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2025/11/13 ▶大規模な改編を行っております。この改編は物語全体の構成を変えるものではなく、より読みやすくするためのものです。
2023/9/8 ▶小説内の矛盾が発覚致しましたので、修正しております。物語進行上、ほぼ関係のない矛盾点です。
「係長」
深刻そうな顔を浮かべる朝倉に向かって頷いて、酒井は執務室を出る。暢気そうに欠伸をする宇月も引き連れて、急いで現場へと向かう。
六本木駅近郊にある小綺麗で比較的小さなオフィスビル。そのテナントの一つに、酒井は足を踏み入れる。
既に麻布警察署の人間が現場保存を始めていた。酒井は入り口近くの若い警察官に声を掛け、状況を訊ねる。
「被害者は矢野崇、五十七歳。殺害現場であるこのテナントに事務所を持つ弁護士です」
矢野崇。テレビに疎い酒井ですらその名前を聞いたことがある。
様々なメディアに引っ張りだこで、特に討論番組では三分意見を述べるだけでネットニュースに取り上げられる。毒舌だがその意見はリベラル的で、外見に似合わず若い世代からの人気が高い。
益枝宗之大学教授に続き、またこの手の人間が死んだか。
「遺体は?」
「まだ現場に」
警察官に軽く礼をし、酒井は部屋の奥へと進む。
部屋には微かな異臭が漂っていた。まだそれほど暑くないとは言え、ジャケットで動き回るには少し汗ばむこの季節を思えば、それも頷ける。
被害者は床に仰向けで倒れていた。頚部から胸部にかけて刃物で何度も切られている。
多量出血による出血性ショック死というところだろうか。
頸動脈からの出血は勢いがあったのだろう。遺体周辺は血の海と化している。被害者の下半身は露出しており、下着とズボンが脱ぎ捨てられたように床に転がっていた。
情事の最中の殺害だろうか。
遺体から目を逸らし周囲を見渡す。部屋中に血痕が飛び散り、書類や本が床に散乱している。殺害時、被害者と加害者はかなり揉み合ったのか、室内は荒れ果てている。
「矢野崇って、この間テレビで見たばっかですよ。何かとお騒がせ弁護士だったけど、ズバッと意見を言う姿勢は、結構視聴者に人気だったのになぁ」
酒井の横で宇月がそう独り言のように言った。
「第一発見者は」
再び若い警察官に尋ねると、彼は酒井とは事務所内へと視線を移す。彼の視線の先を見ると、給湯室近くのソファに大柄な体格の刑事と30代くらいの女性が一人腰掛けていた。
「四方、お前今日非番だって言ってたのに、引っ張り出されてきたか」
見知った顔がこちらに振り返る。麻布警察署の捜査一課の四方慎吾警部補だ。目礼した彼は、参りましたよ、ホント、と溜息をつく。
「この人が、第一発見者か」
「はい。鈴木さんです。この矢野法律事務所の事務員をしている方です」
四方の隣で涙目を浮かべる女性。鈴木は酒井の顔を一瞥し、会釈をする。
「鈴木さんはいつも1番に出勤してくるそうで、それで矢野さんの遺体を発見したそうです。大体、8時くらいでしたっけ」
「…はい」
四方の問いに、鈴木は答える。
「昨夜、事務所の戸締まりをしたのも私です。10時半くらいだったと思います。矢野先生と一緒に事務所を出ました」
鈴木の情報を聞きながら、酒井は腕を組む。
「ちなみに、この事務所はいつもこんなに散らかっているわけではないですよね」
「そんなことあるわけがありません」
そう言ったのは鈴木ではなかった。
振り返ると、中年女性の姿目に入る。その後ろに、三十代くらいの男と、無表情で遺体を見つめる若い女性。
「皆さんは、こちらの事務所で働く?」
酒井の問いに中年女性は頷く。
四方に促され、まず初めに口を開いたのは中年女性だった。
「榎本です。この事務所で弁護士をしています」
三十代くらいの男は市川と名乗った。矢野法律事務所で働く若手の弁護士だそうだ。
「私はここに勤め始めてまだ半年前くらいです。正直、まだ右も左もわからないというか」
最後の一人は、小笠原星。終始声が小さく、酒井は何度も彼女の話を聞き返す。
どうやら、この矢野法律事務所で事務としてアルバイトをしながら法科大学院に通う学生のようだ。
こちらが質問していない事には一切応えない上、まず目が合わない。そんな彼女を代弁するように、榎本が小笠原星の説明をする。
小笠原星は榎本の親戚だという。小笠原星が大学生時代に法学部に入学したことを知った榎本が、自分の勤めている法律事務所のアルバイトを勧めたのだという。
「それで、榎本さんの話によれば、ここはいつもはきちんと整頓されているわけですね。では、何かこの事務所から持ち出されたものはありますか」
酒井が尋ねると、榎本が涙を目に浮かべながら答える。「ちょっと見ても良いですか」
「えぇ。お願いします」
榎本、市川、そして小笠原星が手分けして事務所内を探す。広い事務所ではないから、そう長い時間はかからないだろう。
四方に目配せをして、酒井はその場を離れる。時間はかからないとは言え、一服する時間くらいはあるだろう。
事務所から出て、すぐ近くにあるテラスに出る。流石、一流オフィス街にあるビルだ。お洒落なテラスにデザインの凝った喫煙所が設置されている。
ジャケットの胸ポケットから煙草を取り出す。ライターで火を着けようとすると、横から酒井の持つそれとは違うものが、煙草の先を燃やす。
「宇月、お前はホステスか何かなのか」
「ボトル一本入れていいですかぁ?」
「断る」
宇月の冗談を鼻で笑いながら、煙草の煙と共に息を吐く。
「面倒な事件でないと良いですね」
「どうだかな。証拠だけじゃ、何とも言えん。だが、遺体の損傷には強い殺意を感じた」
「今日、家帰れますかね。金曜ロードショー、録画してくるの忘れたんだよなぁ…」
「諦めてツタヤででも借りろ」
酒井自身も今日は行くべきところがあったと思い出すが、諦めるしかない。
こればかりは仕方がない。「彼女」も、それは理解してくれるだろう。
煙草を灰皿に入れ、喫煙所を出る。そろそろ、あの弁護士事務所から無くなった物が分かる頃だろうか。
ふと、テラスからビルの下を覗き見る。
事件発生から数時間。既にビルの周りには野次馬が殺到している。テレビでよく見るあの矢野弁護士が殺されたらしいと、早々に噂が流れたのだろう。報道陣まで大勢集まってきている。
制止線の間際まで人々が押し寄せ、手前に立つ警察官が必死で彼らを押し返している。
その野次馬の中に、明らかにこの場に似合わない娘が一人。
ツインテールが人混みの中で見え隠れする。必死で制止線の向こうを見ようと、ツインテールの娘が跳び跳ねている。どこで噂を聞き付けてきたのか、平日のお昼にも関わらず、制服を着た女子中学生が野次馬の中に紛れ込んでいる。
ツインテールの女子中学生が、ふと顔を上げる。そのせいで酒井は、彼女の大きな瞳と目が合う。
マズい。そう思った時には既に遅かった。
「酒井警部!」
城宮愛美が酒井を呼ぶ。野次馬の中で飛び跳ねながら、こちらに必死に手を振っている。
彼女から目を逸らす。何も見ていない、気のせいだと自分に言い聞かせる。
「係長。愛美ちゃん、また来てますよ」
「気のせいだ」
城宮愛美。彼女に付きまとわれるようになって、もうどれほど経ったかわからない。
近所に家か学校でもあるのか、港区で事件が起きたとなると、それが日中であろうと夜中であろうと現場に駆け付けてくる。
そして、必ずと言っても良いほど、こう言うのだ。
「酒井警部!事件?事件よね!取材させて!」




