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井上の言葉に、まともな思考が停止する。
今、この男は何を言ったのだろう。
大して難しくもない言葉の意味が理解ができなくなるほど、かつてない動揺が酒井を襲う。
相良田が、何をしたと?
「会見が終わった後、相良田は帝都グランアージュホテルに宿泊するって噂されてた。会見会場から一番近い高級ホテルだし、社長の名前で2部屋も予約されてるらしい。実際にマスコミの殆どはそっちを張ってるだろうな。でも、昨日うちにタレコミがあったんだ。マネージャーの名前で郊外の安っちぃビジホが予約されているって。このタイミングで相良田とマネージャーが別のホテルに宿泊するなんて、あり得ないだろ。何なら同室に泊まってでも相良田を監視するはずだ。だから昨日、福ちゃんにビジホの方を張らせたんだ。マネージャーも相良田本人もいつホテルに入ったのかはわからなかったみたいだけど、今日の2時頃?に救急車がホテルの前に停まったんだとよ。そしたらドンピシャ。中から担架に乗って出てきたのは相良田。奴らも郊外の人通りの少ないビジホだからって油断したんだろうな。見ろよ。うちの福ちゃんの最高ショット」
井上が一眼レフカメラの映像を見せて寄越す。そこには、ビジネスホテルの裏口と思われる場所から救急隊員やホテルの従業員が出入りしている写真が写されている。
その中の1枚、相良田正臣に似た顔と体格の男がぐったりした様子で担架に乗せられている写真のところで井上は手を止めた。
マネージャーと思わしき人物が手にタオルのようなものを持っている。次に撮られた写真を見ると、そのタオルは相良田正臣の顔の部分に無造作に被せられていて、マスコミ対策なのだろうとすぐに察する。けれどそのタオルも救急車に担架を乗せる際に虚しく地面に落ちて、再び相良田正臣の顔が露わになっている。
「あぁ!武者震いしてきたぜ。俺もホテルの社長と飲んでて良かったぁ。すぐに社長のところに電話きたからな」
井上の忙しいというのはそういうことだったのか。
井上は昨日の時点で既に相良田正臣の身に何かが起きるかもしれないことを予期していたのだろう。それが自殺だったというところまでは予想できなかっただろうが、ビジネスホテルにマネージャーの名前で予約が入っているという情報を知った時、ホテル関係者からのリークを疑ったのだろう。
泥酔状態で碌な電話応対ができていなかった社長の携帯のメールを盗み見たと自慢気に語る井上には、目の前のスクープに目が眩み、道徳概念がすっかり欠落している。
相手が芸能人だとは言え、人の生死を目の前にして、よく笑顔で涎が垂らせるものだ。
「石澤、来週号のトップに相良田のページ持ってくるから調整しろ。見開き4ページ、いや、6ページ。他の記事もぶち抜いて相良田のスクープ載せるからな。朝になったら関係各所への取材交渉も忘れんなよ。相良田の小学校時代の同級生、恩師、1回寝ただけのキャバ嬢でも何でもいい。とにかく全部洗い出して聞き出せ」
来週号のトップ記事と聞けば、酒井も目の前の事実にただ呆然とはしていられなかった。酒井を押し除けて仕事をしようとしている井上の前に立ちはだかり、彼の行手を遮る。
「井上さん、約束が違います」
「あぁ?約束?約束なんてしたか?」
「教官の記事を載せてもらう約束です」
田崎廉太郎の記事を拾い上げて、酒井は井上の胸へと突きつける。それを受け取りもしない彼は、記事を読みながら懐かしそうな表情を浮かべた人と果たして同じ人物なのだろうか。
「俺はとにかく記事を書けと言ったんだ。話はそれからだってな。来週のトップに載せてやるなんて一言も言ってねぇよ」
「井上さん」
「あのねぇ、刑事さん。俺超忙しいの。今この情報戦に負けたら、次いつチャンスが来るかなんてわからないんだから。俺達がそうやって必死で必死で稼いで納めてる税金で、あんたらはおまんま食ってんだろ。邪魔すんなや」
井上の肩が勢いよく酒井の肩にぶつかる。井上を止める理由も見つからず、酒井はただその場に立ち尽くす。
当然のことながら、井上の立場は酒井側でも加賀崎側でもない。情報戦の中を生き抜いていくという意味では、きっとどちらの立場でもあってどちらの立場でもない。
だからこの井上の考えが、最も世論に近いのだ。
井上にとってはどちらでも良いのだ。酒井達が正しかろうが、加賀崎が正しかろうが、そんなものは彼の人生を大きく左右しない。
金になるか、ならないか。興味があるか、ないか。
加賀崎元防衛大臣が語っていた世論の大半というものは、つまりこういうことだ。
酒井達の正義など、あっという間に蹴散らされて人々の記憶から無くなっていく。そしてこの先ずっと思い出されることはない。思い出したとしても、「あぁあの時、そんなこともあったね」と、もう二度とその者の心を大きく揺さぶることはないのだ。
波に呑まれていく。空に届きそうなくらいに激しく打ち上がって、けれどもやがて穏やかに引いていく。
次に打ち上がった波は、もう先ほどのものとは全く違うものだ。
社内は忙しなく人が行き交っている。応接間のソファの前で1人佇む酒井は、まるでこの世界から切り離された存在になったかのようだ。
ぐるりと編集部を見渡す。誰も酒井のことなど気に留めていない中で、真っ直ぐこちらの方を見つめている視線に気付く。
開き切ったまま扉の向こうの廊下に田崎廉太郎が立っていた。
「教官」
次回投稿は4/12(土)
を予定しております。




