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2025/11/16 ▶全体の流れの調整、読みやすさ改善のため、一部改編を行なっております。
2023/10/29 ▶誤字脱字等を微修正しております。
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物心がついた時には、母親はいなかった。
家政婦が数人いて、身の回りのことは一通りしてくれていたが、母親の愛情というようなものは、感じたことがなかった。
父親はめったに家には帰ってこなくて、何となく、自分以外に家族がいるのかなと、子供心ながらに感じていた。
「愛美さん、学校は」
登校時刻を過ぎても部屋から出てこない愛美を見兼ねてか、家政婦が部屋のドアを叩いてくる。
声から察するに、今日の家政婦は田崎花絵か。
一番無愛想で、自分の仕事を淡々とこなす人だから、愛美も気楽に接している。
家政婦と仲良くなると、何故か3日後には来なくなる。だから、適度な距離感で接してくれる方が楽なのだ。
「んー。休む」
ベッドの上で携帯をいじりながら、愛美は応える。わかりました、とドアの向こうから小さな声が聞こえた。
布団を頭から被る。薄暗い中で、何度も携帯の着信履歴を見たり、メールの再受信ボタンを押す。けれど何も変わらなくて、苛立って部屋から飛び出す。
「ねぇ、花絵さん。パパから何か連絡あった?」
ダイニングテーブルには朝食が用意されていた。朝は食べないと家政婦には伝えているのだが、目の前に広がるのは一汁三菜。朝から豪華な食事だ。
食欲はなかったが、せっかく用意されているものを断れず、愛美は仕方なく席につく。
花絵は接していて気楽だが、こういうところが面倒なのだ。3食しっかり食べろだとか、食事の最中に携帯をいじるなだとか。そこさえなければ、もっと良いのだが。
「いいえ、何も。何かご用ですか?」
「別に。ないなら良い」
別にいつものことだから期待はしていない。少しでも期待していた時期は、とっくに過ぎた。
「では、学校に連絡しておきますね」
溜息を付きながら、具沢山の味噌汁を口にする。ほどよく温かい液体が口から喉を通り、胃の中へと収まる。それだけなのに、何故か心までも温まるような感覚になる。
「花絵さんってさ、料理上手だよね」
電話を終えた花絵は、自分の分の朝ご飯を無言で用意して、そして机に並べる。当然のように愛美の前に座って、黙々と食事を摂る。
主人の目の前で堂々と許可も取らずに食事をするのは、家政婦の中では花絵だけだ。
「家政婦として、当たり前の程度かと」
「いや、遠藤さんとか正直料理下手だよ。掃除は凄いけど」
「愛美さん、食事の時は肘を付いてはいけません。お行儀が悪いです」
あからさまにムッとするが、花絵が怯む様子はない。会話を楽しみながら食事をしたいだけなのに、こうして説教されると、気分も下がる。
結局2人とも黙ってしまって、食器の静かな音だけが食卓に流れる。
「ごちそうさまでした」
空気が気まずくて、愛美は急いで食事を平らげる。席から立ち上がり、自分の部屋に戻ろうとする。
「この後、買い物に行って参ります。何か買ってくるものはありますか」
いつも思うのだが、花絵は愛美の一挙一動が怖いと思わないのだろろうか。あまりにあっけらかんと「何か買ってくるものはないか」と聞いてくるものだから、愛美は思う。
彼女は、愛美が嫌だと言えばいつでもクビになってしまう立場なのに。
「ないっ」
そう言い捨てて、愛美は部屋のドアを乱暴に閉める。フラフラとベッドに歩いて行って、そのまま倒れ込む。しかし眩しさを感じて、顔を上げる。
締め切っていたカーテンが全開になっていて、朝日が部屋に入り込んでいる。窓も少し開いていて、朝の爽やかな空気が部屋を覆っている。
愛美が部屋を出てから、花絵が開けたのだろう。家政婦には部屋に入るなと伝えてあるのに、契約違反ではないか。
だが、何となく気分が良い。それが太陽のせいなのか、ベッドメイキングがされたふかふかのベッドのせいなのかはわからない。いつもはカーテンも開けずにいる部屋に、新鮮な空気が入り込んだからかもしれない。
学校には行きたくないが、散歩にでも出かけようか。
そんなことを考えていた矢先、携帯の着信が鳴る。ーーー電話だ。
画面を開いて、背筋が凍る。手が震えて、思わず携帯を床に落としてしまう。動悸がして、息が荒くなる。
暫くすると、着信音が止まる。すると少し気持ちが落ち着いて、落とした携帯を拾う。
しかし、それも束の間だった。またすぐに着信音が鳴り響く。再び携帯を落としそうになるのをじっと堪えて、愛美は電話に出る。
『駄目だよ、愛美ぃ。学校をサボっちゃ』
唾を飲み込む。喉がカラカラに渇いて、声が出せなくなる。
『今からでもおいで。待ってるから』
野太い、気持ちが悪い声。耳元から全身へ鳥肌が広がっていく。
『返事はっ?!』
声が出せずにいると、電話の向こうから怒鳴り声が聞こえてくる。
意図せずにぼろぼろと涙が溢れてきて、必死で声にならない声を出す。
「行きます。今から行きます。ごめんなさい」
『良い子だね。待ってるよ』
一方的に電話が切れる。話中音を聞きながら、愛美は茫然とする。
着替えなきゃ。
足に力が入らなくて、ベッドから落ちるようにして移動する。クローゼットに掛かっていた制服を取り出して、急いで着替える。
涙が止まらない。焦りと不安と恐怖が同時に押し寄せてくる。
筆箱と財布しか入っていない鞄を無造作に拾い上げて、ドアノブを掴む。
ーーーその瞬間、すっと、涙が止まった。混乱していた頭が鮮明になって、酷く冷静に、心が止まる。
ドアを開ける。キッチンの掃除をしていた花絵が、顔を上げてこちらを見る。
「学校言ってくる。お昼いらない」
花絵の表現は変わらない。わかりました、お気をつけてと、ただそれだけを言う。
玄関で革靴を履く。昨日は雨が降って泥がついていたはずなのに、綺麗に磨かれているな、とぼんやり思って、家を後にする。
気が付くと学校にいた。どうやって来たかは全く覚えていない。
いつもは登校時間が過ぎたら閉まっている校門が開いていて、多分、「あいつ」が開けたんだろう、と思い立つ。
校舎の外には誰もいない。もう1時間目の授業が始まっている時間だ。
静まり返った校舎の入り口にたどり着いて、下駄箱を開ける。
中から一気に何かが落ちてくる。ビリビリに破かれた学校からの手紙と、授業のプリント。この間忘れて帰ってしまった教科書だったはずの物。泥まみれになって濡れていて、それが本当に教科書だったかもわからなくなっている。
肝心の上履きは、ない。
動揺する心の隙間はなかった。そのままただ淡々と踵を返して、職員棟へ向かう。
「おはよう」
背後から声がした。さっき電話で聞いた、あの声だ。
振り返る。醜く出っ張った腹が、真っ先に視界に入ってくる。
「ちゃんと登校して、お利口さんだね」
腰に手を添えられて、促されるままに歩き出す。
「さ、授業を始めようか」
耳元で聞こえたその声に、今度は涙は流れなかった。
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次回投稿は2023/8/13を予定しております。




