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2025/11/13 ▶本話は大規模改編しております。ストーリー全体の構成を変えるものではなく、より読みやすくするためのものです。
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誰かがつけたテレビの音に、つい視線をやる。
酒井勝久は背もたれに浅く腰掛けたまま、ぼんやりと画面を眺めていた。
『速報です。本日午後、空田総理大臣が記者会見を行い、自らの健康上の理由を含む政治的責任を理由に、内閣総理大臣の職を辞する意向を正式に表明しました』
ーーーこれで一体何人目だろうか。ニュースキャスターの声すら、もはや他人事のように響く。
東京都千代田区霞ヶ関、警視庁本部庁舎、刑事部捜査一課の執務室。
このところ、総理大臣の就任期間は一人あたりおよそ一年。総理が変わったところで、自分の暮らしには何ひとつ影響がない。
どうせ今回も何も変わりはしない。これまでのように、これからも。
テレビを消そうと手に取ったはずのリモコンをソファに放り出して、酒井は椅子をくるりと回す。
元より政治については詳しくない上、さほど興味もわかない。毎日同じ事を繰り返す報道番組は、もはや飽き飽きして見る気にもなれない。
そもそも報道などと言うものは、どこまでが真実で、どこからが作られた印象操作か分かりやしない。
それならいっそ、適当に受け入れていた方が楽で、何倍も面倒臭くない。
真実だの嘘だの、そんなものは二の次なのだ。
「どうぞ、係長」
ふてくされたように頬を膨らませていると、突然目の前に湯吞が現れる。
浅倉雪穂巡査の声だ。顔を上げると、お盆を持った彼女が軽く会釈をする。
「朝倉か。あぁ、ありがとう」
そう言うと、にっこりと彼女は満足そうに微笑む。
朝倉の置いていった湯呑を口へ運ぶ。
上品な香りがすると共に、緑茶特有の渋みが口腔に広がっていく。
彼女の淹れるお茶はいつも美味しい。
「酒井係長。リモコンを床に投げないで下さいと何度言ったらわかってくれるんですか。こないだリモコンから抜けた乾電池が行方不明になったのを、忘れたわけじゃないですよね」
テレビのリモコンが酒井の顔面を目掛けて飛んでくる。慌てて湯飲みを机に置いて手を伸ばすと、ナイスキャッチ、とリモコンを投げた男が言った。
「宇月、その言葉、そのままそっくりお前に返してやる。言っとくが、お前が投げ返したせいで無くなった本数の方が多いんだからな」
「それは、係長がちゃんとキャッチしてくれないせいですよ。係長の反射神経がもう少しよければ、誰からも忘れられて埃を被る乾電池も少なかっただろうに」
宇月直哉巡査部長の演技じみた涙を拭う動作が、妙に酒井の神経に障る。
この男はいつもこうだ。最近巡査部長の試験を通過して更に憎たらしさが増した気がする。
「どうせ今の政治事情に頭抱えてたんでしょ」
そう言った宇月の机の横にも湯飲みが置かれる。
「抱えてはいない。もう投げた」
「投げちゃダメですよ、リモコンみたいに」
「それはお前が投げたんだろ」
「政治なんかより気になるのは、やっぱり益枝事件ですよね」
宇月の言う益枝事件というのは、先週、長野県内で東田洋大学の益枝宗之教授が殺害された事件だ。
益枝宗幸は哲学、主に宗教学を専門とする大学教授で、多くの著書や論文を残している。生徒に絶大な人気があり、テレビ出演も行うような教授であったが故に、彼の訃報は世間を今も騒がせている。
「係長、知ってます?教授が実は暴力団と関わっていたって話」
宇月の言う情報は、その事件が世間を騒がす要因のひとつでもあった。
お茶の間の番組に出演するような見事な弁舌と温和な性格、親しみのある容姿からは想像も出来ないような裏に隠されていた事実。
世間の注目を集める人気絶頂の大学教授が、実は暴力団幹部とつながっていた。
「あぁ、らしいな」
「あれには驚きましたよね。だって、そういった裏表がないような人柄に見えるじゃないですか」
どうやら長野県警の捜査本部は、暴力団関係者による犯行だろうという見立てで捜査をしているようだ。被害者が抱えていた莫大な借金の存在も明らかになり、その可能性は更に色濃くなった。
何にせよ、被害者の益枝宗之の評判は悪化していく一方だった。
「でも実際のところ、暴力団関係者に犯人がいると推測した後、何の進展もないらしいですね。正直、本当に教授が暴力団と繋がっていたのかどうか疑わしい話だと思いませんか」
つまりは、何が真相なのかはっきりしないまま、ただただ憶測ばかりが飛び交っている事件だということだ。
「どの道」酒井は一呼吸置いてから口を開いた。「俺たちには関係ない」
「ま、そうですね。これは俺が興味本位で調べていることなので。でもほら、政治よりは面白そうじゃないですか」
「仮にも警察の人間が、人の生死に関わる事件で面白そうなんて言うな」
「はいはい。ごめんなさい」そう言って宇月は、口元を緩める。
「本当に悪いと思ってんなら、態度で表せ、態度で」
深々と頭を下げる宇月を蹴り飛ばしてやりたくなる。日頃の鬱憤を晴らしてやれそうだ。
年寄りのように曲がった背中を気が済むまで睨み付けて、しかしそれで目を逸らす。椅子から立ち上がり、酒井は手にしていたリモコンをテレビの脇にそっと置く。
「ほら、お前の大好きな益枝事件の報道だ」
アイドルグループだか何だかの一員であるという顔の無駄に整った青年が、高そうな灰色のスーツに身を包み、神妙な面持ちで益枝事件に関わる原稿を読み上げている。
「東田洋大学、ねぇ」
そう呟いた宇月は、あろうことか酒井の椅子に座って茶を啜っていた。やはり先ほど蹴り飛ばしておけばよかったか。
「何だ。何か引っ掛かるのか」
「いいえ、別に。ただ、よく問題を起こす大学だなと」
東田洋大学と言えば、関東では有数の難関大学だ。ほんの数年前までは受験者数も多く、受験生にとっては憧れの人気校とも呼ばれていたが、ここ最近になって、それも低迷してきている。
数年前から東田洋大学の教授の汚職事件が発覚したり、入学試験に不正が見つかったりと、問題が立て続けに起こっているからだ。
未だそのブランド力は衰えてはいないが、それも時間の問題だ。今回の益枝事件は、この大学の人気にとどめを刺すことになるだろう。
「まぁ、ここまで次々と色々なことが起こるんだから、元々問題のある大学だったんだろうな。それが今まで明るみに出なかっただけで」
「正直、最近の東田洋大学の人気は、益枝教授のおかげで保ってたようなものですよね。でも益枝教授もこれじゃ、東田洋大学も地に落ちたり」
地は地でも、地面ではなくて地獄。
これまで絶大な人気を誇っていた大学故に、突然倒産することはないだろうが、それは今後の少子化の時代に乗って、緩やかに起こっていくのだろう。
人気絶頂の大学教授が暴力団に関わって殺された。その教授が勤める大学は、ここ数年で何度も問題を起こしている。
その後の捜査に進展がないのは、果たして見当違いな捜査をしているためか、それとも。
「そういえば係長、長野県警の警部と知り合いでしたよね?何か情報聞いてきてくださいよ」
「そんなの教えてくれるわけがないだろ。東京で関連事件でも起きない限り」
酒井の言葉に、宇月がにやりと笑う。その発言を待っていましたと言わんばかりに、宇月は口を開く。「起きますよ、きっと」
言葉の意味が理解できなくて、酒井は首を捻る。
「これはまだ、始まりに過ぎない」
「何を言ってるんだ、お前は」
「みたいな感じだったら面白いですよねぇ。現実には無理か」
大きな溜息をつく。
現実はそう物語のようにはいかない。これはただの一教授と暴力団のいざこざによって起きた事件で、それ以上でもそれ以下でもない。
やがて捜査は終結を迎える。そのエピローグは、興味を持ったのが馬鹿馬鹿しくなるほど平凡なのだろう。
ニュースの内容が天気予報に変わる。テレビに興味のなくなった宇月が、勝手にテレビの電源を消す。
「係長、何サボってるんですか。仕事しましょう」
「お前が言うな、お前が」
宇月が怠慢さを隠そうともせずにのろのろと自分のデスクへ戻っていく。つられたように、朝倉も自分のデスクへ走っていく。
先ほどまで宇月が座っていた椅子を二、三度はたくと、酒井もゆっくりと腰を下ろした。手元の書類に目を通しながら、脳内を仕事へと切り替える。その時。
ーーー無機質な音が執務室の空気を貫いた。事件発生を知らせる放送だ。
『麻布署管内、弁護士事務所にて殺人発生ーーー』
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