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第六話、記憶喪失

 耳障りな目覚まし時計の音で、寿矢は目を覚ました。


「…もう、朝?」


 体の節々や、筋肉がずきずきと痛む。それもその筈、肉体を酷使した上に固い床で寝ていたからである。

 そんな風に床で寝るようになってかれこれ一ヶ月。ベッドが占領されたのも勿論一ヶ月前から。そして、それまでした事が無かった装飾品を身に付け出したのも、一ヶ月前の、とある事件以来。

 彼の腕には、銀色の牙を象った印象のバングル。

 寿矢は、むっくりと身を起こすと、ベッドに向かって声を掛ける。


「リシアー、朝だよ。起きてー」


 しかし、布団の膨らみはピクリとも動かない。

 寿矢は、眠たい瞳をごしごしと擦る。もう一度、そしてもう一度、と何度も起こしてみるが、全く反応が帰ってこない。

 らちがあかない。

 

「もぉ、起きろって!」


 そう思った寿矢は、リシアを包んでいる布団をおもむろに引っぺがした。


「……ん?」


 だが、ベッドには誰も寝ていない。ただ、枕が横たわっていて、おかしな紙が貼り付けてあった。よく見ても、よく見なくても、その紙には『ハズレ』と書いてある。

――訳が分からない。

 その瞬間、首を傾げている寿矢の脳天に、鈍い衝撃がぶつかった。

 ごん。


「〜〜〜〜〜〜〜ッ!」


 寿矢は、言い様の無い痛みに、頭を抱えてしゃがみ込む。


「何するんだよぉ〜」


 その背後にいたのは、他でもないリシアだった。

 艶やかな銀の髪。野生動物を思わせる切れ長の金色の瞳。絹のようにきめこまやかな白い肌は、黒く袖の無いワンピースに包まれている。しかし、どこか人間離れした美しさを持った少女。

 そんな彼女の手には、銀の槍『ヴィザルス』が握られている。

 寿矢は途端にヴィザルスで殴られたらしいことを理解した。

 ようやく理解できたらしい寿矢に、リシアは、腰に手を当て少々怒ったような様子で言う。


「ばか者。敵はいつ襲ってくるか分からんのだぞ。何時いつ如何いかなる時でも気を張っておけと言っただろう」


 リシアの熱い眼差し。その反面、寿矢はの目はしょぼついていた。

 彼は朝が苦手なのだ。ただでさえほうっておいて欲しい精神状態で、リシアの行動は正直、迷惑だった。

 ひりひりする頭をさすりながら、寿矢は呆れ顔でリシアに問う。


「あのさ、今まで朝から、しかもこの部屋に、敵が現れた事が一度でもあった?」


 だが、リシアはすぐさま切り返す。


「そんな言い訳など通用せん。妾と共に戦うのであろう?」


「そりゃそうだけどさ…」


 そう。その約束が前提にあると、寿矢が言い返せない事をリシアは理解していた。


「ならば、それ相応の覚悟をしっかりもってくれ。でなければ、妾も満足に戦えない」


 リシアの言葉に、寿矢は返す言葉に詰まった。今までに、何度となく聞かされてきたからだ。

 心食獣は、契約した主の心を食う。そして、食べた心の強さだけ強くなれる。というのは、リシアから聞かされた言葉。

 当然、寿矢の心身が強ければ、リシアの力も増す、ということだ。


「でも、昨日だって訓練しただろ。せめて、朝くらいは…」


 それが寿矢の言い分だった。昨日も学校から帰ってくるや否や特訓が始まった。リシアいわく、あくまでも実践的な訓練。

 しかし、リシアは寿矢の弱々しい抗議を一蹴する。


「当たり前だ。毎日訓練すると約束したではないか。時間帯など関係無い」


「そんな…滅茶苦茶な」


 うんざりした様子の寿矢。毎日毎日、ヴィザルスの特殊能力である、実像と虚像を入れ替えて空間に閉じ込める能力『転世』によって作り出された虚像空間ミスティカルフィールドで、しごかれている。その訓練は激化の一途を辿るばかり。さすがの寿矢でも疲労の色が隠せなかったし、顔にも出てしまっていた。

 寿矢の嫌そうな顔を目の当たりにして、リシアは戸惑う。


「ま、まぁ、寿矢がそんなに訓練が嫌なのなら、妾は…」


 少しだけ悲しみを帯びた表情に、そんな表情にさせてしまった事に、寿矢は罪悪感を感じる。


「ち、違うよ!言ったもんね、リシアの力になるって!だからそうじゃなくって、朝はやめようって意味で…」


 リシアは少し黙って、唇を尖らせた。しょうがない譲歩じょうほ


「わかった…朝はやめる。その代わり、今日は早く帰ってくるのだぞ?」


 どこか切実な、それでいて真顔のリシア。

 寿矢はリシアが分かってくれたらしい事に感謝しつつ、笑顔で答える。


「うん、分かったよ。約束する」


 途端にリシアは背を向けた。銀の髪がふわりと揺れる。寿矢は何かしてしまったのか、と不安になる。


「リシア?」


 約束。そう言った寿矢に、リシアは背中越しに答えた。


「待っておるからな」



 その栗色の髪の少女は、教室の片隅でぽつりと座っていた。その表情、たたずまいには生気が殆ど感じられない。

 周りの生徒も、痛々しい様子の女子生徒に声を掛けられずにいた。その代わりに、声を押し殺したひそひそ話があちこちで行われている。


幡代はたしろさん、本当に記憶喪失になったの?」 

「らしいよ。今は大分思い出したらしいけど、最初は自分の名前も思い出せなかったんだって」 

「記憶喪失なんて初めて見たー。居る所には居るんだねぇ…」 

「先週退院したんでしょ?」

 

 少女は立ち上がり、どこか弱々しい足取りで教室を出て行く。

 彼女にとって、奇異な物を見る視線が集中しているこの教室は、とにかく居心地が悪かった。

 朝の校舎の廊下に出た少女は、ゆっくりと記憶を辿るように歩きながら、小さな声で呟く。


「私の名前は、幡代椿はたしろつばき。現在、十六歳。誕生日は11月9日。家では、父と母との三人暮らし。住吉南中学を卒業して、この住吉高校に入学してから…」


 それから……

 思い出せない。

 少女は、沈鬱な表情で廊下を歩いて行く。何か、自分の手がかりを求めて。



 寿矢は、遅刻7分前に、ようやく校門をくぐった。下駄箱で靴を履き替え、一段飛ばしで階段を駆け上っていく。一階、二階。リシアとの契約と訓練で体力が強化されている為か、このぐらいで疲れたりはしない。

 しかし、二階と三階の踊り場で寿矢の軽やかな足取りが、一度止まった。同時に、恐怖で目が見開かれた。


(――!)


 寿矢が昇ろうとした階段の先には、あの女子生徒が、自分を殺そうとしていた女子生徒が立っていた。

 後から聞いた話では、幡代という苗字で、寿矢のD組の二つ隣のクラスであるB組の生徒らしい。

 寿矢は、目を合わせないように視線を伏せて、少女の脇を通り過ぎる。


(びっくりした〜。もう学校来てるんだ)


 すれ違ってから、寿矢は安堵の溜息をつく。

 ふと、リシアの言葉を思い出す。


『あの娘に心食獣と関わっていた時の記憶は一切無くなっている。それが、心食獣と契約を解除する、という事だ。覚えておけ』


(記憶…か、僕もリシアと契約を解除したら、記憶が消えるのかな)


 それはちょっと怖いかも、などと思いつつ、寿矢は教室に入っていく。

 その後姿を、振り返った女子生徒は見ていた。


「あの人、どこかで…。もしかして、私の知ってた人?」


 どこか覇気のある瞳だった。


 教室に入った寿矢を迎えたのはいつもの友人。太一と、裕紀。

 最初は、周りの生徒と同じように『ガス爆発事件』に混乱していた二人だが、一ヶ月も経つ今となっては、嘘のように落ち着いていた。


「うーっすトシ」


「今日も遅いな谷崎」


「ははは、朝はダメなんだよ」


 この三人の友情はおかしな形で継続されていた。

 あの後から太一は急に寿矢にたいして穏やかな態度を取るようになった。最初の頃は、寺岡も寿矢も驚いていたが、いつの間にか慣れてしまっていた。


「そう言えば、谷崎最近早く帰るよな?何かしてんの?」


 裕紀が何気なく聞いた一言。

 当然の如く寿矢は笑って誤魔化す。


「えっと、ちょっとね」


 だが、一人だけ、太一の表情は硬かった。


「太一?」


「ん、あ、いや、なんでもねぇよ」


(太一…)


 寿矢には分かっていた。太一は受け止めきれない恐怖を目の当たりにしてしまったのだ。寿矢は心のどこかでリシアというより所があったのに対し、太一には相談する相手も頼る相手も居なかった。


「…そっか」


 だから、彼は目を逸らす事にした。何も無かった事にしたのだ。

 寿矢が何かしている事も、あの変な男に襲われた事も、あの銀髪の少女が寿矢に関わっている事も。全部、全部知らないふりをした。そうすれば幾分か彼の心は楽になった。

 寿矢はにとっては、率先して首を突っ込みたがる性格の太一がそういう態度に出てくれたことは嬉しい事だった。こうして普通を装った生活を続けている限り、彼を巻き込む事も無い。

 寂しい思いより、太一の危険が減る方が寿矢には良い事だった。


「そろそろ授業だね…」


「一限目は現国かぁ、宿題やった?」


「ヤバ、全然やってない。トシは?」


「僕も」


 そして、今日も偽りの学校生活を続ける。

 流れて行く普通の中で、ただ、寿矢は思う。

――今日もリシアの事が姉さんにバレませんように。



 当のリシアは、寿矢の部屋で難しい顔で唸っていた。

 ベッドの上で胡座あぐらをかいて腕を組んだ彼女は、やはり悩んでいる。


「む〜、寿矢はこの一ヶ月で大分強くなった。けれど、人間にしては…だ」


 彼女の前には、銀の槍が立てかけられている。どういう仕組みなのか、その槍は声を発した。


「そうでございますな。昨日は、当初とは段違いの動きでございました」


 ヴィザルスの言葉も考慮の内に入れ、リシアはう〜んと唸った。


「そろそろ心術を教える頃かもしれぬなぁ」


 いつも寿矢が居ない暇な時間には、こうして訓練の内容について、腹心であるヴィザルスと議論を交わしている。ああでもないこうでもないと毎日試行錯誤を繰り返しているのだ。

 リシアの配下という立ち位置にあるヴィザルスは平淡な声で、リシアに伺う。


「しんじゅつ…とは?」


 リシアは、思い出したように呟く。


「そうか、そういえば汝は、心食獣ではなかったな」


 ヴィザルスはどこか暗い声で返す。


「ええ。私は、ルリンによって生みだされた心食獣の劣化物れっかぶつにございますので…」


 ヴィザルスの言葉に、リシアの表情が冷たく変貌した。


「ブローターの総裁、死を統べる者ルリン…か」


 銀の槍から平淡な声が補足する。


「…同時に、破滅の魔女エクセーヌの契約獣。殿下の怨敵おんてきにございます」


 わかっておる、と噛み締めるようにリシアはささやいた。同時に、ベッドから立ち上がると、寿矢の机の引出しを開けた。


「こやつも、ヴィザルスと同類だったな」


 彼女が手に取ったのは、銀の縁取りが新たに施された黒い十字架だった。


「ええ。ロシートの契約獣だった、アルゼルですな」


 十字架は煌々(こうこう)と緑色の光を放っている。


「ああ。こやつを説得するのには骨が折れた。何しろ、前の主が気に入っていたようだからな」


 ふと気になったヴィザルスは、リシアに尋ねる。


「殿下は、アルゼルには、私のように言葉を紡ぐ力を与えないのですか?」


 リシアはあっさりと言う。


「妾は、やかましいのは好かん。こやつはぎゃーぎゃーうるさいのだ」


――確かに。

 そう心の中で呟きつつ、ヴィザルスは更に問う。


「この後、彼女をどうされるのです?」


 毅然きぜんとしてリシアは答えた。


「新たな契約者が見つかれば、それでよし。そうでなければこのままだ」


 ほんの一瞬、銀と黒の十字架は、ぎょっとしたような緑色の光を漏らした。

 それを見逃さなかったリシアは、じろりとアルゼルと呼ばれた十字架を睨み付ける。


「それが嫌ならば、早く契約者を見つけることだ」


 冷ややかに突っぱねたリシアに、ヴィザルスが続く。


「その通りです。そうすれば殿下も喋る力を与えて下さいましょう」


 ヴィザルスの突然の言葉に、むっと眉をしかめるリシア。しかし、十字架は嬉しそうに光を溢れ出させる。

――冗談ではない。

 リシアは鬼の形相でヴィザルスに詰め寄る。


「おい、勝手な事を言うな!こやつが喋りだしてみろ、うるさくてかなわんぞ!」


「しかし殿下、交渉に優遇条件は必須です。彼女も、新たな契約者探しに精を出すことでしょう。そうだなアルゼル?」


 ぱっぱっと、緑の光が点滅する。まるで「そうそう」と相槌あいづちを打っているようだ。

 リシアは釈然しゃくぜんとしなかったが、配下の意見を聞き入れてやらないほど器の小さい心食獣ではない。

 観念したように溜息を一つ、


「いいだろう。まぁ、見つけられたらの話だがな」


 手元の十字架を見やった。

 十字架は、「やってやる」と言うように、闘志を感じさせる光を一度散らした。

 それを見届けたヴィザルスは、ずれてしまった話を元に戻す。


「殿下。それで心術とは?」


「そうだな。心食獣の契約者は、心食獣が喰らった心を、心力しんりょくとして還元かんげんできる。その心力を用いた術の事だ」


「我等とは、大分異なりますな」


「そういうモノだ」


 リシアはぶっきらぼうに言う。そして、声が沈んだ。


「ただ、寿矢にできるかどうか…。心力は無限ではないのだ。使い過ぎれば寿矢の疲労は今までの倍以上…」


「殿下は寿矢殿を、甘やかし過ぎです」


 リシアは、ヴィザルスの言葉に押し黙った。

 今朝のやり取りを見ていたヴィザルスは、静かに続ける。


「本来、契約者は、すでに契約者となった者に戦い方を教えます。殿下の訓練は、それに比べると遥かに甘いかと」


「…そう、なのか?」


 手痛い指摘に、視線を下に落とすリシア。

 因みに、朝の強襲訓練を発案したのはヴィザルスである。


「いつ命を落としてもおかしくないと思わせる事によって、常に緊張感を保てるようにする。これが基本です」


 彼の言い分はこうだった。

 しかし、リシアは頷けない。


「だが、それでは、戦い自体に恐怖を抱いてしまわないだろうか?戦いその物に恐怖を抱いてしまっては、元も子もないではないか」


 彼女は寿矢をブローターやレイサイドのように育てるつもりは、更々(さらさら)無い。寿矢は、寿矢らしくあればいい。

 そんなリシアの教育方針を上手く理解できないヴィザルスは、目下という境遇もあってそれ以上は言い返せない。


「…そうかもしれませぬな」


「けれど、ヴィザルスの言っている事も、重要だとは分かっているのだぞ?ただな…」


 顔を上げたリシアの表情には確かな不安が見て取れた。

 ヴィザルスは続く言葉を求める。


「ただ?」


「妾には勇気が無いのだ」


「…と、言いますと?」


 リシアは、ほんの少しだけ頬を桜色に染めた。


「妾はな、寿矢以外の人間には興味が無い。否、持てないのだ。寿矢だからこそ、妾の契約者には相応しいと思っている。それに、寿矢の心は妾にとって甘美なる美酒だ」


 ヴィザルスはようやく理解する。


「殿下は…寿矢殿が、離れてしまう事が恐ろしいのですな?」


 リシアは何も言わず、首を縦に振った。

 そう言った後、ヴィザルスは言葉を探す、なんと言えばいいのか分からなかった。


「さようですか…」


 結局、返した言葉はそれだけだった。狭い寿矢の部屋を沈黙が包む。ヴィザルスは意気消沈してしまったリシアを気遣うべく話題を変える。


「ですが、当初と比べると、寿矢殿は本当に強くなられた」


 リシアは黙ったまま頷く。

 ヴィザルスの言葉には嘘や偽りは無い、寿矢はこの僅か一ヶ月の訓練で目覚しい進歩を遂げたのだ。並の契約者ならば同等、もしくはそれ以上に戦えるだろう。


「殿下は、寿矢殿が己の成長に気付くよう時には勝たせ、それでは足りぬ事を自覚させる為、時には負かしている。これは非常に良い」


 リシアは、ぱっと顔を明るくする。


「そ、そうか?」


 だが、すぐに表情を消した。


「そうだな。確かに寿矢は強くなった。だが今は、武器をぶつけ合っているだけ…」


 どこか遠回りに言ったリシアに、ヴィザルスは言葉の本質を見抜く。


「…戦士としての覚悟がなければ使い物にならない…という事ですな?」


 リシアの体がぴくりと反応した。

 ヴィザルスはリシアに問う。


「本当の敵が現れた時、寿矢殿は戦うのでしょうか?」


 リシアは大きな溜息をつく。


「さぁな、寿矢は穏やかな心の持ち主だから…。けれど、一ヶ月前の奴は相当堪こたえたらしい」


 ロシート。ブローターの男だった。

 あの時、寿矢の命が、大切なものが窮地に瀕した。


「守りたい物…で、ございますか。それを踏まえて、寿矢殿の覚悟が時間と共に消え行く程度のモノだったのかどうか、そして本当の覚悟を決められるかどうか――」


 ヴィザルスがそこで言葉をとぎり、リシアが続ける。


「そこが、寿矢の運命を左右するだろうな。なに、あれ以来、未だこの街にはブローターもレイサイドも現れてはいない。時間はあるさ」


 そう言って、リシアはぽふんとベッドに倒れた。

――ゆっくりやれば寿矢だって…。

 ヴィザルスは少しの間、沈黙する。そして、心中の言葉が思わず口に出てしまった。


「…そうだと良いのですが」


 意味ありげなヴィザルスの言葉に、リシアはばっと見を起こす。


「何だ?思い当たる節でもあるのか?」


「い、いえ、あくまでも憶測ですので…」


 何だ変な奴だなと言って、リシアはもう一度ベッドに仰向けになった。銀色の髪が大きく広がる。

 時計を見れば、二時ちょうど。もうあと何時間で寿矢が帰って来る時刻だ。

――寿矢、早く帰って来て

 そう心の中で呟いて、リシアはまぶたを閉じた。



 ぼーっと窓の外の代わり映えのしない景色を眺めていると、最後の授業の終わりを告げるチャイムが鳴り響いた。

 クラス委員の起立の掛け声で、生徒達が一斉に立ち上がる。そして礼で少しだけ頭を下げる。教師はそれを見届けると、教室を出て行った。

 放課後の訪れである。

 生徒はそれぞれ談笑したり、部活に向かったりしている。


(急いで帰らないと…)


 そんな中、寿矢は足早に教室を後にした。正直なところ、無理して笑顔を作っているのに疲れていた。

――僕はもう、普通じゃないんだよね

 それでも、寿矢にはそれで良かった。

 彼が、ちょうど下駄箱で靴を履き終えた時である。


「あの、す、すみません…」


「え?」


 寿矢は大いに驚いた。そこに立っていて、自分に声を掛けたのは、あの少女だった。

 少女はおずおずと問う。


「私の事…」


 そこまで言って、少女は言葉を変えた。

 レイサイドだった頃の記憶を失っている少女が何を言おうとしているのか、寿矢は気が気でない。


「身勝手なんですけど…少しお時間貰えますか?さ、探し物をしてて…、あなたに手伝って欲しくて…」


 寿矢の額から嫌な汗が出る。記憶を失っていても、彼の脳裏に最悪の形で焼きついていた少女は、未だ恐怖に値するのだ。

――まさか記憶が…

 寿矢は少し怯えながら訊き返す。


「ど、どうして?」


 少女は一層控え目な調子になって言った。


「君の事、知ってる気がするんです。私、記憶が無くって…それで…」


 少女は口篭もる。何と言っていいか分からず、困り果てているようだった。

 当然、寿矢もどうしていいか分からなかった。


「えっと…僕は…」


 精一杯、この場を切り抜ける言葉を探す。


「これから、用事…あるんですか?」


「い、いや!そういう訳じゃ…」


 思わずそう言って、後悔した。

 少女は、寿矢の言葉を肯定と受け取り、一変して、表情を明るくした。


「ついてきて!君と居れば何か思い出せる気がするの!」


 記憶の手がかりを手に入れて、少女は舞い上がった。そのまま寿矢の手を取って、走り始める。

 走り出した勢いもあってか、寿矢は蹴躓けつまずきながらも、引っ張られていく。


「わ!ちょっと!君!」


 そうして、校門を出た時、少女が急に足を止めた。


「あ、まだ私の名前言ってないよね」


 くるりと振り返ると、


「私、幡代椿って言います…多分」


――多分。

 まだ、記憶が曖昧らしい。少女の挙動は控え目な時と、元の性格なのか、快活な調子が入り乱れている。

 礼儀として、寿矢も一応自己紹介をする。


「は、はぁ。僕は、谷崎寿矢です」


 椿と名乗った少女は、今までの様子からは想像できないような笑顔で笑った。


「寿矢君…で良いよね?」


「あ、うん」


「私の事は、椿って呼んでね。さ!行こう」


 半ば強引に椿に連れられ、街に駆けていく。



 ゆったりとした傾斜けいしゃの坂道を登ってほどなくして見えてくる市立住吉高校。

 その前を、黒いワンピースと銀の髪が通り過ぎた。ほかでもない、リシアだ。

 彼女は、手首につけている装飾品、青と銀のブレスレットに向かって、けれどどこに居るともしれない少年に向かって怒鳴りつける。


「まったく、寿矢は何をしておるのだ!」


 リシアは怒っていた。

 もちろんの事、原因は彼女のパートナーである少年にあった。普段ならとっくに帰ってきてもいい時間なのに、中々帰ってこない。それで、ここまで出向いてきたのだ。

 ブレスレットからあくまでも冷静なヴィザルスが告げる。


「落ち着いて下さい、殿下」


 ヴィザルスは何の悪気も無く言ったのだが、結果として、


「これが落ち着いていられるか!」


 と怒鳴られてしまう。

 リシアは、小高い坂道から住吉市を一望する。すると、近場で一際賑わっている界隈かいわいが目に付いた。


「次はあそこだ。人の気配も多い」


 そう言って、都合上つごうじょう胸にかけてきた銀と黒の十字架を見下ろす。


「そなたも、しっかりと契約者を探すのだぞ?」


 返事のように、十字架から緑の光がほろりと零れた。

 それを確認して、リシアは頷く。


「よし。では行くぞ」


 リシアは脚に力を込める。

 そうして、地を蹴り上げようとした時、ヴィザルスの声が割って入った。


「戦闘以外の状況でのそれは、寿矢殿に禁止されたのでは?」


 リシアは一瞬どきりとした。同時に、発散させられなかった力と、寿矢に対して不満な思いが、彼女の体の中を怒りとなって駆け巡る。


「〜〜〜〜〜ッ」


 そのあまり、ぎりぎりと歯軋りをさせる。けれど、約束は守らなければならない。守らなければ守ってもらえないと、自分に言い聞かせる。

 ところが、


(そういえば、寿矢だって約束破った)


 急に眉を平坦にさせた表情になった。

――寿矢が悪い。


「…ヴィザルス良い事を教えてやろう。この世は因果応報いんがおうほうだ」


 要領を得ないヴィザルスは、疑問を浮かべる。


「寿矢殿が何か悪行でも?」


 しかし、説明するのも腹立たしいリシアは、鈍感なヴィザルスを一声叱責する。


「やかましい!」


「ですが――」


 ヴィザルスがまた何かを言いかけたが、その前にリシアはその場を力強く蹴り上げ、空に舞い上がった。

 風音と浮遊感がリシアを包む。

 人気の無い林に着地し、もう一度蹴る。みるみる近づいてくる目的地。

 リシアは、その通りに掲げられた、『ながみどおり』というアーチを跳び次ぎ、瞬く間に人気の居ない横路地に舞い降りた。


「絶対に見つけてやるッ」


 そこからは歩いて『ながみどおり』に出た。ここは、寿矢の家から程近い商店街である。今は、夕食の買い物に来た主婦などで、少し人通りが多かった。

 そんな穏やかな景色の中、体中から強烈な怒気を噴出させた銀髪の少女が歩いて行く。その足取りは、怒りのせいもあってか少しだけ大股だ。

 通行人の主婦達は、異様な光景に目を白黒させている。


(なんだ!物珍しい目で見よって!)


 苛ついているリシア。たとえ周りが穏やかでも、彼女の心中は決して穏やかではない。

 リシアを中心に広がる只ならぬ雰囲気の中、それに気付いた一人の主婦が、井戸端会議を中断して、リシアの後姿を追った。

 ヴィザルスが警告する。


「殿下、追跡者です」


「構わん!」


 だが、ヴィザルスの警告も一蹴、リシアはどんどん進んで行く。

 そして、そのまま数十秒歩いた時である。


「お、お嬢さん」


 歩みの速い少女を追うのを断念した追跡者は、とうとうリシアに声を掛けた。

 けれども、リシアには聞こえていない(聞こえてはいるのだが)。

 追跡者は食い下がる。


「ちょっと待って!お願い!」


 なんだしつこい奴だな、と怒鳴ってやろうと思って振り返ったリシアの顔が驚きに変わった。怒声の変わりに彼女の口をついて出たのは、


「あ」


 という一言だった。

 彼女の瞳に映っていたのは、商店街に訪れる客層の中で群を抜いて奇抜な格好の(リシアほどではないが)、寿矢の姉、白衣を着たままの里美だった。

 里美は息を切らしながら尋ねる。


「あ、あの時の子でしょ?」


「あの時?」


 リシアは首を傾げる。


「そう。私の家に居た子でしょ?ほら、通りすがったとか…」


「ああ、あれか。そうだが?」


「あの時はありがとう。すっごく助かったの。でも、お礼しようにも、てっきり天使さんだと思ってたから…」


 里美の何とも言えない例えに、リシアは苦虫を噛み潰したような表情になる。


「天使ぃ?」


 反して、里美は嬉しそうだ。


「ええ。だってあなた、動物と喋れるんでしょ?」


「まぁ」


「それでね――」


 リシアは再び驚いた。



 一時間以上歩き回って、色々な場所へ行った。駅前、大型スーパー、病院。

 寿矢はてっきり、椿がすぐに諦めるものだと思っていたが、彼女はしぶとかった。体力もあった。それはというのも、何かを見つける度に、


「知ってる気がする」


 と言って、寿矢を連れ回したのだ。何かを見つけた時の様子は、現状の控え目な感じと違い、あの時のような、良く言えば行動的な一面を垣間見せた。

 しかし、デパートに行こうが、公園に行こうが、椿は同じ事を口にした。


「やっぱり違う」


 結果としてそうなると、椿はすぐに次の目標を見つけて走り始める。寿矢も嫌々それに続いた。

 寿矢が帰ろうとしようものなら、


「え…ご、ご迷惑でしたでしょうか?ごめんなさい私ったら気が付かなくって…」


 という具合に、謝ってくるからである。

 寿矢の性格で無下に断る事が出来る筈は無く、


「そ、そんなことないよ。次、何か思い出せると良いね」


 思わず笑顔でそう言ってしまう。寿矢は、初めて自分の性格を恨んでいた。

 そうした経緯を経て、疲労困憊ひろうこんぱいの末、そのくせ少女の記憶に関わるような物や場所には辿り着けなかった。

 結局日も暮れだして、休憩の為に小さな喫茶店に入ることになった。もちろん、快活な調子の椿の提案で。


(僕…何やってるんだろ)


 寿矢は、疲弊ひへいしきった表情でオレンジジュースを啜る。

 そんな寿矢の目の前には、先ほどからは大分落ち着いた椿が、もじもじと座っている。彼女が何をそんなに怯えているのかというと、この喫茶店の雰囲気だ。

 彼らが居るのは『喫茶デイドリーム』という小さな喫茶店で、四十代後半の景気の良い中年女性が一人で経営している店。席も、寿矢と椿が座っている所を除いて、四席ほどしかない。

 だが、夕暮れというシチュエーションも手伝って、とてもムードのある店だった。


(こ、高校生がこんな店に来て、場違いじゃないかなぁ?お、お客さんも居ないし、何か変な感じがする…)


 椿の緊張が伝染し、寿矢も硬直しはじめていた時、椿の頼んだメニューが運ばれて来た。


「はぁい、おまたせしました〜」


 と、椿の前に運ばれてきたのは、大盛りのナポリタンスパゲッティ。


「ど、どうもすみません」


 ぺこりと頭を下げる。どうやら、現在は控え目な性格らしい。


(――なッ)


 あろうことか、女性店長はさりげなく寿矢の前にもフォークを置いて、にこにこ笑いながらカウンターの中に引っ込んだ。

 テーブルの上に広がった状況が、気の知れた訳でもない二人の沈黙を誘う。


「…」


「…」


 先に沈黙を破ったのは、椿の方だった。


「わ、私達、カップルって思われてるんでしょうか?」


 もじもじしながら、赤面して俯いている。

 寿矢は慌てて話を逸らす。


「は、はは、美味しそうだね」


 だが、話を逸らすつもりが、深みへとはまっていく。


「あ、わ、私、こんなに沢山食べられないので、寿矢君も、ど、どうですか?」


「――え。いや、椿さんのだし、遠慮しとこうかな…」


 椿の気遣いに、寿矢は苦笑いで答えた。

 すると椿は真っ赤になり、慌てて、訂正する。


「ご、ごめんなさい。私ったら変な事言っちゃって…。嫌ですよね、変に誤解されちゃうし…」


 寿矢はもう泣いてしまいたかった。


「や、やっぱり貰うよ!美味しそうだね!」


 そうして、ゆっくりと、お互いに最大の遠慮をしつつ、喫茶店での気まずい時間を過ごした。特に会話はしていない。ただ、食事をしただけ。

 そして、少々の押し問答の末に、寿矢が会計を済ませた。


「ありがとうございましたー。またおこし下さ〜い」


 女性店長に爽やかに見送られ、寿矢と椿は『喫茶デイドリーム』を出た。辺りはすっかり暗くなっていて、街灯にも灯りが点いている。

 夜のはじまり、空は、薄い藍色。

 雑踏の中を歩き出した二人は、そのまま道なりに歩いて行く。


(はぁ…これからまだ歩くのかな…)


 と、先を見越してうんざりしている時だった。

 椿のおずおずとした声が、寿矢の耳に届いた。


「あ、あの…」


 また何か記憶の手がかりを見つけたのだろうか。そう思った寿矢は、内心ぎょっとして顔を上げる。

 だが、椿は深々と頭を下げていた。


「今日はありがとうございました。私の、その、記憶を捜すのを手伝ってもらって…」


「ううん、良いよ。気にしないで、僕も用事無かったし」


 寿矢は笑顔で返す。

 そんな屈託のない笑顔を見た椿は、ほっと胸を撫で下ろす。どうやらさっきの一言で、嫌われた訳ではないようだった。

 椿は、恥ずかしそうに言う。


「私…学校ではあまり友達が居なかったみたいで、こんなに人と話したの久しぶりで…その、楽しかったです」


「あ、うん。こちらこそ楽しかったよ。ごめんね、椿さんの力になれなくって」


 寿矢の言葉に首を横に振り、椿は嬉しそうに続ける。


「そんなことないです。寿矢君は私の事知らなかったみたいだけど、私は多分寿矢君の事知ってたと思うんだ」


――確かに…

 間違いではない事実に、寿矢は困惑する。確かに椿は寿矢の事を知っていた。ただ、レイサイドとして。

 椿は、まだ星の出ていない夜空を仰ぎ見る。


「不思議だなぁ〜。寿矢君を見てると変な気持ちになるんだよ」


「ど、どんな?」


 聞き返した寿矢の表情は、引きつっている。

――まさか、記憶が戻りそうなんじゃ…。

 だとしたら、どうなってしまうんだろう。また命を狙われるんだろうか。ふと、そう思った。

 当の椿は、変な顔で見詰めている寿矢に疑問を感じながら、


「ヒミツ。とにかく、寿矢君は他の人とは何か違う気がするんだよ。上手く言葉にできないけど、そう、不思議な人!」


 そう言って悪戯っぽく笑った。


(不思議な人…か)


 寿矢ははっと気付いた。今、この状況は、寿矢がリシアと出会った時の真逆ではないか。不思議なリシアと出会った寿矢。そして、椿も不思議な寿矢と出会った。


(なんか…変な感じだなぁ)


 何故か、なんとなく、ほんの少しだけ、嬉しかった。

 一方椿は、温かい感傷に浸っていた寿矢に、嬉々として尋ねる。


「あ、そうだ。明後日あさっての休みってヒマだよね?明後日も付き合ってよ」


「え、明後日?」


「そうだけど…何か用事でもあるの?」


「いや、そういう訳じゃ…あ」


 そこで、同じ過ちを繰り返してしまった事に気が付く。しかし、時既に遅しとはこの事だった。


「じゃあ決まりッ!それじゃ、明後日の十二時に駅前に集合ね〜!」


 椿は一方的にそう言い残すと、風のように走り去った。

 一人取り残された寿矢は、夜の街へ消えていく椿の後姿を見送りながら、呆然とその場に立ち尽くす。

――妙な事になってしまったな。どうしてこんな事に。

 寿矢は自分が導いた苦難に気付かない。その代わりに、もっと大きな事態に気付く事になる。


「とにかく帰ろうかな…リシアも――」


 苦笑じみた笑顔だった寿矢の表情が、みるみる青ざめていく。果てには凍りついた。

――大変だ。

 寿矢はたちどころに駆け出した。

 現在地から自宅までの距離がそれほど離れていなかったのが幸いして、ものの数分で家に着く事が出来た。谷崎動物病院。

 けれど、僅かにだが自宅の外観がいつもと違っていた。一階には明りが点いているのに対して、リシアが居る筈の二階に位置する寿矢の部屋には、明りが一切点いていない。


(変だな。リシア居ないのかな?)


 寿矢は、意を決して玄関のドアを開けた。不思議な事に、談笑の声が聞こえる。


「ただいまー」


 寿矢の声に反応して、いつもの白衣のまま、里美がリビングから出てくる。


「あら、寿くんお帰りなさい。今ね、お客さんが来てるの」


 里美はとても嬉しそうだ。


「お客さん?」


「ええ。それで、晩御飯をご一緒する事になってね。紹介するから着替えてらっしゃい」


――へぇ。姉さんにもついに恋人が出来たのかな?

 どこか寂しい感覚を覚えつつ、寿矢は笑顔で答えた。


「あ、うん。わかったよ。すぐいく」


 階段を上り、部屋に入る。

 明りも点いていなければ、リシアの姿も無い。


(リシア…出かけてるのかな?)


――それにしても、悪い事をしてしまった。


(怒ってる…よなぁ。後で捜しに行かなきゃ…)


 一抹いちまつの不安を残し、学生服を着替えて、リビングに向かった。

 そして、食卓を見て目が点になった。

 硬直している寿矢をその目に認めた里美は、客人を紹介する。


「ああ、やっと来た。寿くん、紹介するわね。こちら――」


 姉の後ろには、銀髪の少女がふてぶてしい態度で椅子に座っていた。

 冷や汗が寿矢の全身から噴き出す。


「リシアちゃん」


「〜〜〜〜〜ッ」


 心の中で悲鳴を上げる。

 一番避けたかった世にも恐ろしい事態。里美とリシアの邂逅かいこうが寿矢の居ない所で成立してしまったらしい。まさに、危機的状況。

――どうして…

 困惑して声も出ないでいる寿矢に、里美は優しく耳打ちする。


「驚いた?私も最初は驚いたのよ。でも、ちょっと不思議だけど悪い子じゃないのよ?」


 そう。驚いた。しかし、姉とはだいぶ違った意味でだ。

 金色の瞳が、一片の揺らぎも見せず、たじろぐ少年を見据える。


「えっと、あぁ、そのぉ」


「ごめんなさいねリシアちゃん。寿くんったら少し人見知りなの」


「構わん」


 一方リシアは落ち着いていた。内から込み上げる怒りを必死で抑え付けながら。

 妙な空に落ち着いてしまった谷崎家のリビング。里美の及び知らない所では、二つの思いが交錯こうさくしていた。

――うそつき!

 と、寿矢をジト目で睨みつけているリシア。

――何でここに居るんだよ!

 リシアとの約束を破った事も忘れて、焦っている寿矢。

 そんな事とは露知らず、姉の里美はにこにこ微笑みながら言い出す。


「さぁ、ご飯にしましょう」


 こうして、寿矢にとって恐怖の晩餐ばんさんが始まった。



 夜の夕闇。

 そこは、住吉市の外れの高台にある市民公園。広い敷地をぐるりと取り囲んでいる雑木林ぞうきばやし。園内を照らす街灯。その一角に、古びたベンチがあった。

――それはそこに居た。

 それの眼には、生活感が溢れる光に包まれた住吉市の街並みが映っていた。


「人間…ねぇ」


 咥えた煙草たばこから、白くたわんだ煙が風と共に夜空へと消えていく。


「この街で…連絡が途絶えたってぇのかい?」


 痩せこけた頬、ぼさぼさとした黒い髪の毛、はためく麦色のコート。猛禽類もうきんるいのように尖った瞳。がっしりとしたシルエットから、それが男である事がわかる。

 男は、溜息を一つ、不満を吐露とろする。


「ったくよぉ…。あんま気が乗んねぇなぁ」


 背後の暗闇から、艶かしい女性の声。


「あららん?ガングエリちゃんったら、そんなこと言っていいのかしらぁ?」


 まるで闇と同化しているかのように、姿は見えない。

 男は、がしがしと頭を掻くと、吐き捨てるように言った。


「わーってるよ。やりゃあ良いんだろ?やりゃあよ…」


「そゆこと。メルシューレ様の意思は絶対よぉ。どぉ〜しても、ルリンが作ったあいつが私達には必要なんだってぇ」


「ブローターからレイサイドに寝返った奴に、そんなに価値があるのかぁ?」


「あったりまえじゃなぁい。ルリンが作り出そうが何だろうが、あいつの能力は、私達の痕跡こんせきを残さないんだからぁ。と〜っても便利なのよん」


「へッ!そーかい」


「それじゃ、私の役目はここまでだからぁ。後はしっかりやるのよぉん?ガングエリちゃんは、あの子の先生なんだからぁ、し〜っかり責任取らないとねぇ」


「…あいよ」


「じゃあねぇん」


 その瞬間、影は消えた。

 ガングエリと呼ばれた男は悪意を込めて呟く。


「けッ…。レスティーの奴、生意気言いやがって。にしても本当に居るのかぁ?」


 男は尖った目で街を眺める。


「デュミールと、あの嬢ちゃんはよぉ…」


 男の手から、火の点いた煙草が落ちる。

 そして、ゆっくりと立ち上がり、それを踏んで消した。


「ま、いっちょ呼びかけてみるとするかい」


 おもむろにふところに手を入れると、何かを取り出した。

 たくまししい手の平におさまっていたのは、柿色かきいろのペーパーナイフ。

 男は、それに力を込める。

 刹那せつな、ライターが、同じく柿色に発光する。

 そして姿を変えた。

――柿色の方刃剣かたばけん

 二メートル近い刃渡り、刀身には柿色で彩られいる。男は二、三度その剣を降って手応えを確かめると、煙草を取り出して器用に片手で口に咥えた。


「火、火、あっれ?」


 片手で、ポケットをまさぐり、ライターを取り出して火を点ける。

 白い煙が上がった。


「まぁ、これが最後かもしんねぇし、吸える時に吸っとかねぇと…」


 そして、美味しそうに一息吐くと、柿色の剣を逆手さかてに持ち替えた。やにわに振り上げる。


「頼むから、変なもんが来ませんように!」


 力任せに刃を地面に突き立てる。



 その刹那、街が大きく揺れた。


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