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或る少女の物語

作者: マイマイ

 彼女は可愛くない子供でした。


 笑わず、泣かず、そしてほとんど声を出さない子供でした。


 洋服を用意してもらえないので、何カ月も同じ洋服を着続けました。だから彼女の周りには常に異臭が漂っていたのです。


 そんな彼女も教室で先生に指名された時には、くぐもった声でぼそぼそとテキストを読み上げます。でもそれだけ。


 もちろん、彼女だって楽しいと思ったときには笑います。けれども、それはほんの少し唇の端を歪める程度に過ぎなかったので、誰にも気づかれるものではありません。


 大人たちは表情のない彼女を前にすると、気持ちの悪いものでもみたように一様に顔をしかめました。


「子供らしくない」


「変な子」


 大人たちの表情を子供たちは敏感に感じ取ります。やがて、彼女に近づく子供は誰一人いなくなりました。


 家の中でも、彼女は邪魔ものでした。母親も、祖母も、叔父も、叔母も、彼女の中に流れる父親の血を嫌いました。父親は働かなかったり、おかあさんを殴ったりするひどいひとだからだそうです。


でも父親は彼女には優しくしてくれたこともありました。だからどうしても完全に嫌いになることはできなかったのです。


それがまた家の中の人間のこころを波立たせ、ことあるごとに怒鳴られ、殴られ、存在を否定され続けた彼女は居場所がなくなり、


 そしてその顔からはどんどん表情と呼べるものが消えて行きました。


彼女がこころを解き放てるのは、眠りにつく前のほんの一瞬。まくらに顔を埋めて、彼女は1日ぶんの涙を流し、声を殺して泣きました。


 だれにも気付かれないように。



 まだ小学生の彼女は、そのちいさな胸の中でひとつのことを決めていました。またひとつのことを悩んでいました。


 それは。


 わたしはきっと、大人になってお母さんやおばあちゃんみたいに働くことなんてできない。みんなもそう言っている。おまえは何一つ満足にできないやつだって、言ってる。


 おとなというのは二十歳になることをいうのだそうだ。だから、わたしは二十歳になる前に命を終わらせよう。


 そう決めていました。


 迷っていたのは、そのタイミングと方法です。


 どうすれば、みんなに叱られずに終わらせることができるだろう。ずっと、ずっと叱られてばかりいたから、最後くらいは叱られずにいたい。


 そう思っていたのです。



 そんな彼女のもとに、ある日ちいさな知らせが届きました。


 父親が亡くなったという知らせでした。家の中の人間はみんな、それを聞いて大喜びしていました。彼女の目には、大好きな母親さえもそのときばかりは得体の知れない化け物のように映りました。


 みんなの前では絶対に泣けない。また叱られる。



 彼女は柔らかな頬の内側の肉を噛みしめました。涙をこらえるとき、そうすると痛みで悲しさを忘れることができたからです。しばらくすると、肉が裂け、血が滲み、鉄の味が広がります。そうすると、なぜかすこし安心できました。


 彼女はみんなが寝静まった後、こっそりと机に向かいました。なぜか家の人間はみんな、彼女が勉強することさえも嫌がったからです。勉強は嫌いではなかったので、彼女のテストは間違いがほとんどありませんでした。けれども、決して誰にも誉められることはなかったのです。


 薄暗い部屋の中で算数の宿題を終え、学校で借りてきた本を数ページめくったところで、お父さんのことを思い出した彼女は一筋だけ涙を流しました。


 「死」というものがどういうものなのか、どれだけ本を読んでもわからなかったけれど、でも、もうどこにもいないという漠然とした感覚は彼女を不安にさせました。


 机の上にあった鏡をのぞきこみます。そこには父親にそっくりな顔がありました。目と鼻を真っ赤にしたその顔は、いつものとおり全然可愛らしくありません。


 そのとき。



 頭の中に、父親の声が響いたような気がしました。


 『笑ってごらん。君の笑った顔が、僕は大好きだったから』


 まわりを見回しても、どこにも父親の姿はありません。薄暗い部屋の中、ただ家の人間の寝息が聞こえるばかりです。


 彼女は鏡をもう一度のぞきこみました。今度ははっきりと父親の声が聞こえました。


『僕は、ひどい父親だったかもしれない。


 でも君のことは本当に大好きだった。君が生まれた日に、病院で僕は泣いたんだよ。


 こんなに可愛い娘を、いつかほかの男に連れて行かれるのかと思うと、


それが悲しくて泣いたんだ。


 おかあさんにも、看護婦さんにも笑われたけど、僕は本気で誰にも嫁にやらないと、


そのときに誓ったんだ。おかしいだろう?


 君が笑ってくれると、僕もうれしかった。泣いているのを見たら、僕も悲しかった。


えらそうなことは言えないけれど、僕は君に生きていてほしい。


生きて僕を覚えていてほしい。


そしていつか君が大人になって、素敵な女性に成長したら、


そのときには僕が悔しがるくらいのいい男が君を迎えに来るはずだから。


そのとき君はこころから、


生まれてきてよかったと思えるはずだから。


僕の後を追いかけてきてはいけない。


大好きな君の笑顔を、どうか最後に僕にみせてくれないだろうか』



 声を聞きながら、彼女はぽろぽろと涙をこぼしました。そして鏡をのぞきこみ、涙をぬぐって、口角をしっかりとあげて目じりを下げ、これも父親がお気に入りだった八重歯を見せてにっこりと笑いました。


『ありがとう。君はとっても可愛い。


 誰がなんと言おうと、僕にとっては世界で一番可愛い子だよ』


 すぐに父親の声は聞こえなくなりました。


 彼女は鏡に向かって、何度も笑って見せました。それはいつもの彼女よりも、ほんの少しだけ可愛らしい顔に見えたからです。


**************************************


「ちょっと、なんなの、その悲しい話」


 わたしの裸の胸に顔を埋めながら、男が眠そうな声をあげた。


「ふん、まあ、昔話だよ」


 ベッドのサイドボードに手を伸ばし、1本だけ抜き取った煙草に火をつける。白い煙の筋が天井に向かってゆっくりとのぼっていく。


「君の小さいころの話?まさかね」


「なにが、まさかよ」


「こんなエラそうな女が、そんな殊勝な過去を持っていたとか、あり得ない」


 男の腕が背中にまわり、わたしの体を強く抱きよせる。男の短い髪の先が、肌をちくちくと刺す。けれどもこれまでにわたしが感じてきた痛みに比べれば、何ほどのこともない。


 男が顔を上げる。その顔に煙草の煙を吹きつける。


「ちょ、ひどいな・・・ねえ、それで?その女の子はどうなったの?」


「どうもならない」


「どうもならないって、なんだよ。すっきりしないな」


 男の頭をくしゃくしゃと撫でる。


「彼女はそのあと、結局二十歳を過ぎても死ぬタイミングがつかめませんでした。そしてろくでもない男に引っかかって、人生を浪費しています」


「ひーっ、なんだよそれ。救われねえな。ハッピーエンドじゃないとさ、そういう話は」


「うるさいよ。だってまだ『エンド』じゃないんだからしかたないだろう」


「でもさ」


「なによ」


「まだ、生きてんだろ。その子」


「生きてるよ」


「絶対幸せになれるよ」


「どうかな」


「俺が、幸せにするよ」


 わたしは体を起こし、ベッドから出て立ち上がる。男は不思議そうにわたしを見上げた。吸いかけの煙草を、男の口に咥えさせる。


「彼女は誰にも幸せになんかしてもらえない。欲しいものは自分でつかみとるしかないんだ。それくらいのことはわかってるはずサ」


「強いんだな」


「さあ、どうだろ」



 過去がどうあれ、未来がどうあれ。


 どの道、生きて行かなきゃしょうがないんだ。だったら、好きにやってやろうじゃないか。必要なだけの力をつけて、ただ真っ直ぐに自分の思う道を歩いてやろうじゃないか。


 あの日から彼女は、


 わたしは、


 そう思って腹を括って生き抜いてきた。自分のケツは自分で拭くと決めて、絶対に言いわけをしないと決めて、生きてきた。


 物語はまだ続いていくのだけれど、


 ねえ、父さん。これで、いいんだろ?2月のあの日のこと、わたしは忘れないよ。


 彼女は背伸びをして、名残惜しそうな男を尻目に部屋を出て行った。


(おわり)


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