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01・底辺→天辺(周辺)

 俺が生まれ育ったのは初めの想像の通り治安なんてものをどぶに捨て去ったストリートで、文字なんて勉強できるわけないし日課は残飯漁りだし石投げられるし、世界観なんて理解するよりも明日のご飯探すのが先と言う……下の下な生活だった。初めて泥水啜った時は少し泣きそうだった。でも、両親に何故俺を産んだのかと言った事はないし憎んでもいない。

 どうして彼らを嫌えるだろう? 汚い姿なのは服がないからだ。学がないのは勉強する場がなかったからだ。常識外れなのは違う常識の元で生きてきたからだ。彼らにはどうしようもないバックグラウンドなのに、どうして嫌悪感を抱けるだろうか? こんなにも両親は俺を愛してくれているのに。

 両親である二人はなるほど世代交代の早いストリートチルドレンらしく十二三で俺を産んだため、まだ十代というミラクル。俺? 俺は今六歳ですよ。死ぬ前の俺より若い両親に変な感じもしないではないが、周囲も似たようなものだし慣れた。

 この数年は俺が一番年下で、精神は大人に劣らないはずなのに子供扱いされている。四年前には四歳の子が、三年前に二歳の子が病気で死んだ。死産だって良くあることだ。清潔な環境とは言い難いし、ここでは子供が死ぬことはごく当然のことなのだ。

 だけど俺はいつまでもこんな場所にいるつもりはない。きっと金持ちになって見せる。前世の知識を総動員して成功をこの手に掴むのだ!

「エリク、エリク。そこにいるのか?」

「うんいるよ、母さん(ムッティ)。何か用?」

 母さんだ。路地裏の、一般家庭の子供なら立ち入りを禁じられている物騒な区画、その一角に俺と両親の住む家がある。家の中から呼ばれた俺は考えるのを一時やめて中へ走った。そう言えば最近は剣を持った変な奴等がここらへんをうろついているようだが、今のところ俺の両親も友達も無事だ。一体なんなのだろうな?

「どうかしたの、母さん」

 家と言っても崩れかけたレンガの壁に大部分が崩れた屋根という、雨露が微妙にしのげないバラックだ。母さんはぼんやりとしていた。まだ十代のはずなのにもうその顔には皺が深い。環境がそうさせるのだろうか。俺は心配を滲ませながら母さんに声をかけた。ゆっくりと母さんが俺を振り返る。その目はとても、悲しそうで。

「ごめんな……幸せになれよ」

「へ? ど――」

 玄関の影から突然現れた影に手刀を落とされ、俺は気を失った。




 目覚めたのは温かい布団の中だった。今生でこんな柔らかい布団で寝たのは初めてのことだから目を剥いて驚いた。一体何があったんだ?

「お目覚めですか、エリク様」

 見回せばどっしりした布――つまり上等な布――のカーテンがかけられた天蓋付きベッドの上に寝ていたようで、部屋はベッドの五倍くらいの広さがある。前世のアニメ知識から考えるとここは寝室か客室なのだろうけど、俺がここで寝かされている理由が分らない。

 口を半開きにして呆然としていると、堅そうな扉からノックが聞こえメイド服を着た女性が入ってきた。「メイド萌え!」なんて言えそうにないおばさんだ。

「あの、ここ、どこ」

 俺は警戒を滲ませておばさんを見る。誘拐か――? でもこんな臭い餓鬼を誘拐して何になるっていうのだろうか。どうやら寝ている間に体を拭かれて服を着せかえられたようだけど風呂には入ってないようだ。髪が汚いままだ。シラミやノミがベッドに移ったりしてないよな?

「それは私にはお答えできかねます。お目覚めになったのでしたら湯浴みを……。当主様に面会して頂きますので」

 当主と面会? 誘拐じゃないのか? いやでも誘拐してきた餓鬼をどうして客室のベッドに寝かせるだろうか。綺麗にしたいなら無理矢理叩き起こして水をぶっかける方が早いし。内心首を傾げながらおばさんの後をついて部屋を出る。磨き上げられたタイルの床は上品なコツコツと言う音を響かせ、生まれてこのかた靴なんて履いたことのない俺の足がペタペタと鳴る。おばさんが不審そうに俺を振り返り足元を見て目を見開く。

「どうして靴を履いていらっしゃらないのです?」

「靴?」

 靴なんてあったのか。と言うかこの足はもう靴なんて窮屈なものは履けないぞ。瓦礫で鍛えられた分厚い足裏の皮を見せれば、おばさんは嫌そうに顔を歪めた。

「湯浴みを終えたら履いて頂きます」

 なんというか、嫌な感じだ。俺の育ちが悪いと馬鹿にしているのだろうが、上流階級の常識がどこでも通用すると思っているのかね。前世があるとはいえ俺は最下層生まれの最下層育ち、お上品に育てられた人間と異なるのは当然だろうに。

 廊下を十分ほど歩いたか……。無駄に広い屋敷内の端から端まで歩いたような気がするが、これでもまだ廊下は続いている。導かれた部屋には猫足の浴槽が置いてあり、三人のメイド――みんな中年――がその中にお湯を注いでいた。ほかほかと上がる大量の湯気は懐かしさを湧きあがらせ、なんだかどきどきした。風呂に入るなんて今生で初めてだ。大の風呂好きな俺は前世では温泉地で宿をはしごしたことがある。中でも一番好きなのは雪見風呂だな。露天風呂で一杯、なんてことも頻繁にした。一杯どころか二本とか飲んだけど。友人を連れこんで溺死しないように気を付けてもらったのは良い思い出だ。

 俺がぼんやりと浴槽を眺めていたのが悪かったのか、俺はおばさんに着ていた服を脱がされ素っ裸にされた。パジャマらしいそれは丸めて横に放り投げられる。なんというか雑な扱いだ。

「さあ、ちゃんと洗われて綺麗になってくださいね」

 おばさんは三人のメイドに目で命じると部屋を出て行った。俺は優しく引っ張られて浴槽に突っ込まれ、頭のてっぺんから足の先まで泡だらけにされた。――お湯に大量の垢と泥やなんやが浮かんだのには我ながら仰天したけど、それ以上にメイドが引いていた。仕方ないだろ、一度も入ったことなかったのだから。近くの川? 泥川だけど何か?

 それからお湯を三回張り替えて六年の汗を落とした俺は驚いた。持って来られた姿見に映る俺の髪は霞んだ黒なんかじゃなくて灰色で、それもどういった仕掛けか知らないが毛先に行くほど色素が薄く根元ほど黒い。ゴマプリンみたいだ。鏡なんて見たことがないから自分の瞳の色だって見るのは初めてだ――底に銀箔を散らしたように輝く、色素の薄すぎる灰色の瞳。姿見をベタベタ触って自分の顔を覗き込む俺をメイドたちは初めて鏡を見るからだと判断したのか何の文句も言わず、俺はおばさんが持ってきた靴を無視してひたすら自分の顔を見た。少々やせぎすと言うかゲッソリした体格だが、将来が楽しみな美少年じゃないか。これじゃ誘拐されるわけだ。あれかね、太らせて――標準の体重に――から囲って性奴隷ルートですか。少年好きな伯爵夫人とかが美少年を集めて逆ハーレムとか? これだけ顔が良いとそう思ってしまう。

 そりゃあハーレムメンバーになれば職業の自由とかはないかも知れんが、最下層で泥水啜っているよかずっと人間らしい生活が送れる。美食とか温かい布団とかの幸せは得られるだろう。でもなぁ……母さん、俺はそんな幸せなら欲しくなかったよ。

 おばさんに履かされた靴は革製で固く、俺の柔軟な足には締め付けがきつい。歩きにくくてふらふらしながらまだ歩くこと十数分――もしかしたら二十分。当主様とやらの部屋に着いたらしく、俺はまたおばさんに室内に放り込まれた。なんてババアだ。

 部屋は応接室かそれとも執務室か……執務室かね、本棚とか凄いし、机も立派だし。執務机の前には四人がゆったり向かい合って座れるローテーブルとソファが置かれ、上座に一人用のソファ、そしてそこに座る初老の男性。男性? え、もしかしてこれ俺お尻の貞操失うフラグ? やだ怖い助けて母さん。

 おっさん――いや、爺さんか――は俺にソファに座るように促した。俺は右手のソファに腰かけ爺さんを見る。ついでに座ったのは一番扉に近い端っこだ。身の危険がある限り近付かんぞ。

「よく来たの、エリク。儂はお前の祖父シャルフ公ハルトムートじゃ」

 は? どういうことだ? 目を丸くした俺に爺さんが語りだす。――まだ説明してくれとは言ってないのだが。

 爺さん曰く、母さんは本来なら貴族の息女として育てられるはずだったらしい。しかし双子の兄がいたので捨てられ――この世界のお貴族様達は双子を忌避しているらしい。まあ、市井では双子は受け入れられているが。双子だから捨てるとか言っていられないからな。この捨てたと言う話の時、爺さんは強硬に反対したが爺さんの父親が許さなかったとかなんとか、どうでも良い弁明が三十分くらい続いた――偶然通りかかったストリートチルドレンに育てられた、らしい。これは母さんから引き出した情報なのだとか。

 で。母さんの兄である息子がついこの間落馬して死んでしまい、他に兄弟がいなかったため急きょ昔捨てた娘を探せと言うことになった。でもやっと見つかったその娘、つまり母さんはとっくの昔に結婚しており、果ては子供までいる始末。母さんへの再教育は大変だろうが信頼できる分家の息子を婿養子に取ろう、という計画を立てていた爺さんは早くも挫折した――代わりに、新しい計画が持ち上がった。俺を教育すれば良いのである。下層の住人の血が混じっているとはいえ俺は直系男子、それもまだ六歳だ。今から家庭教師でも何でも付ければいっぱしの貴族に育てることができると爺さんは考えた。らしい。

「身勝手だね、貴族って」

「貴族とはそういうものじゃ」

 しかしこんな理不尽過ぎる命令を下したわりに、爺さんは思考回路が現代的だ。何も説明せず「今日から儂がお前の爺さんだ、さあ勉強しろ」と無理矢理勉強させるという手もあっただろうに、餓鬼に対してまで理性的に説明をする。餓鬼は見てないようで見ているし聞いていないようで聞いているものだからな、一方的に怒鳴り付け命令するよりも分り易く説明してくれた方が理解を示すことが多い。餓鬼だと思って見下さないその精神は称賛するべきだと思うね。でもだからと言ってすぐにハイそうですかとは言えない。

 爺さんは話している間ずっと辛そうに顔を歪めていた。――こんな世界だ、親子の繋がりは転生前の両親と比べ太く固い。母さんが自ら俺を手放すなんて考えられなかった。考えたくなかった。

「……どうして母さんは俺を捨てたの?」

「捨てたのではない! 儂が引き取ればお前がもう汚い恰好もさせず冷たい飯も食わさせずに済むと、そう説得したのじゃ!」

 ストリートチルドレンは上昇志向が大きい。自分たちだって言葉を理解できる人間なのだ、あの文明の利益を享受したいと望むのは当然だろう。――誰もが望む、上層の生活。それが目の前に転がっている。この汚い町に住む誰もがその果実を欲し、だが手は届くことなく空を切る。それが我が子に与えられようと言うのだ。どうすれば良いか分るからこそ、母さんには断れなかった。

「――うん。分った」

 頷く。だって分ってしまった。下層階級で生きるのは常に前線で味方の支援なく戦うのに等しい。食糧の補給はない、服の配給もない、敵軍は活力に満ちいつでも戦える構えで、こちらはただ蹂躙されるのを待つだけの日々のようなものだ。誰だってそんな捨てられた軍にいたくないし我が子を来させたくもない。安全な本陣に送れるなら喜んでその手を離すだろう。つまりはそういうことだ。

「分った……」

 二年前には同い年の女の子が貴族の馬車に轢かれて死んだ。去年は視界の邪魔だと言ってゴミあさりをしていたおじさんが滅多斬りにされた。数か月前には振られてイライラしているという理由で十五の姉さんがレイプされた。その姉さんにはここしばらく生理が来ていないそうだ。

 上層階級の奴等は俺たちを同じ人間だと思っていない。轢き殺しても「邪魔なモノがぶつかった」としか思わないし、滅多斬りにしてもレイプしても罪悪感はないのだ。俺たちの命の重さは塵芥よりも軽い。誰だって我が子を砂絵のように風に散らしたくなんかない――だからこそ母さんは選んだ。俺を手放す覚悟をした。気持ちが分るが故になんとも言えない……俺としてはこれからも会いに行きたいが、きっとそれは母さんと父さんを困らせるだけだろう。今生の別れがあんなだなんて全く酷すぎるが。

 そう言えば、俺を引き取るとか言うこの爺さんは偉いのだろうか? 縁を切った娘の子供を引き取ってまで血統を守らなきゃならん家というくらいだ、きっと物凄く偉いのだろう。貴族の階級の順序なんて覚えてないが、きっと特に偉い地位の一つに着いている違いない。屋敷広いし。

「ところで爺さんって偉いの?」

「うむ? ああ、権力としては国王陛下の次じゃ」

「……は、はぁ」

 どうやら俺は最下層から最上層に来てしまったらしい。シャルフ公だっけ? それを俺が継ぐのだよな……不安だ。物凄く不安だ。ライトノベルとかを読んでいる限り王宮は陰謀のるつぼ、そんな中で人生の大半を過ごすことになるのだから。

「帰りたくなってきた……」

 爺さんは良い人なのだろう、うん。だが、こんな偉い地位をいきなり目の前に突きつけられても困る。

「いや、帰らないよ?」

 爺さんが縋る目で見てきた。怖くとも一度頷いたんだ、背負わなきゃいけないのだとは思う。だけどさ、六歳児に何を求めているの? もしかしてさっきの説明って自己正当化のためじゃないよな?「自分はちゃんと説明したのだから大丈夫」なんて正当化じゃないよな? 何か爺さんが隠している気がするのだけど気のせいだよな?

 爺さんが誤魔化す様に手を叩いた。

「テレーゼ! テレーゼ、エリクを部屋へ」

 ……テレーゼ?

 俺が衝撃を受けている間に入ってきたのはさっきのおばさんで、しかつめらしい顔を崩さず俺を見下ろした。見下ろしたと言うより見下したと言う方が正しい気もするが。態度悪いなぁ。俺が何かしたか? 靴を履かなかっただけだろうに……育ちが悪いからかね?――ということはこのおばさんは差別主義者か。嫌なもんだ。

「エリク様、どうぞこちらへ」

「うん」

 だけど俺にはおばさんを嫌いだと爺さんに言う権利はない。中年ってことは古参なのだろうし、爺さんの傍に控えているのだから信頼されているに違いない。それを俺の好き嫌いで処分するのは躊躇われる。俺は謙虚でチキンな男なのさ!……自分で言うと空しくなるなコレ。

 それに嫌いな理由も理由だ。俺を見下している、というのはまあ解雇には十分な理由だろう。こんなでも一応当主の孫なのだ、その孫をさしたる理由もなく見下すなんて行為は許されない、と思うんだが。そうだよな? 貴族社会なのだし。ライトノベルとかでしか知らないけど貴族社会は完全に身分ありき、血統ありきのはずだからな。でも俺がこのおばさんを嫌いな理由はもう一つあって、それはごく個人的なことなものだから全く言い訳にならない。

 でもな、言わせてくれ。俺はメルの母さん(ムッティ)と同じ名前の中年太りババアなんて見たくない。その名前はもっとこう、上品でお淑やかだけど芯の強い女性が名乗るべきだ。お願いぴこ魔神、インドカレー!

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