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03・貴族→困難

 朝食後、爺さんの書斎に移った俺はアルファベット表記なんだが読み方がさっぱり分らない本を早々に諦めソファで転がってぼんやりと過した。昼食は爺さんが外出する用があるとかで一人で食べた。無駄に広い食堂が余計閑散として寂しかった。

 そして今、俺は小規模な図書室にいた。置かれている本がどれもまだ新しいのを見るに伯父さんの書斎だったのかもしれない。爺さんの書斎はもっと広いけどこの部屋も十分に広いと言え教室一個分はあった。壁は窓際以外全て本棚で塞がれていて、絵本っぽい薄手のぺらぺらした本まで置かれている。――にも関わらず、本は棚の五分の一も入っていないのはどういうことだろうか。家が家だし本が高価だからという理由とは思えないし、爺さんはこれだけの物を用意しているのだから買い渋ったわけでもないだろう。伯父さんは読書が嫌いだったのかもしれない。

 室内には畳一枚分くらいの大きさの机と椅子二脚が中央にででんと鎮座し、一脚は子供用の脚が長い物だった。窓際には俺なら寝返りを打てるソファが外に向けて置かれていて恰好の昼寝スペースと化している。まさか伯父さんはこの部屋を寝るためだけに使っていたとか、そんなことはないよ……ね? そんな羨ましいことないよね? ね?

 ぐるりと部屋を見回し、まだ単語を読めない俺は本を読んで暇を潰すことも出来ずソファに転がって待った。

 薄い紗のカーテン越しの外は明るく、たった昨日前のことだと言うのに俺と母さんをとても遠く感じさせる。日の当たる道、という単語が頭に浮かんだ。まさしくこちらは日向の道で、母さんのいるあそこは日蔭の道だ。もうきっと会えない。

 光に手を翳してみれば赤みが増した手が見える。薄すぎる脂肪の層と筋肉の層のせいで、毛細血管は赤々と日を透かしていた。握り締め、開いた。相変わらず骨ばって薄い手だ。たった二日で慢性的栄養不足の俺が健康優良児になれるわけないけど。

 扉が開く音に身を起こせば爺さんが入って来た。立って家庭教師になる人を迎える。くたびれたタキシードにところどころ凹んだシルクハット――そして、顔が何よりも印象的だった。

「私はヨナタン・ヨアヒムだ。よろしく」

「紹介しようエリク、これが儂の学友でお前の家庭教師じゃ。ちょいとクセがあるが慣れればそれほどでもない」

 その白髪混じりの茶髪の男を見た瞬間、眉毛しか目に入らなくなった。やけに長く天を突くように伸びていて、まるでシャーペンの芯を半分に折って刺したような状態だ。こんな眉毛が生える人間がいることを初めて知った。

「ああ、フォンだとか爵位だとかは気にしないでくれたまえ。爵位ほど無駄な数式はないのだから」

 なんというかサヴァンっぽい。……なんで上流階級にはこんなにネタがたくさんあるのだろうか。爺さん以外の全員が何かしらのネタ持ちじゃないか。サヴァンのような発言をした男――ヨアヒム氏は長い眉毛をくいっと動かした。なんというか、あの眉毛光合成でもしているんじゃないだろうか? 先端に行くほど空に向かって直角になっている。

「――君、名前をなんというのかね? エリク、ふむ、良い名前だ。これから私のことは先生と呼びなさい」

 俺が名乗るとヨアヒム氏は呼び方を決め、満足そうに頷いた。そして爺さんを振り返って口を開く。

「私が机の前で教えるものは文字と簡単な計算だけだ。それで良いかねハル」

「たったそれだけで終えるつもりではなかろうな、ヨット?」

「まさか。私は机の上などでは真理は掴めないと知っているのだよ。文字? 計算? 出来て当然。机というものは真理を追究するには邪魔でしかないのだ」

 爺さんと先生は二人の世界を作ってしまい、しばらく二人の話を聞いていたが、居場所のない俺は再びソファに倒れ込んだ。学生時代からの友人ということは二人の付き合いは長いのだろう、同世代にしか通じない単語やネタを出されても俺にはさっぱり分らず付き合いきれない。まるで妹が家に友達を呼んで来た時のような……意味の分らない専門用語が飛び交い怪しげな笑い声が響く「あれ」に似た雰囲気がどこかあった。

「さあ、我が生徒よ。しばらく待たせたようだ――細かく言うならば十分五十四秒。さて、私の言いたいことが分るかね、エリク」

 爺さんが出て行ったあと、俺は脚の長い椅子に座り先生と向かい合って座った。

「分りません、先生」

 知り合ったばかりの身で相手が何を言いたいのか理解するのは難しいと思います先生。

「五分あげよう。君も私が何を言いたいか――この数字の素晴らしいところが分るはずだ」

 サヴァン、じゃなかったヨアヒム氏は髭を抜きながら言った。抜いた髭をペペッと床に捨てている――細かいことを気にしない性質のようだ。

 俺は十分五十四秒という数字が何なのか五分間たっぷりと悩んだ。秒で言うと六百五十四秒、言葉遊びの駄洒落ではないだろうことは何よりも明らかだ。

「正確には五十四秒ぴったりではないのだが……見たまえ」

 先生は首をめぐらせて一点に目を止めた。目で指されたそれは置き時計で、時間は二時十五分を過ぎていた。

「あれは何か分るかね」

「分りません」

 俺はあれが時間を示すものだと言うことは知っているが、それをスラム育ちの「エリク」が知っているのはおかしい。それ以前に時計をここの言葉で何と呼ぶのか知らないから答えようもない。ついでに数字も、九十台までは規則正しく「三と七十」のように言うから分るのだけど、百以上の単位となるとさっぱりだ。百以上の数字なんて路上生活で必要ないからね。

「あれは『時計』と言うのだよ。現在の正確な時刻を教えてくれる」

「とけい、ですか」

 『とけい』と口の中で何度も繰り返す。第二言語の習得が面倒なのは既存の名称の知識があるせいだろうな……日本語を話したいと生まれてこのかた何度思った事か。でもここの言葉ドイツ語と類似しているし、そう悪い物でもないよな。Märchenの本場にときめいてしまうのはサンホラーとして当然だ。でも全ては陛下が悪い。素敵すぎるのが悪い。Romanのようにフランス語でも良かったのだけど、やはり一度死んだ俺にはMärchenが似合いなのかもしれない。メルメルの言う通り『死んでから出直して来た』ことだしメルメルも良くやったねって褒めてくれるかもしれない。

「今は二時十七分だ。後で時計の読み方も教えねばな――そうか」

 先生は何かに気付いたらしく目を丸めた。先生を見上げれば顎髭を引っこ抜くところで、プチンという音が何故か大きく響いた。

「アチッ!……あぁ。君はまだ時計という概念さえ初めて知るのだったね。私も口先では理解していたが頭では理解できていなかったようだ。先ず時計の読み方と時計の目的を教えようか」

 その摘まんでいた髭を抜くつもりがなかったのか先生は大げさなほど肩を跳ねさせ、抜けた髭を見て悲しそうにため息を吐いた。こういう形の髭をなんと言うのだか……カイゼル髭? カウゼル髭? まあ良いや。立派な口髭だとは思うのだが、眉毛のお手入れはしていないのを見るとどうも違和感が拭えない。その立派なお髭と対照的にもっさりしているその眉毛さんは何なのか、突っ込んで欲しいのかそれともお洒落のつもりなのか、さっぱり分らない。

「立ちたまえ。時計を見ながらの方が良く分るだろう」

 先生に後に従って大きな置時計の前に立つ。金色の振り子が右に左に揺れていた。頭の中で懐かしい大きな古時計が流れた。二番が何故か某州知事の替え歌になったけど。

「この細長い針が一周すると六十秒、それを一分と言う。分るかね」

「はい」

 説明不足も甚だしいな……。俺は元々知っていることだから突っ込んだりしないが、ただの子供なら「秒って何」「分って何」と質問攻めにするだろう。

「そして一分と言うのはこの点からこの点までのことを言う」

 指差しながら先生は簡潔すぎる説明をした。先生、俺みたいな転生者でもないとそれだけの説明では理解できないと思います。

「時計の読み方の問題を出そうか……少し待ちたまえ」

 先生はぱっとテーブルに向かうと羊皮紙を引き寄せ、さらさらと何か書き始める。そして三つほど円を書くと短針と長針を書いて何時何分なのか答えるように求めてきた。それも筆記で。――この人、教師に向いてない気がする。いや、気がするどころじゃないか。「全く向いてない」んだ。俺はまだ書き方を学んでいないし数字も形が違って読めない。本当にこのおっさんに学んで身に着くのか不安だ。

「あの……」

「どうした、書かないのかね?」

「文字が分りません」

 先生は手を打ってそういえばそうだったと呟いた。爺さん、本当にこの人に俺の家庭教師任せちゃって大丈夫なの? これからがとてつもなく不安で仕方ないのだけど。

 それからやっと俺が誘導してABCの書きとりを始めたが、羊皮紙に練習するのは勿体ないと思いざら半紙がないのか聞こうとして、ざら半紙をなんと呼べば良いのか分らず挫折した。それに、スラム育ちの子供が「羊皮紙はもったいないのでもっと安い紙で練習したいです」なんて言うわけにもいかない。

「これはこれは――ミミズののたくったような文字だね」

 先生の書いた手本を前にABCを書いていったが、今日の朝食と同じくらい恥ずかしい現状に泣きたくなった。慣れない羽ペンに字が軟体動物と化し読めたモノじゃないのだ。万年筆はまだ作られていないのだろうか? ボールペンの有難味が良く分る。あのゲルインクってどうやってインクをゲル状にしているのだろうか……増粘剤かな。でも増粘剤と言ってもどんな薬品なのか知らないから作れるわけないし。

 先生は俺の文字を見て要練習だねと言い、俺もこんな悪筆のまま一生を過ごしたくなんてないから練習に打ち込むことを心に誓う。

 そして、先生が俺の文字もどきの横にサラサラと流麗なアルファベットを書くのを見ていて気が付いた。先生はサラサラと書いている。俺はガリガリと書いている。――俺は筆圧が強すぎるのかもしれない。バキリと何度もペン先が折れて、その度削り直した羽ペンを見る。次はもう少し「サラサラ」を心がけて書いてみようか。

「もう一度書きたまえ」

 羊皮紙を返され、今度は筆圧をそんなに上げないように書いてみる。ペン先は折れなかったが字が掠れた。

「もう少し力を入れた方が良いようだね」

「はい」

 繰り返すうちにマシになってきた文字を見て少し安堵する。誰の逸話かは忘れたが、物凄い悪筆の詩人(だったと思う)がいて、書いた本人さえ読めないような文字だったとか。弟子が唯一その文字を解読できたのだが、ある時どうしても解読できなかったため弟子は詩人に聞きに行った。詩人はその詩を見て一言「何で早く持って来なかったんだ。もうなんと書いたか忘れてしまったじゃないか。もうこの詩の内容は神のみぞ知るものになってしまった」。――こんなことには冗談でもなりたくない。みっともない以前の問題だ。

 それにしても筆記体というものは慣れない人間には何かの一筆書きにしか見えない。文字と言うよりも記号、記号と言うよりも暗号……中高大と筆記体とは無縁に生きてきた俺にはどうも気色悪い書き方だ。英文学部に進んだ友人が「原文とかマジ無理、なにあれ暗号の解読?」と零していたのを思い出す。だが同じように日本古典文学に進んだ友人も「ミミズが悶え苦しんでるようにしか見えない」と愚痴を言っていた。どこの国も同じなのかもしれない。

 アルファベットを上手く書けるようになってノリノリでABCと書きまくっていた俺に、先生がじゃあ一から十まで書いてみようかと言った。一というと――アインだからainだろう、と思って書いたら上にバッテンを書かれた。何でだ。

「一はEinだ。eiでアイと読むだろう」

 いや、知らないから。なんだか物凄く理不尽な気がする……スペルの法則とか教えてもらってないのに。というか、この方法で上手く身に付く気がしない。先生は家庭教師には向いてないと心底思う。爺さん家庭教師チェンジして! 誰かもう少し名の知れた老先生とかにチェンジ! この人家庭教師に向くタイプじゃないよ!

「それではトゥフィーだ」

 二はtvayじゃなくてZwaiだとか。英語のスペルのつもりで書いては駄目なのだろうと思いはしたけど、スペルが分るかと言えばさっぱりなのだ。もう俺この先生嫌だ……。

 内心滂沱の涙を流しながら二時過ぎから五時半までの勉強を終えた俺は頑張った方だと思う。今晩もっと分りやすい家庭教師の先生に代えてくれるよう爺さんに頼むつもりだ。こういうタイプの教師はある一定以上の教育を受けた人間に講義をしたりする方が合っている。

 夕飯まで一時間あるというから一人で書きとりの練習をして、ミーシャおばさんに呼ばれて食堂に付いたら爺さんはおらず先生がいた。先生はこれからしばらくこの屋敷に泊って俺の教師をするらしい。なんてことだ……。

 そして寝る前にミーシャおばさんに「風呂は?」と聞いたら「そう毎日入るものではないでしょう?」と不思議そうに目を丸められた。俺が風呂に突っ込まれたのはスラム生活ため汚すぎるからであって、この世界では風呂には毎日入るようなものじゃないらしい。スラムで体を洗わない生活をしていた俺が言うのもなんだが、貴族も汚いよな。香水はファ○リーズみたいに香りで悪臭を抑え込むものじゃないと思うんだ。

 これからの貴族生活不安ばかりだ。俺はこれからどうなるのだろう……。

 東北関東大震災に被災されました方々には遺憾の意を。現在避難生活を送られております皆さまの気がまぎれれば幸いです。

















 ところで、お気に入り39件、評価15Pずつ有難うございます!

 合計が108Pだったので「水滸伝キター!」とか思っています。ゲーム派ではなく横山光輝の漫画版派です。


 水滸伝のような壮大な物語を欠けたら良いな、と日々研鑽であります。

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