
……Conclusion: Danger / Max
「走査完了。危険度最大と認識。よって、丸目鏡次、あなたのどんな行動も、それによってもたらされた結果も全て、正当防衛とみなされます。……さあ鏡次、あなたなら大丈夫。でも、気を緩めないで」
千を超えるパターン候補から合成されたアンダーリムのメゾソプラノは、大切な男の傍に寄り添い支え、そして力を与える女の声だ。
「分かってる」
鏡次は小さく息を吸って強く目をつむる。彼がその瞼の裏に描き出すのはかつて見た流血の記憶。
そこに居たという理由だけで鏡次の両親はテロ事件に巻き込まれて殺された。もう二十年以上経っていても、この血塗られた思い出は彼に戦う理由を与え続ける。そして、鏡次の最大の親友は彼の目の前で死んでいった。忘れようとしても忘れられないその顔は彼に戦う意味を問い続ける。
鏡次は目を開き、銃のトリガーに指を掛けた。
「行くぞ」
机の陰から飛び出す。敵へ向かって一直線に駆け出した。自ら相手の射程に入る。狙わなくても当たる位置。だが敵の汗まみれの指は動かなかった。所詮は素人だ、銃口に向かって突っ込める人間の存在を知らない。接近する鏡次の動きを目で追うだけ。撃つんだ。撃たれる前に。ようやく何かを思い出したように銃口を向ける。その時には既に、鏡次の放った銃弾が二発、テロリストの胸部に命中していた。
胸から血を流し、何が起きたかも分からないまま天井を仰いて床に倒れるテロリストを鏡次は見下ろす。
「致命傷です」とアンダーリムの冷徹な報告。
「そうか」
鏡次は、しかし、ぜえぜえとあえぐその顔をじっと見下ろし続けた。視線を離すことのないままスーツの上着の中に手を入れる。その上着の裏地には弾薬帯がほとんど隙間なく張り巡らされていた。並の人間なら普通に動くことすらままならないだろう。だが鏡次はその重さを一切感じさせぬ程の当然さで弾丸を二発選び取り、弾倉の方を見ずに再装填を済ませた。
そしてその時でもなおテロリストの息があることを見て取ると、鏡次はゆっくりと銃を構え、その額に向けて狙いを定めた。
「鏡次、とどめを刺す必要はありません」
アンダーリムの声が鋭く飛ぶ。
「何故だ」
「弾薬の無駄です」
「わざわざ苦しんで死ぬ必要もない」
「放っておいてもどうせ死にます」
「そうだな」
銃声。
もはや原型をとどめていないその血塗れの肉と骨に今一度見つめてから、鏡次は階段の上に目を向ける。
「人質が居るという情報は、間違いないな?」
「はい。逃げ遅れた人たちが最上層フロアに監禁されています。人数は十二人。男性七人、女性五人。全て大人で、子供は居ません」
「それで、残りの目標は?」
「二十一人から一人減って、二十人です」
「分かった。リム、標的識別装置を起動」
「はい、標的識別装置、起動します」
「この建物の3Dモデルはあるな?」
「いつでも出せます」
「建物の破損部位を逐次更新しろ。その上で識別結果を3Dモデルと同期させてデバイスに表示」
「了解、実行します」
鏡次の視界が変化する。設計当時の骨組みが見える青写真が表示され、次に爆発で無惨な姿にされる前の綺麗なオフィスが映し出される。都会の一等地を飾るにふさわしいその趣きは、しかし、鏡次の目が現実に認識する惨状と重なってただその悲惨さを倍増させるだけ。だがそれもすぐに終わった。少しずつ清潔なオフィスはその姿形を変えてゆく。染み一つない壁は無数の瓦礫となって床に落ち、天井を彩る電球は一瞬きの内に姿を消し、整列された机は横倒しになる。
そうしてアンダーリムが描写する世界は現実のそれと重なり合い、鏡次の認識と繋がり合う。黒い丸点が鏡次の視界の下端に現れる。いまだ溢れゆく鮮血に彩られた床の上。二度と動くことのないその肉体の元に浮かんだその黒い印の横に文字列が点滅し、すぐに消える。
……Target / Dead
「起動、完了しました」
鏡次は無言で頷き、そして再び走り出す。
伊達眼鏡本社ビルの最上階は会長専用の特別応接室になっている。都合五十人は掛けられる巨大な楕円型のテーブルと金に物を言わせた椅子。そこは今、テロ事件を起こした『赤い翼』のメンバーの拠点となっている。
暴力と非日常の恐怖に震える人質たちはそのテーブルの円の中にまとめられ、両腕を後ろ手に縛られて床に座らされている。そして彼らを囲むようにして立つテロリストたちはそれぞれアサルトライフルやサブマシンガンで武装していた。人質とされた十二人が、あの爆発を生きながらえてもなおこんなおぞましい思いをしなければならない正当な理由は一つもない。それでも敢えて一つ挙げるならば、運が悪かった、とでも言うべきか。
だが人質を恐怖で支配するテロリストたちもまた今、別種の恐怖に支配されていた。ハンディトランシーバーを持った一人が呟くように言う。
「返事が、ありません」
「どういうことだ! 馬鹿にしているのか?」
「しかし、返事がないのです!」
「ふざけるな!」
そう叫んだテロリストのリーダー――剣毘麻伊子はトランシーバーをひったくって受話口を耳に当てる。繋がっている先は侵入者を排除する為に四フロア下、五十八階に展開させた別働隊だ。麻伊子ははやる気持ちを必死で抑えて耳を澄ませる。何も聞こえない。送話スイッチが押されてないのだ。
「くそっ、本当にいったいこれは――」
小声でついた麻伊子の悪態は、しかし、自分にすら届かなかった。突如、渇いた銃声と人間の悲鳴が彼女の耳を支配した。何かが落ちてきて送話スイッチを押したのだ。ほとんど已むことなく銃声は響き続ける。これは聞き慣れた音だと麻伊子は気付く。同志のアサルトライフルの発砲音だ。もしかしたら優勢に立っているのではないか? そんな希望的観測に彼女はすがりつき、想像を超える化け物に蹂躙されつつある現状から目を背けた。だが次の瞬間彼女は現実に引き戻される。再び悲鳴が聞こえた。銃声が途絶える。
「やめてくれ……やめてくれ……殺さないで……」
命乞いの声。それもまた麻伊子の知っている声。息を殺して麻伊子は耳を傾け続ける。あまりに長い数秒の空白の後、ぱん、と一発、聞き慣れない銃声が響いた。それが敵の、タテセンの返事だった。
「リーダー? いったい、何が?」
顔が引きつっていることを麻伊子は自覚する。周囲を見渡せば、二十一人居たはずの同志はもはや十人しかいない。自分も含めて十一人。自分以外はまだ誰も外の状況を知らないでいる。それだけが今この場で麻伊子が主導権を握っていられる理由だった。
「これ以上、好きにさせるか」
麻伊子は覚悟を決める。既に同志を半分失った。要求を政府に呑ませることももはや無理だろう。だが、あの化け物にせめて一矢報いなければ、ここで自分が動いた意味が一切無くなってしまう。
「敵が来る」
「と、突破されたんですか?」
「そうだ」頷く麻伊子。
「それじゃあもうお終いだ!」
一人のテロリストが恐慌状態に陥る。
「だから反対したんだ! だいたい首都警察のタテセンなんか相手にできるわけなかった――」
「黙れ!」
麻伊子は自分の銃口をその男の口先に突き付けて一喝する。
「泣き言は結構。ここに居たくないなら止めはしない。そこから飛び降りろ」
そう言って麻伊子は地上六十二階の窓を顎で指し示した。電気シェードで透過光量を調整できるその窓は現在真っ暗になっており、外の景色は一切見えない。だが、だからといって麻伊子の言葉の指す意味が変わることはない。
「ここで迎え撃つ。もう、それしかない」
そう言って麻伊子は銃口を降ろした。本音では彼女は事ここに於いて言を翻す者など生きる価値もないと思っている。だが今は、一人でも惜しい。
鏡次は遂に六十二階に到達した。ここまでほとんど走り通しで来たのだ、さすがに息も切れている。
「六十二階は全フロアが応接室になっています。おそらくここに、残りのテロリストと人質が居るものだと思われます」
「中にカメラは?」
「ありません」
「外からは?」
「電気シェードが下がっています。ヘリコプターからの映像を分析していますが、真っ暗ですね」
「だろうな」
中の様子が分からない。これはかなり不利な状態ではあった。何が自分を待ち受けているか分からないのだから。少なくとも分かることは、油断できない、ということだけだ。
だが何が待っていてもやることは変わらない。鏡次は余計な思念を捨て去る。不安であれ楽観であれ余計な期待をするべきではない。一瞬の油断は死ぬには十分すぎる。助けを待つ人たちがそこに居て、そして今ここで彼らを助けられるのは自分だけなのだ。鏡次はかつて両親の墓前で結んだ誓いを思い出す。この目の届く所に居る限り、罪なき人々を誰一人として死なせはしない。
「突入するぞ」
「はい」
鏡次は足音を立てることなく応接室に接近する。高級感の漂う時代がかった松材のドア。だがそれが見た目通りの観音開きではなく、電子制御された自動ドアであることをアンダーリムは既に知っている。
厳重なセキュリティを施されたこのドアをクラッキングで破ることは、アンダーリムの演算能力を以てしても現実的ではない。ましてや物理的に蹴破ることなどは、いかに鏡次の体が鍛えてあるとはいえど夢のまた夢だ。だが所詮は人が造ったもの。人に破れないことはない。
アンダーリムは鏡次の眼鏡型デバイスの画面上に一つの点を描き出す。鏡次が照準器の十字線をそこに合わせれば、彼はちょうどあの豪華で頑丈なドアに向けて銃を構える格好になる。鏡次は上着の裏地に手を伸ばし、普通の銃弾とは違う色分けをされた弾丸を手に取る。そして弾倉を開くと、それを六発目のところに装填した。
鏡次はすっと銃口を上げる。アンダーリムが指示した位置は鏡次の目線の少し上あたり。左手で右手の手首をぎゅっと掴み、固定する。
深呼吸。
引き金を引く。
絶え間なく、
六回。
それぞれの弾丸はほとんど同じ一点に叩き込まれた。鏡次の精神力と想像を絶する鍛錬とがそれを可能にさせていた。一発一発が分厚いドアに撃ち込み刻まれ、遂に銃弾一つ分の小さな穴が穿たれる。そしてその空間を通って六発目の銃弾が応接室の中へと飛び込んでいった。それは撃鉄と火薬に与えられた慣性に従って天井に突き進み、そして激突するや否や、勢いよく煙幕を吐き出し始めた。
鏡次が六発目に装填したのは発煙弾だった。タテセンにとっては珍しい、殺傷を目的としない装備品の一つ。彼がなぜ今発煙弾を撃ちこんだか。それは突入を容易にする為ではない。突入する為である。
発煙弾の着弾点から一センチ離れたところ。そこにあるのは応接室の天井に設置された煙報知器。それが煙幕に反応した、その直後、フロア中にけたたましい警報が鳴り響いた。
「煙が感知されました、避難してください、避難してください」
そしてそれに続いて、応接間に続くドアがゆっくりと開き始めた。このフロアを使う可能性があるのは要人ばかりだ。ならば警報機の作動と同期して自動的にドアが開く設計を導入することは何の不合理なところもない。当然テロリスト側もそういう設計であることは理解していた。だから彼らはその手の警報装置を全て遮断していたわけだが、そのような一般的なビル管理システムの範疇に属する程度のファイヤーウォールならば、アンダーリムに破れないものはない。
「警察だ! 床に伏せろ!」
鏡次は声を張り上げ、霞のように煙幕が残る応接室に踏み込んだ。瞬間、デバイスの画面に幾つもの赤い点が浮かび上がる。アンダーリムの危険度走査によって殺意が有ると――すなわち、射殺しても問題ないと見なされた目標の位置をその赤い点は示している。コンマ一秒にも満たない僅かな時間で鏡次はその点の向こう側、現実に存在する敵の姿を見定め、そして引き金を引く。
「撃て、撃て!」テロリストの一人が騒ぎ立てる。
「五時方向」
アンダーリムが声のした方向を告げる。一人で多数を相手にするタテセンにとって、どちらの向きにその時最も危険な敵がいるのかは常に知っていなければならない情報だ。
鏡次は素早く右周りで反転する。ぐっと膝を折り曲げながら。そうやって相手の射線を逸らす。膝に力を溜めつつ銃を構える。跳ねるように飛び出す。低い位置から敵の懐に飛び込み、顎の下に銃口を当てた。赤い点が、黒に変わる。
「残り、三発」
アンダーリムの報告は正確ではなかった。そう告げたと同時に鏡次が三発続けて撃ったからだ。無害な相手、人質を示す青い点の密集地帯を通り抜けるようにして飛んでゆく弾丸は、赤い点へと吸い込まれる。
「残り目標、六」
だがこちらは正確だった。生き残ったテロリストたちはなんとか鏡次を狙って撃ち続ける。物陰に隠れるのは良策とは言えない。足を止めれば囲まれて終わりだ。だが走り回り続けて長引かせるわけにもいかなかった。一人を除いてテロリストたちはほとんどめくらめっぽうに撃ちまくっている。人質たちに流れ弾が飛んで行くのは時間の問題だった。
「リム、再装填用意」
「了解、再装填用意」
鏡次は足を止めずにスーツの上着のボタンを外す。前裾が両側に開き、その裏地に縫い付けられた弾薬帯が姿を見せる。そしてそのまま走り回って敵を五人背にした体勢になった時、鏡次は再び口を開いた。
「ユー、ハブ」
そしてアンダーリムはこう応じた。
「アイ、ハブ」
直後、鏡次の体が彼の意志とは関係なく動き始める。アンダーリムが彼の着るインナーウェアに仕込まれた電極に信号を出し、あらかじめプログラミングされた動きを鏡次に取らせているのだ。
回転弾倉が開かれる。空薬莢が空に舞う。左足を軸にして、鏡次の体が半回転。スーツの裾がたなびく。その反動で弾倉帯から弾丸が飛び出した。ぴったり十発。一定の距離を保ちながら浮かんでゆく。銃把を握った右手が動く。月でスイングバイをする宇宙船のように。ただ一つしかないランデブーポイントを目指して。十発の弾丸が中空に綺麗な円を描く。その一瞬、アンダーリムの体が彼らを迎え入れた。回転弾倉が閉じられる。
「ユー、ハブ」
アンダーリムのメゾソプラノ。
鏡次はすっと腕を上げる。紛れもない自分の意志で。
「アイ、ハブ」
体をアンダーリムに任せていたのは一秒以下、本当に僅かな時間だった。だがそれは、鏡次に五人の標的へと狙いを定めさせるのには十分だった。
五回、銃声が響く。一発も外れることはない。一人の持っていた銃が断末魔の代わりに銃弾を天井へと吐き出し、そしてぱたりとその音は已んだ。
「あと、一人です」
アンダーリムに促されるまでもなく、鏡次は最後の一人の姿を求める。絶望に引きつった顔をするそのテロリストに向けて、鏡次はゆっくりと狙いを定める。
「お前、何なんだ、何なんだよ!」
剣毘麻伊子は腰だめに構えたアサルトライフルの引き金を引こうとする。だが、それは既に装填された弾丸を全て撃ち尽くしていた。かちり、かちりと虚しい音が辺りに響く。
「どうしてだ、どうして邪魔をする?」
「何の話だ」
鏡次は応じる。いつでも撃てる用意をしながら。
「この国はもうどうしょうもない、腐りきってるんだ。こんな伝統も何もない場所を金があるからって首都にしたように、民族の尊厳も何もかも全部捨てて! 自分では治しようがない。一度滅びるしかないんだ!」
「それとお前たちがしたことに何の関係がある?」
「この国を救う為には誰かが行動しなければならない。それが我々だった。それだけの話だ」
「そしてそれは正しかったと?」
「当たり前だ!」
「無関係な人々を巻き込んだことも?」
「やむを得ない犠牲だ。我々の思想がこの国を滅ぼし、そして蘇らせる為にはな」
鏡次はちらりと人質たちの方を見る。銃撃戦の真っ只中に巻き込まれた彼らは未だに恐怖の中に取り残されていた。鏡次は麻伊子に向き直り、静かに呟く。
「我々は人を撃つのではない、軍服を撃つのだ」
「何だと?」
「ある兵士の言葉だ。戦争が終わった後、戦場で敵兵を撃ち殺すことは殺人ではないかと問われたその兵士はそう答えた。追求と良心の呵責から逃れるために」
「何が言いたい」
「人を見ないで軍服を撃っても人は死ぬ。どれだけ目を逸らしてもこれは変えられない。いつの時代でも銃が人を殺すんじゃない。人が人を殺すんだ」
一歩ずつ、ゆっくりと鏡次は間合いを詰めていく。気圧された麻伊子は無意識のうちに後退る。
「我々の思想が国を滅ぼして蘇らせると言ったな。ならば教えてくれ。銃を撃ったのはお前たちなのか、それともその思想なのか。そして、お前たちが殺したのは人間なのか、それとも国なのか」
「そんなことは問題ではない!」
「考えたくもないということか。自分で考えることをしないで誰かに言われたままに人を、それも何の罪もない人を殺すのはもう人間じゃない。ただの機械だ」
麻伊子は背中に壁の固い感触を感じる。もうこれ以上は下がれない。
「ならば、ならばお前はどうだと言うのだ? 私の同志を全員……二十人だ! 二十人も殺しておいて!」
「俺も機械だった、かつてはな」
鏡次は銃口を麻伊子の額に突き付ける。
「だけど、今は違う」
死の恐怖を前にした麻伊子の表情を、鏡次は静かに目に焼き付け、
「もう、逃げはしない」
そして、撃った。
「アンダーリム、本部へ連絡しろ」
「はい」
「全目標の排除に成功。本事件は無事に鎮圧された。速やかに人質を保護するように要請する」
「分かりました」
鏡次は使わなかった弾薬を弾倉から取り出し、そしてガンホルダーに銃を戻す。ようやく終わったのだ。
「ねえ、鏡次」
アンダーリムが彼の名を呼ぶ。
「何だ?」
「おつかれさま」
「……ありがとう」
事件から三日後。鎮圧に関わる行為の正当性を立証する為の報告書や証言録の作成を終え、丸一日の特別休暇を与えられた丸目鏡次は、新鯖江駅の地下商店街にあるイタリアンで夕食を取っていた。
「一日ってのもケチな話ですよね、せっかくなら一ヶ月くらいくれてもいいと思いますが」
「休暇といっても普段と何も変わらないんだ。一日でも一年でも同じことさ」
対テロ専従という文字が示す通り、凶悪なテロ事件が発生しなければ鏡次は特にやることなどないのだ。だがそんな職位が存在を許される程度にはこの街の安全は脅かされ続けている。
特別休暇などと銘打つのも結局はタテセンの人権に配慮をしているという警察としてのポーズにすぎない。休暇などとは名ばかりで、どうせ事件が起きれば丸目鏡次が動かなければならない。アンダーリムが彼と一緒に居るのがその何よりの証拠だった。
「しかしこの店、初めて来ましたけど、けっこう雰囲気いいですね」
「そうだな、味もよければいいが」
「へえ、サバサンド以外のものが丸目鏡次の口に合うなんて、聞いたことありませんでしたよ」
「知らなかったか? 一番好きなのはケバブなんだが」
「それもサバサンドみたいなものじゃないですか?」
そんなことを話していると、愛想よく笑う店員がメニューを持って近づいてくる。
「こちら、メニューでございます」
「ああ、メニューは大丈夫」
「はい?」
「もう決まってるんだ。注文してもいいか?」
「あ、はい。かしこまりました」
そして鏡次はこう言った。
「ボンゴレロッソをふたつ」
「はい、ボンゴレロッソを……ふたつですか?」
「ふたつだ」
「はい、ボンゴレロッソを、おふたつ。かしこまりました。飲み物などはよろしかったですか?」
「飲み物は大丈夫。でも、灰皿をひとつ、頼む」
「はい、ただいまお持ちいたします。以上でよろしいですか?」
「ああ」
そして店員が立ち去った後、アンダーリムは囁くようにそのメゾソプラノの声を響かせる。
「覚えていて、くれたんですね」
「思い出したんだ、昨日な」
鏡次は不機嫌そうな声で言う。それを聞いてアンダーリムはくすくすと笑い出した。丸目鏡次は何を考えているか分からないとみんな口を揃えて言うが、アンダーリムにしてみれば鏡次ほど分かりやすい人間は居ない。
「そんなに面白かったか?」
「いいえ、でも……嬉しかったです」
「そうか。それなら、いい」
「ねえ、鏡次」
「何だ?」
「私の分まで、ゆっくり味わって食べてくださいね」