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小説内の矛盾が発覚致しましたので、修正しております。物語進行上、ほぼ関係のない矛盾点です。(2023/9/8)
「係長」
深刻そうな顔を浮かべる朝倉に向かって頷いて、酒井は執務室を出る。暢気そうに欠伸をする宇月も引き連れて、急いで現場へと向かう。
六本木駅近郊にある小綺麗ながらも比較的小さなオフィスビル。そのテナントの一つに、酒井は足を踏み入れる。
既に麻布警察署の人間が現場保存を始めている。酒井は入り口近くの若い警察官に声を掛け、状況を訊ねる。
被害者は矢野崇、五十七歳。殺害現場となっているこのテナントに事務所を持つ弁護士だ。
その名はテレビ番組を見る人間なら誰しも一度は聞いたことがあるだろう。様々なメディアに引っ張りだこで、特に討論番組では三分意見を述べるだけでネットニュースに取り上げられる。毒舌だがその意見はリベラル的で、外見に似合わず若い世代からの人気が高い。
益枝宗之大学教授に続き、またこの手の人間が死んだか。
「遺体は?」
「まだ現場に」
警察官に軽く礼をし、部屋の奥へと進む。
部屋には微かな異臭が漂っていた。まだそれほど暑くないとは言え、ジャケットで動き回るには少し汗ばむこの季節を思えば、それも頷ける。
床に仰向けで倒れている被害者。頚部から胸部にかけて刃物で何度も切られている。多量出血による出血性ショック死というところだろうか。頸動脈からの出血は勢いがあったのだろう。遺体周辺は血の海と化している。被害者の下半身は露出しており、下着とズボンが無造作に床に置かれている。
情事の最中の殺害だろうか。
遺体から目を逸らし周囲を見渡す。部屋中に血痕が飛び散り、書類や本が床に散乱している。殺害時、被害者と加害者はかなり揉み合ったのか、室内は荒れ果てている。
「矢野崇って、この間テレビで見たばっかですよ。何かとお騒がせ弁護士だったけど、ズバッと意見を言う姿勢は、結構視聴者に人気だったのになぁ」
酒井の横で宇月がそう独り言のように言う。
「お前、テレビ見てばっかだな」
ふと、益枝事件の話をしていた時の宇月も同じようなことを言っていたと思い出す。
「俺、片親で、母親あんまり家にいなかったんで、子どもの頃はテレビばっか見てたんで。テレビっ子なんですよ」
「そうなのか。何か、すまん」
「え、今、係長、俺の発言のどの部分に謝ったんです?もしかして片親ってところ?いやいや、今時珍しくないから。係長の時代は知りませんけど。というか、俺の母親、めちゃくちゃ教育熱心で、家にいると勉強勉強うるさかったんで、むしろ母親のいないテレビを見る時間は至福の一時だったというか」
「友だちと遊んだりしなかったのか」
「係長、俺に友だちなんてものできると思います?」
「いや、無理だろ」
「はい、係長。今のは酷い。今のは謝って」
「お二人とも、ふざけてないで仕事してください」
朝倉に注意されて、宇月と二人して叱られた子犬のように頭を下げる。
再び遺体に目を向けて、何か手掛かりはないかと探し出す。
情事の最中の殺害。それ以外に、下半身を露出するような理由があるだろうか。犯人が殺した後に、わざわざズボンと下着を脱がしたか。どの道、この遺体の損傷からは強い殺意が感じられる。
「第一発見者は」
再び若い警察官に尋ねると、彼は酒井とは別の方向へと目を向ける。彼の視線の先を見ると、給湯室近くのソファに大柄な体格の刑事と30代くらいの女性が一人腰掛けている。
「四方、お前今日非番だって言ってたのに、引っ張り出されてきたか」
見知った顔がこちらに振り返る。麻布警察署の捜査一課の四方慎吾警部補だ。目礼した彼は、参りましたよ、ホント、と溜息をつく。
「この人が、第一発見者か」
「はい。鈴木美恵子さんです。この矢野法律事務所の事務員をしている方です」
四方の隣で顔面蒼白なまま涙目を浮かべる女性。鈴木美恵子は酒井の顔を一瞥し、会釈をする。
いつも事務所で一番に出社し、最後に退社するという鈴木美恵子。彼女が矢野崇の遺体を発見したのは、出社した午前八時。最後に彼女が矢野崇を見たのは、昨日の午後十時半。矢野崇がその時間に退社したのを確認した後、彼女が事務所の鍵を閉め、帰る頃には誰もいなかった。既に鈴木美恵子から訊き出していた情報を四方から聞きながら、酒井は腕を組む。