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偽善悪  作者: 傘花
1.足音
5/211

1(4)

2025/11/13 ▶全体の流れの調整、読みやすさ改善のため、一部改編を行なっております。

「係長」背後から遠慮がちに酒井を呼ぶ声がした。振り返ると、宇月が気まずそうにこちらに手招きをしている。「四方警部補がお呼びですよ」


 従業員の誰かが、この殺人事件の手がかりでも掴んだか。


 今は関わりたくないとでも言うようにそさくさと踵を返す宇月を追い掛ける。城宮が背後で何かを言っていたが、逃げるように酒井も現場に戻る。


 四方が法律事務所の入口で頭を抱えていた。酒井の姿を見つけると、すぐに駆け寄ってくる。


「酒井さん。このヤマ、ちょっと面倒なことになりそうです」

「面倒なこと?」

「ちょっとこっちに来てもらえますか」


 案内されたのは、亡くなった矢野崇の執務室。荒らされた部屋の端に、従業員の鈴木らと鑑識が集まっている。


「これは?」


 四方に尋ねると彼は困った顔で答える。「無くなったのではなく、増えたものがありました」


「増えたもの?」

「これです」


 四方が指差すのは、棚の上に置かれた花瓶。そこに生けられているのは花束だ。


 青い薔薇の花束。


 染料を使うことで比較的簡単に作れるという話は聞いたことがあるが、実際に見たのは初めてだ。


「ガイシャが亡くなる前、この薔薇の花束はなかったそうです」

「矢野さん自身が買ってきた可能性は?」

「花に興味なんてない人だったから、有り得ないと思います」


 酒井の問いに榎本が答える。他の者も頷いていて、彼女の言葉の信憑性が増す。


「となると、犯人が置いていった可能性が高いと」


 殺害方法と言い、青い薔薇の花束と言い、犯人は現場に随分と強いメッセージを残している。


 青い薔薇の花束か。何か覚えがある気がする。しかし、それが何だったかが思い出せない。とても古い記憶だったような気もすれば、割と最近の出来事だったような気もする。


 鼻で笑いそうになるのを咳払いで誤魔化す。


 覚えがあったとしても、それが今回の事件と関係がある可能性はほぼゼロだろう。


「何かなくなった物はありましたか?」

「見る限りでは何も」

「参考までに、皆さんの事件前後の行動をお訊きしても良いですか」

「私は、昨日は夜の8時くらいに事務所を出た後、一人で飲みに行っていました。今日は休みの予定だったので」


 最初に榎本が話し始める。


「その時、矢野さんはまだ、事務所にいたと」

「はい。あの、防犯カメラがあるので、それ確認していただければ」


 四方の顔を見る。そう言えばそうだったと、四方がばつが悪そうに、酒井を案内する。


 パソコンで管理された、かなり最新式の防犯カメラのように見えた。設置されているのは、出入り口とスタッフの各デスクの近く。


「何だか、これだと仕事を監視されている気分だな」四方が呟く。


「うちの事務所は刑事事件も扱うので、情報管理はしっかりしないといけないんです。昔、バイトさんに顧客の個人情報を盗まれてしまったことがあって。それから先生はセキュリティにはうるさくなりました」


 榎本は言葉を続ける。


「あ、この時間です。まず最初に星ちゃんが事務所を出て、そして私です。大体、8時くらい」


 榎本の言う通り、監視カメラの映像には、小笠原星が退社し、その後すぐに榎本が退社している姿が映っている。


 そのまま時間が進み、10時半過ぎに市川と矢野崇、続けて鈴木がすぐに事務所を後にしている。


 鈴木が事務所を出る直前、事務所内の電気は消され、その後は何も映っていない。


 再び映像が明るくなったのは、次の日の午前8時。鈴木が出社してきた時間だ。


 そこには、矢野崇は映っていない。


「この映像、妙ですね」いつの間に宇月が隣にいて、神妙な面持ちでカメラ映像を見ている。「矢野さんはいつ中に入ったんです?」


「榎本さん。この事務所は、そこの扉以外に出入り口はありますか」


 宇月の疑問を酒井はすぐに榎本に投げかける。


「先生の執務室に、テナントの裏の非常階段から入ることのできる扉があります。でも、そこは先生しか鍵を持っていないから」


 再び矢野崇の遺体のあった、彼の執務室に戻る。


 確かに執務室の奥に非常階段に続く扉がある。近くにいた鑑識に話を聞くと、そこに鍵はかかっていなかったという。


 矢野崇が夜中にこの扉を使って事務所内に入ったのだろうか。


「矢野さんの執務室には、監視カメラはないんですか」

「ありません。あるのは、執務室の外側だけ。まぁ、先生、秘密主義だったから」


 スタッフはしっかりと監視しておいて、自分は秘密主義か。


 それ故に自分の死の瞬間まで隠してしまったのだから、皮肉なものだ。


 矢野崇が殺されたのは、午後10時半頃から午前8時頃までの間。遺体を解剖すれば、もう少し時間が詳しくわかるだろうか。


「矢野さんは、いつも自分の執務室から事務所に入っていたんですか」


 続けて酒井は榎本に尋ねる。


「いいえ。表の方から。そっちの方がエレベーターもあるし」


 矢野崇は事件時、わざわざ非常階段を上ってまで裏の扉から事務所に入ってきた。


 彼が事務所に戻ったのは、単に忘れ物をしたからとか、そんな理由ではないのかもしれない。


「でも、少し妙な気がしますね。まるで、ガイシャ本人が防犯カメラに映りたくなかったみたいだ」


 ふと思い立ち、酒井は矢野崇の遺品を確認する。


 遺品の中にはキーケースが一つ。何種類か鍵がついている。そのままそれを鈴木に見せる。


「この中に、事務所の鍵はありますか」


 鈴木はキーケースに触れないまま、じっと鍵を見つめる。


「多分、この複雑な鍵は先生の執務室の裏の出入り口の鍵だと思います。ですが、表の鍵はありません」


 鈴木の指し示す鍵を非常階段の扉に差し込んでみる。


 確かに、矢野崇しか持っていないという鍵はこれのようだ。


「というか、鈴木さんくらいしか表の鍵持って来てないんじゃない?いつも鈴木さんが開けて、閉めてくれるから」


 榎本が言う。


「皆さん鍵はお持ちだけど、職場に持ってはこないと」

「鈴木さんは滅多に休まないし、私も昔はちゃんと持ってきてたけど、一度無くしたことがあってから怖くて持ち歩くのやめてしまって。星ちゃんには持たせてないし、市川さんは?」

「私も最初は持っていたのですが、持っていても使うことがなくて。安全のために事務所にお返ししました」


 例え鍵を持ち歩いていなかったとしても、それは大したアリバイにはならない。


 実際、監視カメラの映像からもわかる通り、従業員が持っている事務所の表の扉は犯行には利用されていないのだ。


 矢野崇しか裏の鍵を持っていなかった。その情報を知っていた者が、犯人である可能性が高いということだろうか。


「榎本さん。昨夜は酒を飲んでいたということですが、それを証明できる人は」

「行きつけのバーに行って、そこの店長とずっと話してたけど、それはアリバイになりますか」

「ちなみに、何時まで」

「バーが閉まる25時まで。その後は、タクシーで家に帰りました」


 宇月に目線をやる。頷いた彼は、速やかに部屋から出て行く。


 宇月に任せて榎本の証言が本当だったとわかったところで、その後の犯行は可能だ。


「市川さんのお話を伺っても?」

「私ですか?いや、私は家に帰って、そのまま寝ました」

「それを証明できる人は」

「よ、嫁が」

「残念ながら、奥様では証明になりません」

「そう言われても…あ、そうだ。私の住んでいるマンションの監視カメラっていうのはどうですか」


 矢野崇がそうだったように、監視カメラはいくらでもその穴を抜けられる。


 一応、宇月に連絡をして一緒に調べてもらうか。


「小笠原さんは、昨夜から今日の朝にかけて、何をされていましたか」


 今度は小笠原星に顔を向ける。相変わらず視線が合わないが、榎本に急かされて、彼女は口を開く。


「…私は仕事のあと、家の近くのファーストフード店に寄って、勉強をしていました。確か、日付越える少し前くらいまで。その後、家に帰って、寝ました」


 これも、証言としてはかなり弱い。小笠原星についても、ファーストフード店と自宅周辺の監視カメラの確認が必要だ。


「そうですか。あと、これは皆さんにお訊きしたいんですが、矢野さんが誰かの恨みを買ったり、妬まれたりするような出来事とかありましたか」


「こういう職業ですから」榎本が言う。「恨まれることばかりでしたよ」


「先生はメディア露出も多かったですから。脅迫文とか来ることもありました」続けて市川が応える。


「そんなの気にしてたらきりがないって、先生は強気でいらしたけど。脅迫メールとか電話とか手紙とか、そういうものの類いはすぐにゴミ箱へぽいっ。脅迫文のシュレッダーは、鈴木さんのお仕事一つだったわよね」


 榎本が鈴木に顔を向けると、彼女は小さく頷いた。そのまま視線を落とし、鈴木は少し考えるような仕草をする。


「あ、でも」


 シュレッダーで何かを思い出したのか、鈴木が酒井の方へと向く。


「昨日の朝届いた奇妙な手紙は、何故か捨てずに自分の部屋へと持っていかれました」

「どんな手紙ですか」

「確か、消印がなくて白い封筒で、スペードのジャック様へって書かれた手紙です」


 一瞬、部屋の空気が重くなった気がした。その理由がわからないまま、酒井は近くにいた四方と矢野崇の執務室を探る。


 棚や机、ゴミ箱、どこを探しても鈴木が言う手紙は見つからない。


 既に誰かの手によって隠滅されたか。そしてそれは、矢野崇本人の手によるものか。


「酒井さん、これを」


 四方が示す方を向く。


 執務室の机の下。大きな業務用のシュレッダーがあり、そこにはまだ紙ゴミが溜まっている。


「本気で言ってるのか」

「やってみる価値はあるかと」


 もし矢野崇が手紙をシュレッダーにかけていれば、まだ証拠はここにあることになる。


 だが、他の書類とともに混ざり合った紙ゴミの山から目当ての物を探し出すのは困難だ。


「鑑識に回せ」

「はい」


 その日のうちに、麻布警察署に捜査本部が建てられた。夜も更けようとしている中、無機質な部屋にむさ苦しい刑事達が集まっている。

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― 新着の感想 ―
[一言] 「青いバラ」の花言葉は、「奇跡」です。 ほかには、「夢かなう」・「不可能なことを成し遂げる」・「神の祝福」・「不可能」・「神秘的」・「喝采(かっさい)」という花言葉も青いバラには託されてい…
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